ブトゥ・キュレゲン(モンゴル語: Butu/Буту хүргэнi,中国語: 孛禿,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたイキレス部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、ブトゥの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「イキレス駙馬王家」として尊...
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ブトゥはテムルンを娶って「キュレゲン(駙馬/婿)」を称し、チンギス・カンの勢力に参加した。 1206年、モンゴル高原を統一したチンギス・カンがモンゴル帝国を建国すると、ブトゥは帝国の幹部層たる千人隊長(ミンガン)に任ぜられた。ブトゥ...
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ブカ・キュレゲン(モンゴル語: Buqa Küregen、中国語: 不合古咧堅、生没年不詳)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたバヤウト部出身の千人隊長の一人。 漢文史料では『元朝秘史』が不合古咧堅(bùhé gŭliējiān)、『元史』が普化(pŭhuà)と記し、『集史』などのペルシア語史料ではبوقا...
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クリル・キュレゲン(モンゴル語: Quril Küregen,中国語: 忽憐,? - ?)は、13世紀にモンゴル帝国に仕えたイキレス部族長。チンギス・カンに仕えたイキレス部族長ブトゥ・キュレゲンの曾孫に当たり、主にシリギの乱やナヤン・カダアンの乱といったモンゴル帝国内部の戦いにおいて活躍した。『元...
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チンギス・カン)陣営に帰参したという。同時期にテムジン陣営に参加し、後に著名になった人物にはクビライ(四狗の一人)、スブタイ(四狗の一人)、ブトゥ・キュレゲンらがいる。 その後、1206年にモンゴル帝国が建国されると、キンギヤダイは帝国の幹部層たる千人隊長(ミンガン)に任ぜられた。『元朝秘史』の功...
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1218年、チンギス・カンは金朝侵攻の指揮権をジャライル部のムカリに委ね、マングト千人隊を率いるモンケ・カルジャ、コンギラト千人隊を率いるアルチ・ノヤン、イキレス2千人隊を率いるブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルとジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤルらがその指揮下に入った。この軍団の内、特にジャライル部...
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シがアラカイ・ベキを娶ったとする説が広く受け容れられている。 『元史』では同じく駙馬王家を形成したコンギラト部のデイ・セチェン、イキレス部のブトゥ・キュレゲンとともに巻118列伝5に立伝されている。 ビヌイ(Binui,Bīnūīبینوی)…アラクシの兄 北平王セングン(Senggün,鎮国/Shankūīشنکوی)...
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クトクタイ (section モンケ・カアンの皇后(ハトゥン))
クトクタイ・ハトゥン(モンゴル語: Qutuqtai qatun、生没年不詳)は、イキレス部族長ブトゥ・キュレゲンの孫娘で、モンゴル帝国第4代皇帝モンケの皇后(ハトゥン)。息子にはバルトゥ、ウルン・タシュらがいる。『集史』などのペルシア語史料ではقوتوقتای خاتون(Qūtūqtāī...
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軍の長たる国王ムカリであった。当時のイキレス部族長ブトゥ・キュレゲンはムカリの指揮下の下で遼西地方攻略に活躍し、この時の功績によって華北の冠州・遼東の懿州の2州を与えられ、寧昌の一帯はイキレス部族の領地となった。 1286年(至元22年)にはブトゥの子のデレケイの子のソゲドゥが寧昌の名に由来する「...
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の首長として『元史』によれば自らを含め7人の皇后(ハトゥン)と1人の妃(エメ)を司った。 男子 長男 ジョチ 次男 チャガタイ 三男 オゴデイ 四男 トルイ 女子 長女 コアジン・ベキ - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ 次女 チェチェゲン -...
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ブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルとジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤルらがおり、この内ジャライル(ムカリ家)・ウルウト(ジュルチェデイ家)・マングト(クイルダル家)・コンギラト(デイ・セチェン家)・イキレス(ブトゥ...
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ジュルチェデイの息子、ケフテイはチンギス・カンより東方の計略を委ねられたジャライル部のムカリの指揮下に入り、同じくムカリの指揮下にあったコンギラト部のアルチ・キュレゲン、イキレス部のブトゥ・キュレゲン、マングト部のモンケ・カルジャらとともに、「左手の五投下」と総称される独立性の高い集団を形成した。「左手の五投下」は帝位継承戦争...
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クイルダルの息子、モンケ・カルジャはチンギス・カンより東方の計略を委ねられたジャライル部のムカリの指揮下に入り、同じくムカリの指揮下にあったコンギラト部のアルチ・キュレゲン、イキレス部のブトゥ・キュレゲン、ウルウト部のケフテイらとともに、「左手の五投下」と呼称される独立性の高い集団を形成した。「左手の五投下」は帝位継承戦争において...
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マングト千人隊を率いるモンケ・カルジャ、ウルウト4千人隊を率いるケフテイ、コンギラト3千人隊を率いるアルチ・ノヤン、イキレス2千人隊を率いるブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルとジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤル元帥とトガン元帥(耶律禿花)らであった。トガンはその後...
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モンゴル帝国および大元ウルスの時代にのみ設置され、イキレス部ブトゥ駙馬家の投下領とされた。 隋代の冠氏県を前身とする。チンギス・カンによる最初の金朝遠征の際、当時のイキレス部族長ブトゥ・キュレゲンは左翼軍の長たる国王ムカリの指揮下で遼西地方攻略に活躍し、この時の功績によって華北の冠州・遼東の懿州の2州を与えられた。...
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デレケイ・キュレゲン(モンゴル語: Derekei Küregen,中国語: 帖里干,? - ?)は、13世紀にモンゴル帝国に仕えたイキレス部族長。チンギス・カンに仕えたイキレス部族長ブトゥ・キュレゲンの息子で、主に南宋との戦争及び帝位継承戦争で活躍した。 『元史』などの漢文史料では帖里干(tièl...
8 KB (1,213 words) - 06:34, 3 May 2022
kūrkān)…アリクブケの娘のノムガンを娶る チャキル・キュレゲン(Čakir >جاقر كوركان/jāqir kūrkān)…フレグの娘のモングルゲンを娶る タラカイ・キュレゲン(Taraqai >ترقای كوركان/taraqāī kūrkān)…父のチャキルの死後、フレグの娘のモングルゲンをレビラト婚で娶った ノルン・カトン(Nölün...
10 KB (1,219 words) - 11:07, 8 October 2022
『集史』によると、チグゥはコンギラト部族長のアルチ・キュレゲンの息子で、チンギス・カンの娘トマルンを娶って「キュレゲン(駙馬/婿)」を称した人物であったという。ただし、『集史』は「アルチ・キュレゲンの息子でトマルンの夫」に当たる人物の名前が場所によってバラバラで、シク・キュレゲンやキュレゲン・キュレゲンと表記されることもある。この内、「シク・キュレゲン(shīkū...
8 KB (1,279 words) - 04:16, 10 August 2021
フルダイ (redirect from フルダイ・キュレゲン)
フルダイ・キュレゲン(モンゴル語: Huldai Küregen,中国語: 鎖児哈,? - ?)は、13世紀にモンゴル帝国に仕えたイキレス部族長。チンギス・カンに仕えたイキレス部族長ブトゥ・キュレゲンの息子で、父の地位を継承した。 『元史』などの漢文史料では鎖児哈(suŏérhā)、『集史』などのペルシア語史料ではهواودای...
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のケフテイが継承した。ジュルチェデイの後裔が支配するウルウト部はジャライル部(国王ムカリ家)・コンギラト部(デイ・セチェン家)・イキレス部(ブトゥ・キュレゲン家)・マングト部(クイルダル家)とともに「左手の五投下」を構成し、クビライの即位を助けた功績によって大元ウルス下の有力部族として知られるに至った。...
8 KB (1,085 words) - 19:27, 14 September 2022
オラル・キュレゲン(モンゴル語: Olar Küregen,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたオルクヌウト部出身の千人隊長の一人。 『元朝秘史』などの漢文史料では斡剌児古咧堅(wòlàérgŭliējiān)、『集史』などのペルシア語史料ではاولار كوركان(Ūlār Kūrūān)と記される。...
5 KB (608 words) - 09:27, 1 January 2022
ブトゥ・キュレゲン、諸部族混合兵を率いるクシャウルとジュスク、現地徴発の契丹・女真・漢人兵を率いるウヤルらがおり、この内ジャライル(ムカリ家)・ウルウト(ジュルチェデイ家)・マングト(クイルダル家)・コンギラト(デイ・セチェン家)・イキレス(ブトゥ...
8 KB (1,327 words) - 12:48, 29 August 2022
ェ・ドモクに連れられて帰参したという。同時期にテムジン陣営に参加し、後に著名になった人物にはクビライ(四狗の一人)、スブタイ(四狗の一人)、ブトゥ・キュレゲンらがいる。 バラ・チェルビがチンギス・カンのモンゴル高原統一に果たした功績は不明であるが、1206年にチンギス・カンが即位するとバラ・チェル...
5 KB (732 words) - 03:00, 8 June 2022
る千人隊長として知られた。クイルダルの末裔が支配するマングト部はジャライル部(国王ムカリ家)・コンギラト部(デイ・セチェン家)・イキレス部(ブトゥ・キュレゲン家)・ウルウト部(ジュルチェデイ家)とともに「左手の五投下」を構成し、クビライの即位を助けた功績によって大元ウルス下の有力部族として知られるに至った。...
8 KB (1,101 words) - 02:59, 3 October 2022
キュレゲン」として千人隊長の一人に挙げられ、「功臣表」では84位に列せられている。 カタイの息子マリクはフレグの西征に随行してイランに移住し、フレグ・ウルスに仕えるようになった。マリクの姪にはフレグの妃となったクトイとマルタイ、甥にはムーサ・キュレゲンという人物がいたという。...
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トゥに嫁いでスレイマン・シャーという息子を産んだことが記録されている。 また、『集史』「クビライ・カアン紀」第3部(事実上のアリクブケ本紀)にはアリクブケの末子のメリク・テムルの御家人にウカイの末裔のチャンギ・キュレゲンがいたと記されている。キュレゲン...
5 KB (792 words) - 18:44, 15 April 2023
『元史』によると、スガバラはオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の娘の昌国公主イリク・カヤとイキレス部当主アシクとの間に生まれた。アシクの遠祖はチンギス・カンに仕えた建国の功臣ブトゥ・キュレゲンで、ブトゥの家系は代々チンギス・カン家と姻戚関係を結んできた一族であった。...
4 KB (524 words) - 07:16, 16 April 2024
ギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンの娘ジジャカンを娶ってキュレゲン(駙馬/婿)を称し、フレグの西征に随行してイラン方面に移住した。フレグ・ウルスに仕えるタタル部族出身者はこの時ジョチとともに移住してきた者達の末裔であった。 イェスイ、イェスゲン両妃に養育されたクリ、カラ=マングトの兄弟の子孫アラドは...
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前述したようにドスカの事蹟については全く記録がないが、ドスカの子孫についてはいくつか記録が残されている。『集史』によると、ドスカの後裔オルクト・ノヤンとその息子イェス・ブカ・キュレゲンはフレグの西征に従軍してイランに移住し、フレグ・ウルスの重臣となったという。第2代君主アバカの死後、第3代君主テグデルとアルグンの間に内戦が生じ...
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テムルン(モンゴル語: Temülün/Тэмүлүн、中国語: 帖木倫)は、モンゴル部のイェスゲイ・バートルの娘で、チンギス・カンの妹。イキレス部のブトゥ・キュレゲンに嫁いだが、早世した。 イェスゲイ・バートルとホエルンの間に生まれ、同母兄弟にテムジン(チンギス・カン)、ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・...
7 KB (1,113 words) - 06:31, 3 May 2022
妹 テムルン - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn)...
106 KB (15,939 words) - 08:10, 12 December 2024