• サロンドートンヌ(Salon d'automne)は、毎年秋にパリで開催される展覧会。「秋のサロン」、「秋季展」の意。ル・サロン(官展)を運営するフランス芸術家協会、および国民美術協会(ラ・ナシオナル)の保守性に対抗して、1903年にベルギーの建築家フランツ・ジュールダン(フランス語版)を中心と...
    33 KB (3,527 words) - 09:02, 15 September 2024
  • サロン展が合同で行う「Salon ART CAPITAL」がグラン・パレのLe Nefホールにて開催されるようになり、「ル・サロン展」として知られるフランス芸術家協会サロン展などが参加している。一方で、国民美術協会サロン展はルーヴル美術館に隣接したカルーゼル・ルーブル展示場にて、サロンドートンヌ...
    157 KB (16,151 words) - 09:20, 15 September 2024
  • よしお、1917年4月13日 - 2007年10月27日)は、茨城県土浦市出身の洋画家。代表作に「マドモアゼル・シリーズ」がある。 日本芸術院会員。サロンドートンヌ会員。二科会常務理事。 旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。日本美術学校卒業。1941年、二科展初入選、1947年、二科賞...
    2 KB (178 words) - 10:57, 3 February 2024
  • 「教会への道」で日展特選 1960年から1963年まで渡仏し、1963年パリのル・サロン展銀賞受賞、同年サロンドートンヌ絵画部会員に推挙された。 1964年 フランスアカデミー賞受賞 1965年 パリのル・サロン展に「冬の箱根」を出展し金賞受賞 1971年 「大地の詩」で芸術選奨文部大臣賞受賞 1976年...
    3 KB (361 words) - 12:19, 16 August 2023
  • - 1906年))。 セザンヌサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロンドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会...
    84 KB (11,021 words) - 15:54, 16 October 2024
  • 文化勲章受章。2004年(平成16年) 3月6日、満100歳を迎える。11月23日、死去。 文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、社団法人二科会名誉理事、サロンドートンヌ名誉会員、南日本美術展顧問 「踏切風景」(1927年) 「帽子を被る女」(1936年) 「屋久の娘」(1948年) 「浜の女たち」(1963年)...
    3 KB (304 words) - 07:49, 12 August 2024
  • 同年渡仏、フランスで「午後」がサロンドートンヌ入選。翌1930年(昭和5年)パリ国立美術学校のリュシアン・シモン教室に入学するも2年後の1932年(昭和7年)に中退する。その後ポール・ランソンのアカデミー・ランソンでフレスコ画法を学び、1933年(昭和8年)からサロン...
    8 KB (824 words) - 13:16, 30 September 2024
  • 国際美術連盟日本委員長に就任するなど、美術家の国際交流にも尽力した。 1976年、第61回二科会展で『アラビヤの女』が内閣総理大臣賞を受賞。サロンドートンヌ会員となり、1978年、二科会常務理事に就任。1979年から10年に亘って、日本美術家連盟理事長を務める。1984年、第68回二科展出品作『...
    4 KB (593 words) - 09:30, 19 June 2024
  • 訪蚕糸学校教諭。1923年、絵画を学ぶためパリに渡る。「サロン・デ・テュイルリー」の展覧会でオーギュスト・ロダンの高弟(弟子)、アントワーヌ・ブールデルの作品と出会い感銘を受けた事によって、彫刻へ転向する。ブールデルに師事し、サロンドートンヌへ絵画、彫刻を出品、1927年まで毎回入選。アルベルト・...
    8 KB (1,029 words) - 05:30, 10 September 2024
  • 動の名称。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。 1905年、パリで開催された展覧会サロンドートンヌに出品された一群の作品の、原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイ・ボークセル(仏: Louis Vauxcelles、英:...
    6 KB (789 words) - 05:09, 14 August 2023
  • 1923年(大正12年)、後に私立大洲女学校を創立する中野ミツの養子となり中野姓となる。この年よりフランスへ留学しサロンドートンヌに入選。その後イタリア、スペインを歴遊しつつ前田寛治、佐伯祐三と親交を深め、1927年(昭和2年)帰国。同年、第8回帝展に「婦人座像」ほか1...
    10 KB (771 words) - 00:54, 12 November 2023
  • サロもこれに加わるようになった(→画塾とサロン(1860年代))。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、アルフレッド・シスレー、ピエール=オーギュスト・ルノワールと一緒に戸外制作を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになった。1870年の普仏戦争を避けてロン...
    74 KB (9,114 words) - 07:11, 31 May 2024
  • 姿を数多く描くとともに、1919年、ルノワールの言行を記した『ルノワール』を刊行した。 ルノワールは、1904年のサロンドートンヌでは一室を与えられ、1905年には、サロンドートンヌから名誉総裁の称号を授与された。1906年、メトロポリタン美術館がルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を購入した。...
    131 KB (15,799 words) - 12:22, 14 October 2024
  • Grand Palais)と科学技術博物館(発見の殿堂、Palais de la Découverte)として使用されている。また、サロンドートンヌを主催するサロンドートンヌ協会もグラン・パレ内に置かれている。 2021年、改修工事のため閉館へ。 2025年の春、本格的にリニューアルオープンする。...
    7 KB (785 words) - 19:43, 4 September 2024
  • 1905年、サロンドートンヌで、マネの油彩画25点、パステル画5点、水彩画1点の合計31点から成る回顧展が開かれた。『エミール・ゾラの肖像』などサロン出品作5点を含む充実した内容の展覧会であった。 1906年、近代美術の大収集家エティエンヌ・モロー・ネラトン...
    131 KB (16,691 words) - 07:50, 13 August 2024
  • 芸術アカデミー (category アカデミックアート)
    Indépendants)、また、1890年には別に国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)主催のサロンも開催されるようになった。1903年のサロンドートンヌ展開催以降も多くのサロンが誕生するようになっていく。 印象派など、後に近代美術の祖となった芸術家たちはそれぞれの美学に立って、アカ...
    9 KB (1,240 words) - 05:52, 30 March 2023
  • サロ、モネ、セザンヌ、フォーヴィスムのマティス、ドラン、キュビスムのピカソ、ブラック、グリスなどが挙げられる。ピサロは1855年のパリ万国博覧会でコローの作品を見ており、ピカソは何点かのコロー作品を収集していた。1909年にサロンドートンヌ...
    13 KB (1,650 words) - 09:59, 3 October 2024
  • 館蔵)、これらに描かれる裸の男性は「律動的な力に満ちた男性像」である。《アダムとイヴ》は1920年のサロンドートンヌに出展された作品である。当初はアダムの男性器が描かれていたが、サロンドートンヌに出展する前に、「おそらくは主催者側の要求により」性器を隠すためにイチジクの葉を描いた。この絵はまた...
    71 KB (6,061 words) - 09:02, 16 October 2024
  • 1910年、フィレンツェに移住する。弟はパリへ移住、最初の形而上絵画を手がける。 1911年、パリへ移住。 1912年、3点の絵画をサロンドートンヌに出品。 1913年、パリのアンデパンダン展、サロンドートンヌに出品。詩人で美術評論家のギョーム・アポリネールに注目され、のちに親交をむすぶにいたる。初めて絵の買い手が現れる。...
    8 KB (874 words) - 23:24, 14 September 2024
  • 1907年、サロンドートンヌでセザンヌの記念回顧展を訪れ、また同じ年の11月には詩人ギヨーム・アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ『アヴィニョンの娘たち』を見たことで衝撃を受ける。偶然ではあるが、ブラックはセザンヌとピカソの絵画にほぼ同時に影響を受けることとな...
    12 KB (1,674 words) - 20:40, 8 May 2024
  • 面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロンドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。 当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であ...
    63 KB (6,497 words) - 08:23, 5 April 2024
  • 1917年、福岡県師範学校(現福岡教育大学)第二部卒業、坂本繁二郎、安井曾太郎に師事。関西美術院にも通った。 二科展出品後の1932年渡仏、留学中の1933年サロンドートンヌ賞受賞。1935年、帰国。 1939年、一水会の創立に参加。 戦後、広稜会を結成、また東郷青児らと日伯現代美術展(伯剌西爾、ブラジルのこと)を開催。...
    9 KB (1,428 words) - 12:51, 14 October 2023
  • 荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロンドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーヴで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。1936年(昭和11年)サロンドートンヌ...
    7 KB (758 words) - 06:21, 25 September 2024
  • ル・ブラス』紙上で「ブラックは一切を立方体(キューブ)に還元する」と書いた。これがキュビスムの名の起こりと言われている。もっともこの言葉は、サロンドートンヌの審査の席でマティスが先に使っている(ブラックはこの展覧会に7点の作品を持ち込んだが5点の展示を拒否され、これを不服として全作品を引き上げて...
    15 KB (1,990 words) - 16:44, 9 October 2024
  • サロンサロン・ド・パリ)と、1903年スタートサロンドートンヌだった。こうしたサロンは国内国外を問わず大勢の観客が詰めかけるセンセーショナルなイヴェントだった。日曜日一日だけで5万人、2ヶ月の開催で50万人の集客もあった。多数の絵は、現在「サロン・スタイル(Salon...
    26 KB (3,583 words) - 20:08, 10 November 2023
  • ジュゼッペ・サローニ(Giuseppe Saronni、1957年9月22日- )は、イタリア・ノヴァーラ出身の元自転車競技選手で、現在はUCIプロツアーに参加するアラブ首長国連邦のプロチーム、UAEチーム・エミレーツの監督を務めている。より本来の発音に近いサロンニという表記も用いられている。...
    4 KB (374 words) - 05:04, 28 April 2019
  • 印象派 (category Webarchiveテンプレートのウェイバックリンク)
    多くの見物客は冷やかし半分にやって来たが、それでも新しい傾向のアートの存在に対する関心が巻き起こり、落選展には通常のサロンよりも多くの見物客が訪れた。 再度の落選展を求めるアーティストたちの請願は、1867年、そして1872年にも拒否された。 1873年の後半に、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ベルト・モリゾ、...
    53 KB (6,256 words) - 03:08, 14 July 2024
  • サロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合った(→画塾時代)。 1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロン...
    187 KB (23,332 words) - 14:44, 12 August 2024
  • した作品が第10回二科展に初入選し、翌年にはサロンドートンヌに初入選を果たす。 1927年(昭和2年)にフランスの画商、アンリ・ピエール・ロシェと契約し、『窓(カンヌ)』『姉妹ねむる』『サーカス』を制作。翌年にはニューヨークで初めての個展を開き、サロン・ド・レスカリエにも招待されるが、この頃から...
    8 KB (1,121 words) - 12:59, 16 June 2024
  • 古典絵画を模写する。こうしてモニュメンタルで古典の静かな香気が漂う画風が確立される。1927年(昭和2年)第20回サロンドートンヌに「毛皮の女」が初入選。翌年第21回サロンドートンヌにも「横臥裸婦」「赤いソーファの裸婦(白衣を纏う)」が入選する。 1929年(大正4年)経済的な理由で帰国。一時兵...
    8 KB (1,224 words) - 02:23, 30 April 2024
  • ート洗濯船に近く、モンマルトルの画家たちと知り合う。この頃、パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶ。 1907年末、サロンドートンヌに出品するが、同所の回顧展でポール・セザンヌを知り、強い衝撃を受ける。なお、同サロン...
    24 KB (2,487 words) - 02:28, 6 October 2024