セチェク妃子(モンゴル語:Цэцэг хатан 、中国語:齐齐克妣吉または栖栖克、彻彻克、阿勒坦妣吉、? - 1453年?)は、オイラトの首長で、清朝皇帝以前の非チンギス・カン裔としては唯一ハーンに即位したモンゴル貴族であるエセン・ハーンの娘。史料によっては名はセチェク・ベキと表記される。...
4 KB (520 words) - 10:32, 10 July 2024
バヤン・モンケ・ボルフ晋王 (category プロジェクト王朝項目)
möngke)とも表記される。 ハルグチュク・タイジが巻狩り中にトクモクのイェクシ・モンケという者に殺されたため、妊娠7カ月のセチェク妃子は従者のイナク・ゲレとともに、父のエセン・ハーンのもとに身を寄せた。3ヶ月後の1464年、セチェク妃子は男の子(バヤン・モンケ)を生むが、ボルジギン氏の生き残りであるとし...
6 KB (717 words) - 00:29, 5 February 2025
ンケという人物に気に入られ、そこでしばらく暮らしたが、アク・モンケの弟イェクシ・モンケがハルグチュクに嫉妬して殺害してしまった。 同時期、エセンは自らがハーン位に即くために多くのチンギス・カン裔を殺戮したが、自らの娘セチェク妃子とハルグチュク・タイジの長男バヤン・モンケのみは殺戮を免れて生き残った。...
10 KB (1,486 words) - 05:54, 23 June 2022
エセン・ハーン (category プロジェクト王朝項目)
ラヒム王、イルヤース王という息子を得ていた。この2名は後にウマサンジャ王と仲違いして南下し、メクリン部及びヨンシエブ部の族長となっている。 娘のセチェク妃子はハルグチュク・タイジ(トクトア・ブハの弟のアクバルジ晋王の子)と結婚、ボルフ(孛羅忽)晋王(バヤン・モンケ)の母となり、バヤン・モンケがシキル...
19 KB (3,022 words) - 17:12, 13 January 2025
至元7年(1270年)、コンギラト部はセチェン・カアン(世祖クビライ)に「上都東北300里のダライ・ノール湖畔に、部族の夏営地がありますが、ここに都城を建築してもよいでしょうか」と申請し、セチェン・カアンはこれを許可した。 完成した都城は「応昌府」と名付けられ、至元...
3 KB (402 words) - 01:43, 2 January 2025
チンギス・カンの妃たちは「四大オルド」に属していたが、クランはその中で「第二オルド」の主として扱われ、哈児八真皇后・亦乞剌真皇后・脱忽茶児皇后・也真妃子・也里忽禿妃子・察真妃子・哈剌真妃子らが配下にいた。チンギス・カンが中央アジアのホラズム・シャー朝への遠征に出発した時、クランは選ばれて遠征軍に同行している。チンギス...
3 KB (492 words) - 14:06, 12 September 2022
ダヤン・ハーン (category プロジェクト王朝項目)
たエセンはチンギス裔の多くを皆殺しにしてチンギス統原理は崩れた。 アクバルジ・ジノンの息子ハルグチャクも父とともに殺されたが、その妻はエセンの娘セチェク妃子であったため、両者の息子バヤン・モンケはエセンの殺戮を免れた。チンギス統原理を破ってハーン位に即いたエセンにモンゴルの諸侯は反発し、エセンは即位...
47 KB (6,715 words) - 11:35, 16 January 2025
った……」とあり、オゴデイの息子のカダアン、メリクの母親であった。 また、『元史』巻106表1后妃表にも「業里訖納(Ergene>yèlǐqìnà)妃子:滅里(Melik>mièlǐ)の母」と記されている。エルゲネの人柄や事蹟についてはほとんど記録が残っていない。 ^ 松田1996,31-32頁...
1 KB (175 words) - 06:05, 6 September 2022
1510年)は、北元のマンドゥールン・ハーンおよびダヤン・ハーンのハトゥン(妃)。ダヤン・ハーンの擁立、ひいてはモンゴルの中興に貢献した賢婦人として知られており、「(マンドゥフイ・)セチェン・ハトゥン(賢明なる妃、モンゴル語: ᠮᠠᠨᠳᠤᠬᠠᠢ ᠰᠡᠴᠡᠨ ᠬᠠᠲᠤᠨ Мандухай сэцэн...
9 KB (1,285 words) - 13:17, 22 January 2024
の弟のハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジの妻のオルジェイト妃子こそそのような美貌の持ち主です、と答えた。そこでエルベク・ハーンはゴーハイ太尉をオルジェイト妃子の下に派遣して自らの妻になるよう伝えさせたが、オルジェイト妃子は怒ってそのような道理に背く行為はできないと拒絶した。...
6 KB (867 words) - 22:15, 15 October 2023
妃子という「雪のように肌が白く、血のように頬の赤い」美貌の妻を持つことで知られていた。ある時チョロースのゴーハイ太尉の進言によってオルジェイト妃子の存在を知ったエルベク・ハーンはゴーハイ太尉を派遣し、オルジェイト妃子を自らの妻(ハトゥン)にしようとした。 しかしオルジェイト妃子は、...
6 KB (830 words) - 00:26, 17 October 2023
ボルテ (section コンギラト部デイ・セチェン家)
カブル・カン以来モンゴル部族の姻族として知られたコンギラト(オンギラト、フンギラト)部族の一氏族の首長デイ・セチェンの娘で、『元朝秘史』ではチンギス・カンより1歳年上だったとされる。『元史』「特薛禅(デイ・セチェン)伝」によると、父のデイ・セチェンの姓はボスカウル(孛速忽)氏であったといい、コンギラトの本家から分岐した一族と...
12 KB (1,427 words) - 10:01, 12 December 2024
Bīkī、سورققتيى بيكى Sūrqaqtanī Bīkī など。『元朝秘史』(巻7・186段)では莎児合黒塔尼 別乞、『元史』后妃表では唆魯禾帖尼妃子と表記される。ソルカクタニ・ベキ(Sorqaqtani Beki)とも片仮名表記される。至元3年(1266年)にクビライによって荘聖皇后と追諡された。ケレイトの出身。キリスト教徒。...
8 KB (1,166 words) - 19:01, 26 July 2024
シリンダリ (section コンギラト部デイ・セチェン家)
セチェンの曾孫、オロチンの娘として生まれたという。デイ・セチェン家はチンギス・カンの正妃ボルテを輩出して以来、チンギス・カン家の姻族として繁栄してきた一族であり、シリンダリの父オロチンもクビライの娘ナンギャジンを娶った有力者であった。テムルがシリンダリを娶ったのも、姻族として有力なデイ・セチェ...
7 KB (960 words) - 20:41, 9 December 2022
部による大規模なオイラト遠征が開始され、ブヤン・バートル・ホンタイジがオイラトの8千ホイトを攻め、同時期にカザフ・ハン国に遠征していたホトクタイ・セチェン・ホンタイジもまたバルス・クルに輜重を置いてオイラトのバートト部を攻撃した。この頃のバートトはハムス(Qamsu)とドゥリトク(Düridkü)...
6 KB (927 words) - 03:08, 8 June 2022
のクタイとともにコンギラト部族長でモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕えたデイ・セチェンの孫のモンゲチンの娘として生まれたという。なお、『元史』巻118列伝5特薛禅伝では「モンケの妻のクタイとイェスルは[デイ・セチェンの息子の]アルチ・ノヤンの従孫であるモンゲチンの娘である」と記されるが、これでは...
5 KB (651 words) - 21:05, 6 June 2022
ナムブイ (section コンギラト部デイ・セチェン家)
خاتون (namubūī khātūn) と記される。 『集史』によると、ナムブイはコンギラト部族長でモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕えたデイ・セチェンの孫、ナチンの娘として生まれた。 ナチンの姉妹でナムブイにとっては叔母に当たるチャブイが至元18年(1281年)に亡くなるとクビライに娶られ、そ...
5 KB (729 words) - 19:26, 28 August 2023
サガン・セチェン(モンゴル語: Saγan sečen/Саган сэцэн, 中国語: 薩甘台吉, 1604年 - 1641年以降)とは、北元末期から清初にかけて活躍したオルドス部の領侯。モンゴル年代記『蒙古源流』を編纂したことで知られる。サガン・セチェン・ホンタイジ(Saγan sečen...
9 KB (1,415 words) - 16:57, 6 March 2021
ある時、ゴーハイ太尉はエルベク・ハーンを唆して息子(ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジ)の妻のオルジェイト妃子を掠奪させ、これを恨みに思ったオルジェイト妃子の計略によってエルベク・ハーンに殺された。後にゴーハイ太尉が無実であると知ったエルベク・ハーンはその息子のバトラ丞相に自らの...
7 KB (1,147 words) - 00:15, 17 October 2023
トゥメト (section ナムタイ・セチェン・ハーンの時代)
・ラマ3世を迎え、ハダイで会見した。この年、センゲ・ドゥーレン・ハーンが65歳で死去し、翌年(1586年)長子のナムタイ・セチェン・ホンタイジがハーン位につく。 ナムタイ・セチェン・ハーンはその在世中、数々の波羅蜜を献じたり、ダライ・ラマ4世と会見したり、『ガンジュル』のモンゴル語への翻訳など、チベット仏教の活動を活発におこなった。...
22 KB (3,271 words) - 00:24, 1 March 2025
『元史』などの漢文史料では答己(dājǐ)、『集史』や『ワッサーフ史』などのペルシア語史料ではداکی فیزی(Dāki fīzī,「ダギ妃子」の転写)と記される。 コンギラト部族の出身で、チンギス・カンの正夫人ボルテの弟のアルチ・ノヤンの曾孫娘にあたり、アルチ・ノヤンの孫のクルドゥ・テム...
7 KB (1,041 words) - 13:47, 15 January 2025
『元史』巻114列伝1后妃伝によると、コンギラト部族長でモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕えたデイ・セチェンの孫のモンゲチンの娘として生まれたという。なお、『元史』巻118列伝5特薛禅伝では「モンケの妻のクタイとイェスルは[デイ・セチェンの息子の]アルチ・ノヤンの従孫であるモンゲチンの娘である」と記されるが、これでは...
8 KB (1,104 words) - 15:51, 7 June 2022
ある小ハトン・サムル太后が尽力した事が記されているが、サムル太后について明朝側には全く記載がない。これは、自身もまたボルジギン氏である著者サガン・セチェンが敢えて太后の功績を特筆することで、ハーンを傀儡とし権力を握ったボライの功績を故意に貶めようとしたためであると推測されている。ダヤン・ハーンの即...
7 KB (1,272 words) - 00:42, 15 August 2021
テグルン(モンゴル語: Tegülün, 生没年不詳)は、モンゴル帝国第5代皇帝セチェン・カアン(世祖クビライ)の皇后(ハトゥン)。 『元史』などの漢文史料では帖古倫(tiègŭlún)大皇后と記されるが、『集史』などのペルシア語史料には登場しない。 『元史』巻106表1后妃表にはクビライの「大オ...
2 KB (317 words) - 11:53, 27 September 2021
1574年には更に大規模なオイラト遠征が行われた。まずオルドス部のブヤン・バートル・ホンタイジがオイラトに出兵し、同時期にカザフ・ハン国に遠征していたホトクタイ・セチェン・ホンタイジもまたバルス・クルに輜重を置いてオイラト遠征に加わった。ブヤン・バートルがエセルベイ率いる8千ホイトを征服する一方、ホトクタイはハム...
11 KB (1,696 words) - 08:39, 8 October 2023
・カアン(武宗カイシャン)の妃の一人。『元史』などの漢文史料では速哥失里 (sùgēshīlǐ) 皇后と記される。 『元史』巻118列伝6のデイ・セチェン伝によると、スゲシリは建国の功臣アルチ・ノヤンの弟の孫のカルジ(Qarǰi>hāérzhǐ/哈児只)の娘であったという。...
3 KB (407 words) - 07:15, 16 April 2024
トグス・テムル (category プロジェクト王朝項目)
殺蛮子及其軍士数千人、其衆遂降。虜主脱古思帖木児与其太子天保奴・知院捏怯来・丞相失烈門等数十騎遁去。玉率精騎追之、出千餘里、不及而還。獲其次子地保奴妃子等六十四人及故太子必里禿妃並公主等五十九人。其詹事院同知脱因帖木児将逃、失馬、竄伏深草間、擒之。又追獲呉王朶児只・代王達里麻・平章八蘭等二千九百九十...
14 KB (2,099 words) - 10:45, 2 February 2025
ボショクト晋王ハーン(1576年 - 1624年)…ノヤンダラの子ブヤン・バートル・ホンタイジの子 セレン・エルデニ晋王ハーン(1626年)…ボショクトの長男 リンチェン・セチェン晋王(1627年 - 1649年)…ボショクトの次男 ^ 杉山 1995, p. 98-99. ^ 白石 2005, p. 8-10. ^ 杉山...
8 KB (1,172 words) - 07:14, 16 April 2024
剌台吉)…バルス・ボラトの子供、アルタン・ハーンの弟 エンケダラ・ダイチン・タイジ(恩克跌児歹成台吉/永邵卜大成台吉)…ボディダラの息子 エンケ・セチェン・ノヤン(恩克七慶台吉/隠克台吉)…エンケダラの息子 ^ 岡田2010,302-306頁 ^ 薄音湖 1986,1-2頁 ^...
12 KB (1,778 words) - 02:42, 9 November 2023
リンチェン・セチェン晋王(1627年 - 1649年)…ボショクトの次男 ジャサク・ドロイ・ギュンワン(扎薩克多羅郡王) エリンチェン(額璘臣、リンチェン・セチェン晋王)(1649年 - 1656年) バトゥ(巴図)(1656年 - 1657年)…エリンチェンの従子 グル(固嚕)(1657年...
17 KB (2,633 words) - 05:00, 24 January 2024
チャブイ (section コンギラト部デイ・セチェン家)
とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。 チャブイの築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。 デイ・セチェン アルチ・キュレゲン(Alči Küregen >阿勒赤古咧堅/ālèchì gŭliējiān,الجی كوركان/Āljī kūrkān)...
8 KB (845 words) - 03:44, 12 December 2022