カシュガル王国 ヤクブ・ベク王国 يەتتىشەر دۆلەتى ヤクブ・ベクの乱(ヤクブ・ベクのらん)は、清末の1860年代から1870年代にかけての、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的に清の左宗棠に敗れ、その死によって崩壊した...
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ヤクブ・ベク(ウズベク語: Yoqub Bek / Яъқуб-бек、中国語: 阿古柏、1820年 - 1877年5月30日) は、コーカンド・ハン国出身のウズベク人軍人・指導者。イラン系のタジク人とする説もある。清末の混乱に乗じて東トルキスタンに入り、タリム盆地一帯を制圧した(ヤクブ・ベクの乱...
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左宗棠 (category ヤクブ・ベクの乱の人物)
北西の状況は安定したが、左宗棠には更に西の新疆奪回の任務が与えられていた。清の領土だった新疆もイスラム教徒の反乱が頻発し、新疆に隣接するコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが混乱に乗じて新疆を乗っ取り(ヤクブ・ベクの乱)、ロシアも南下政策で新疆北部のイリ地方を占領するという状態だった。 左宗棠は直ちに新疆遠征の...
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のミャンマーの経済は清への綿花の輸出に大きく頼っていたが、パンゼーの乱によってこれも実行不可となった。 ^ a b c 張 1993, p. 85. ^ 一方、ヤクブ・ベクの乱では、1868年にイギリス、1870年にロシア帝国がヤクブ・ベク政権を承認。ヤクブ・ベク...
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同治帝 (category 清の皇帝)
北西の陝西省・甘粛省ではムスリムが同治元年(1862年)に反乱を起こし(回民蜂起)、同治4年(1865年)にはヤクブ・ベクによって新疆の大半が清から離脱し、清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム国家を樹立した(ヤクブ・ベクの乱)。これに対し、陝甘総督の左宗棠が漢人軍隊を率いて同治5年(1866年)から回民討伐を開始、捻軍鎮圧と平...
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東トルキスタン (category 独自研究の除去が必要な節のある記事/2015年7月-12月)
の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。 しかし、間もなく清は欽差大臣の左宗棠を派遣して再征服に成功した。 この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの...
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アクス市 (category 新疆ウイグル自治区の県級市)
のモグーリスタン・ハン国で著された歴史書『ターリーヒ・ラシーディー』でもアクスは東トルキスタンにおける重要な都市の一つに挙げられ、カシュガル・ハン国の成立後もアクスは重要性を保ち続ける。 ジュンガルの支配を経て1760年に清の支配下に入り、温宿直隷州が設置された。ヤクブ・ベクの乱の...
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新疆省 (category 書きかけの節のある項目)
の社会構造がそのまま温存された。 1865年から1870年にかけて、コーカンド・ハン国の将軍ヤクブ・ベクが新疆の主要都市を攻略すると、清朝政府は、1875年に欽差大臣の左宗棠を派遣し、ヤクブ・ベクの勢力を駆逐。新疆は再び清朝の支配下に入った。 ロシア国境の...
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トルキスタン総督府 (category ロシア帝国の行政)
1917年4月) 小松久男 編 『中央ユーラシア史』 山川出版社 2000年 (ISBN 978-4634413405) 帯谷知可「トルキスタン総督府」『中央ユーラシアを知る事典』平凡社 2005年 (ISBN 978-4582126365) 西トルキスタン 東トルキスタン コーカンド・ハン国 ヤクブ・ベクの乱...
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イリ条約 (category ヤクブ・ベクの乱)
ヤクブ・ベクの乱による新政権樹立は英露双方の関心事ともなった。 露清間で締結された1851年の伊犁通商条約において、ロシア帝国はイリ並びにタルパガタイにおける自由貿易や居住権、領事権などの特権が認められていた。しかし、ヤクブ・ベクの...
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李鴻章 (category 中国の海事実業家)
同年、北でロシア帝国が新疆北部のイリを占拠、西からヤクブ・ベクが新疆を制圧する事態が発生(ヤクブ・ベクの乱)。陝甘総督左宗棠が出兵支度を整えようとしたが、李鴻章はヤクブ・ベクが独立政権を樹立、イギリス・ロシア双方が承認を与えた事実に基づき、清も朝貢国としてヤクブ・ベク政権を承認、浮いた遠征費用を海防に回す提案を同治13年(18...
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欽差大臣 (category 清朝の官職)
恭親王奕訢(イヒン):怡親王載垣の交渉も決裂に終わったため交代(北京条約を締結) 1871年 沈葆楨:日本軍台湾占拠の牡丹社事件への対応交渉を担当 1875年 左宗棠(1回目):ヤクブ・ベクの乱により清朝の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当 1885年 左宗棠(2回目):清仏戦争終結のためにフランスと講和交渉を担当...
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回民蜂起 (category 清朝の戦争)
タルバガタイ条約(中国語版) イリ条約 白蓮教 白蓮教徒の乱 湘軍 癸酉の変 哥老会 義和団の乱 - 小刀会 ムスリム 大小ホージャの乱(中国語版) ヤクブ・ベクの乱 パンゼーの乱 - 回族(チン・ホー族(英語版)) ホー戦争(英語版) - チン・ホー族(英語版) アチェ戦争 モロの反乱(英語版) バスマチ蜂起 -...
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現在のカザフスタンの都市・オラルの中央広場は「プガチョフ広場」として名を残している。 [脚注の使い方] ^ ヴァシーリー・ゴリツィンと同じ一族の出身の軍人。 中村仁志『プガチョフの反乱 良きツァーリはよみがえる』平凡社、1987年11月。ISBN 978-4-582-47426-8。 カシミール ヤクブ・ベクの乱 回民蜂起 表示 編集...
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清 (category 出典を必要とする節のある記事/2021年12月)
ヤクブ・ベクの乱)。ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方の...
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魏光燾 (category ヤクブ・ベクの乱の人物)
の両面で支えた。ヤクブ・ベクの乱の平定後に新疆省が設置されると初代の新疆布政使に任命された。 その後、陝西巡撫、陝甘総督、雲貴総督、両江総督、南洋大臣、総理各国事物大臣の職を歴任した。両江総督の在任中には劉坤一・張之洞の後を継いで三江師範学堂(現在の...
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回族 (category 中国の民族)
のドンガン人の蜂起が発生している。こうした回民蜂起を契機に、1860年代には、新疆でヤクブ・ベクの乱が発生、ヤクブ・ベクは一時的に政権を樹立した。 清に鎮圧されたのち回民の一部はロシア帝国領に渡って中央アジアに定住した。彼らの...
22 KB (3,386 words) - 15:25, 15 July 2024
ホージャ (category イスラム教の称号・役職)
の拠点であるカシュガルを統制下に置くため、カシュガル・ホージャを保護し、ホージャたちの軍事作戦を支援した。ホージャ家の人間はしばしば清の支配下に置かれていたカシュガルに侵入するが、いずれの軍事作戦は失敗に終わる。1864年にコーカンド・ハン国のヤクブ・ベクはホージャ家の...
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の拡大が決定的となり、その後の中央アジア情勢に多大な影響を残した。 シリギの乱の原因は1259年のモンケ・カアンの死に始まる帝位継承戦争に遡る。モンケの死を切っ掛けにその弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、クビライが帝国の左翼部(東道諸王や「左手の五投下」)の支持を得ていたの...
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劉錦棠 (category ヤクブ・ベクの乱の人物)
ヤクブ・ベクの乱に際しては、劉錦棠は1876年2月に司令部を甘州から粛州に移し、7月に湘軍25営1万3000人を率いて、満州八旗の金順(ギンシュウェン)率いる40営2万1000人とともに先鋒となって新疆に入り、ウルムチを攻略した。ウルムチ占領後、金順は北部を掃討し、劉錦棠は天山南路の掃討にあたった。...
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金順 (category ヤクブ・ベクの乱の人物)
の命を受けて劉錦棠とともに、ヤクブ・ベクの乱鎮圧にあたった。ウルムチ、サンジ・シャヒリ、クトゥビを陥落させ、マナスに迫り、その功でイリ将軍に任命された。光緒7年(1881年)にイリ地方を接収し、ロシアとの国境を画定させた。その後北京に呼び戻され、帰途粛州で病死した。死後、太子太保の位と忠介の諡号が贈られた。...
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ジョチ・ウルス (category ロシアの歴史)
1342年)…モンケ・テムルの子のトグリルチャの子 ティーニー・ベク(ティニベク・ハン)(1342/43年)…ウズベク・ハンの子 ジャーニー・ベク(ジャニベク・ハン)(1342/43年 - 1357年)…ウズベク・ハンの子 ベルディ・ベク(ベルディベク・ハン)(1357年 - 1360/61年?)…ジャーニー・ベクの子 クルナ(クルパ)(1358/59年...
48 KB (6,627 words) - 05:37, 31 December 2024
コーカンド・ハン国 (category ウズベキスタンの歴史)
のほとんど全域を支配する大勢力に成長していたが(ヤクブ・ベクの乱、1862年-1877年)、コーカンドからはほとんど独立してしまい、かえって混乱のためにコーカンドの繁栄を支えた新疆貿易の利益を滞らせた。 ヤークーブ・ベクらをカシュガルに派遣したのと同じ1864年、ロシアはコーカンド・ハン国への...
18 KB (2,489 words) - 02:44, 13 May 2023
白彦虎 (category ヤクブ・ベクの乱の人物)
の敗北後、河西回廊を転戦し、カシュガルのヤクブ・ベクのもとに逃れた。1877年、欽差大臣左宗棠の大軍がヤクブ・ベクを滅ぼすと、5千人の兵とともにロシアに逃れて再起を図った。しかし再び陝西に戻ることなく、ビシュケクで肺炎のため42歳の生涯を閉じた。 ^...
4 KB (553 words) - 19:09, 3 November 2023
楊昌濬 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
浙江省西部を平定し、塩運使、浙江布政使と昇進を重ねた。 同治9年(1870年)に浙江巡撫に任命され7年在任、光緒4年(1878年)、左宗棠のヤクブ・ベクの乱鎮圧の補佐にあたり、光緒6年(1880年)に陝甘総督に昇進、光緒9年(1883年)に漕運総督に転任した。光緒10年(1884年)、清仏戦争で左宗...
2 KB (236 words) - 07:49, 11 November 2023
モグーリスタン (category 中央ユーラシアの歴史的地域)
の地」を意味する語であり、 1860年代のヤクブ・ベクの乱の際に流行した。帝政ロシアのチョカン・ワリハーノフは、ヤルカンド、カシュガル、ホータン、アクス、ウシュトゥルファン、イェンギサールをアルティ・シャフルの「六城」に比定した。一方、ドイツの考古学者アルベルト・フォン・ル・コックはワリハーノフの...
11 KB (1,427 words) - 12:30, 16 April 2022
張曜 (category 中国の歴史関連のスタブ項目)
1869年、左宗棠の要請で陝西省・甘粛省の回民蜂起の鎮圧に参加。1876年には左宗棠に従ってヤクブ・ベクの乱の鎮圧のため新疆に赴き、トゥルファンを陥落させる功績をあげた。その後カシュガルに駐屯し、1884年からは直隷省北部の防衛にあたった。...
2 KB (276 words) - 21:25, 6 January 2024
文祥 (category 清代の人物)
も兼ねた。その間、洋務運動の推進と西洋諸国との外交で重要な役割を果たし、同治13年(1874年)から光緒元年(1875年)の海防・塞防論争では左宗棠を支持した。勤勉かつ清廉な人物で、生活は非常に質素なものであったという。死後、文忠の諡号を贈られた。 オボイ ヤクブ・ベクの乱 ウイグル#古代ウイグル史...
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光緒帝 (category 中国の硬貨の人物)
の清仏戦争の敗戦の責任を西太后から転嫁され失脚させられると西太后が専権した。 同治帝の頃からあった清の衰退は光緒帝の治世でも続き、同治10年(1871年)の新疆で勃発したヤクブ・ベクの乱の最中に起こったロシアのイリ占拠、光緒元年(1875年)の日本による朝鮮の...
18 KB (2,847 words) - 12:34, 14 December 2024
妥明 (category ヤクブ・ベクの乱の人物)
対立し、馬陞が殺害されるに至って勢力に衰退の兆しが見られるようになった。 さらにコーカンド・ハン国のヤクブ・ベクがカシュガルに入って勢力を拡大し、1870年にトルファンは陥落、ヤクブ・ベク軍はウルムチに迫った。このときは和議が成立したが、翌年再びヤクブ・ベクがウルムチを攻撃したため、妥明はマナスに逃...
3 KB (381 words) - 22:11, 21 January 2021
海防・塞防論争 (category 書きかけの節のある項目)
これに対し回民蜂起やヤクブ・ベクの乱の鎮圧に功を挙げた左宗棠は、国防の重点を内陸部に置く中華王朝の伝統的戦略に基づき、辺境防備の充実を主張して反論した。この後朝廷では、「海防論」か「塞防論」かを巡って激しい論争が戦わされた。 論争の結果、海防論・塞防論いずれかの政策に決定することは回避され、両面の...
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