部出身のドルベジン・ハトゥンより生まれ、同母兄弟には雲南王フゲチがいたという。兄のチンキム・マンガラ・ノムガン・フゲチらがそれぞれ燕王・安西王・北平王・雲南王に封ぜられて自らのウルスを形成したのに続き、アウルクチは至元6年(1269年)に西平王に任ぜられた。『集史』「クビライ・カアン紀」には「[クビ...
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アウルクチ アウルクチ (ジャライル部) - モンゴル帝国の将軍。 アウルクチ (西平王) - モンゴル帝国(元)の皇族。クビライの子。 このページは人名(人物)の曖昧さ回避のためのページです。同名の人物に関する複数の記事の水先案内のために、同じ人名を持つ人物を一覧にしてあります。お探しの人物の記事...
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忽哥赤) 七男 アウルクチ(西平王 奥魯赤) 八男 アヤチ(アバチ、愛牙赤 大王) 九男 ココチュ(寧王 闊闊出) 十男 クトゥルク・テムル(忽都魯帖木児 王) 十一男 トガン(鎮南王 脱歓) 十二男 名前不詳(一部写本ではアウルクチ اوغروغجی Ūghrūqchī) 「十子:長 朶而只王;次二 皇太子真金、即裕宗也;次三...
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アウルクチの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では鉄木児不花(tiĕmùér bùhuā)、『集史』などのペルシア語史料ではتیمور بوقا (tīmūr būqā) と記される。 『元史』・『集史』ともに西平王アウルクチの長男であったと記す。なお、『集史』は「彼(アウルクチ...
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王マンガラに、モンゴリアを北平王ノムガンに分封した。これに加え、クビライはフゲチを雲南王に封じて雲南方面に出鎮させ、アウルクチを西平王に封じてチベット方面に出鎮させた。フゲチ、アウルクチの所領はチンキムらの王国より比較的小規模であり、安西王マンガラの統令下にあったものと見られる。...
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西平王アウルクチの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では搠思班(shuòsībān)、『集史』などのペルシア語史料ではشاسگبه(shāsgba)と記される。 チョスバルはアウルクチの子でチベット方面の経略を委ねられたテムル・ブカの息子として生まれ、「鎮西武靖王」の地位を得て父の活動を継承した。...
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西平王アウルクチの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では老的(lǎode)と記される。 ラオディの祖父のアウルクチはクビライから「西平王」に封ぜられた人物であり、その一族はチベット方面の経略を担当してきたが、ラオディのみは至大2年(1309年)に雲南王...
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至元9年(1272年)にはセチェン・カアン(クビライ)の命によって西平王アウルクチやアルグ・テムルらとともに雲南北部の建都攻略に参戦した。この後、トゥクルクは銀印や5つの金符・銀符を与えられている。至元11年(1273年)にはサイイド・アジャッルが雲南に派遣さ...
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二小王国(にしょうおうこく)は、モンゴル帝国のクビライが5人の子を分封してもうけた5つの王国のうち、庶子2人が封ぜられた西平王国・雲南王国(後の梁王国)を指す。 西平王国は、クビライの七男のアウルクチを祖とし、青海地方をのぞくチベット全域を支配、雲南王国は、同じく六男のフゲチを祖とし、大理王国の旧領をそのまま管轄した。...
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至元21年(1284年)6月、トガンは父のクビライから鎮南王に封ぜられ、7月にチャンパ王国を征服するよう命じられた。鎮南王位は大元ウルスの制度において6階級中第2位に位置する高位の王号で、第4〜5位の王号しか与えられなかった他の庶子(フゲチ、アウルクチ、ココチュら)に比べると破格の待遇であった。これはク...
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クンガ・サンポの乱(クンガ・サンポのらん)は、1275年にチベット仏教サキャ派のポンチェンであるクンガ・サンポが大元ウルスに対して起こした叛乱。 サキャ派の座主であったパクパは西平王アウルクチ率いるモンゴル軍の助けを得て叛乱を平定したため、モンゴル(大元ウルス)によるチベット支配が一層進展する契機となった事件であると位置づけられる。...
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哲学者ロジャー・ベーコンがフランシスコ会で断罪され投獄される。 1269年 マリーン朝がムワッヒド朝を滅ぼす。 パスパ文字が元の国字として公布される。 クビライの庶子アウルクチがチベット東部を支配する西平王に封じられる。 ボナヴェントゥラが『清貧擁護論』を執筆。 1270年 フランス国王ルイ9世による第8回十字軍。ルイ9世はチュニスで熱病にかかり死去。...
120 KB (14,369 words) - 10:59, 1 January 2025
モンゴル軍に降り、その婿の阿宗は建昌の守備を任せられた。 1272年(至元9年)正月には「建都蛮(ガインドゥの蛮)」が叛乱を起こし、西平王アウルクチ・南平王トゥクルク・四川行省のイェスデルら率いる討伐軍が派遣された。この叛乱ではタンジル、スゲ、バイダル、ヤガン・テギン、劉恩ら武将の活躍によって平定された。...
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新都城が完成し、クビライはこれに永昌府という名を賜った。これ以後、永昌府はコデン・ウルスの本拠地となる。至元12年(1275年)には安西王マンガラとともに、クンガ・サンポの乱平定のためチベット方面に遠征するアウルクチに援軍を派遣した。至元14年(1277年)にはジャムチの管理が負担になっていること...
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投下 (モンゴル帝国) (section コンギラト部昌王アルチ・ノヤン家)
平王」位と「太平路」の投与がセットで行われている。 このような王位の授与はモンゴル社会にも大きな影響を与え、大元ウルス崩壊後にも長らく投下領にちなむ「王号」は用いられた。例えば、15世紀半ばに有力であったカサル家のボルナイは元代の王号「斉王...
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白蘭王(びゃくらんおう、ペーレンワン、ワイリー方式:pa'i len dbang; 蔵文拼音:པའི་ལེན་དབང།)とは、大元ウルス統治下のチベットにおいてサキャ派コン氏に与えられた称号。大元ウルスで定められた王号の序列の中では第3位(金印駝紐)に位置づけられる。...
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安定王(あんていおう)は、中国で皇族が封じられた諸侯王としての王号。 封地の安定郡は、現在の甘粛省から寧夏回族自治区のそれぞれ中南部に置かれていた郡である。 封じられた人物には、以下の例がある。 劉瑤 - 三国時代の蜀の劉禅の子。 拓跋弥 - 北魏の明元帝の子。太武帝の弟。 拓跋休 - 北魏の景穆太子拓跋晃の子。文成帝の弟。...
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荊王(けいおう)は、中国における諸侯王の王号。 荊王に封じられ、あるいは号した人物には、以下の例が挙げられる。 前漢 劉賈 北周 宇文元 唐 李元則 李元景 李選 遼 耶律道隠 北宋 趙曦(追贈) 金 完顔洪靖(女真名:阿虎懶) 完顔守純(女真名:盤都) 元 イェス・エブゲン トク・テムル 清 牛宏升(捻軍の反乱指導者)...
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燕王 (category 中国の王号)
燕王(えんおう)は、中国における諸侯王、あるいは地方政権の君主の王号。燕は今日の北京市および河北省の一部にあたる。 燕王に封じられた、あるいは号した人物には、以下の例が挙げられる。 戦国時代 戦国七雄の一国である燕の君主。易王から喜まで8代が王を号した。 秦朝末から楚漢戦争期 韓広 臧荼 前漢 臧荼...
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趙王 (category 中国の王号)
趙王(ちょうおう)は、中国における諸侯王、あるいは地方政権の君主の王号。 趙王に封じられた、あるいは号した人物には、以下の例が挙げられる。 戦国時代 趙の君主。恵文王・孝成王・悼襄王・幽繆王の4代が王を号した。また、恵文王の先代の武霊王にも諡号として王号が贈られた。 代王嘉 - 趙の亡命政権である代の王。最後の趙王ともみなされる。...
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て帝位継承戦争で功績を挙げ、衣服・弓矢・鞍勒を下賜されている。 帝位継承戦争の終結後は父同様に四川方面軍に配備され、至元9年(1272年)には西平王アウルクチによるガインドゥ/建都(現在の西昌市)出兵に従軍している。この時の功績により昭勇大将軍・羅羅斯副都元帥・同知宣慰司事に昇格となった。その後、チ...
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えることになり、それで[十分]制圧できます」と進言したとあり、『元史』の記述とあわせて純モンゴル兵を率いる安西王マンガラ・諸王ジビク・テムルと、チベットでの現地徴発兵を率いる西平王アウルクチ・駙馬ジャンギらによってヘルナムチャロクツァン(ギャンツェ付近の城塞)に拠るクンガ・サンポは討伐されたようである。...
26 KB (4,213 words) - 08:00, 24 August 2024