• ルク・カアン(武宗カイシャン)即位時に「斉王」に封ぜられており、以後カサル家当主は斉王と称するようになった。オルクテムルは『元史』巻107宗室世系表によってバブシャの孫とされるが、息子とする説もある。 オルクテムルが登場するのはイェスン・テムル・カアンの時代からで、泰定3年(1326年)に斉王...
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  • コンゴル王(Qong'ur,黄兀児)…シクドゥルの息子 バイ・テムル(Bai Temür,伯帖木児)…ホンゴルの息子 斉王オルクテムル(Ürüg Temür,斉王玉龍帖木児)…ホンゴルの息子で、天暦の内乱では上都を陥落させる功績を挙げた ベルケ・テムル(Berke Temür,別児帖木児)…ホンゴルの息子...
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  • トグス・テムル(モンゴル語:ᠲᠡᠭᠦᠰ ᠲᠡᠮᠦᠷ, ラテン文字転写: Tögüs Temür)は、モンゴル帝国の第17代ハーン(北元としては第3代皇帝)。明朝の官選史料『明実録』では脱古思帖木児と記され、『新元史』『明史』といった後世の編纂物もこの表記を用いる。尊号はウスハル・ハーン(モンゴル語:ᠤᠰᠬᠠᠯ...
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  • してカアンを称した。天順帝を擁する上都側は反乱を押さえ込むために大都へと侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルらの軍勢に敗北し、上都軍は潰走した。 10月になると内モンゴル東部を領する斉王オルクテムル(ジョチ・カサルの子孫)が大都側について上都を囲み、天順帝とダウラト・シャーは完全に孤立した。ダウラ...
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  • ココ・テムル(Köke Temür、? - 1375年)は、元・北元の将軍。漢字表記は擴廓帖木児であるが、「保保」という中国名も有していた。 ココ・テムルの遠祖は幼い頃のチンギス・カンの命を助ける功績のあったバヤウト部のソルカンであり、ソルカンの曾孫のサイン・チダクとナイマン部族のチャガン・テムル...
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  • 1399年)…アユルシリダラの長男 クン・テムル(在位:1399年 - 1402年)…アリク・ブケ家出身。オイラトが擁立 オルクテムル(鬼力赤)(在位:1402年 - 1408年)…オゴデイ家出身。アスト部のアルクタイ・タイシが擁立 オルジェイ・テムル(プンヤシュリー)(在位:1408年 - 1412年)…エルベク・ハーンの長男...
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  • コンゴル(Хонгор Тайж) バイ・テムル(Бай Төмөр) オルクテムル(Өрөг Төмөр) ベルケ・テムル(Бэрх Төмөр) ブシュー(Бүс Тайж)…コンゴルの三子の「いずれかの息子」とする アグサカルダイ(Агсахалдай) アルグ・テムル(Аргун Төмөр) エスンク(Eсөнхү)...
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  • シクドゥル(Šikdür,勢都児/شیکتورShīktūr) 斉王バブシャ(Babuša,斉王八不沙/مامیشاMāmīshā) ビリグ大王(Birigü,必烈虎大王) コンゴル(Qong'ur,黄兀児) バイ・テムル(Bai Temür,伯帖木児斉王オルクテムル(Ürüg Temür...
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  • ルクタイ(モンゴル語: Аругтай тайш Arughtai taiš、? - 1434年)は、北元のアスト部の族長。漢語史料では阿魯台と記録されており、このためアロタイとも表記さる。 1403年にハーンに即位したオルクテムルの下で知院の官位についていたが、1408年にオルクテムル...
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  • ジノン (category 元の晋)
    を授け、チンギス・カンの四つの大オルドを統轄させ、また軍・馬・モンゴル国土を全て委ねた)」と表現している。 晋王位はカマラから息子のイェスン・テムルに、イェスン・テムルからその息子パドマギャルポへと受け継がれたが、天暦の内乱によってカマラの嫡統は途絶え、パドマギャルポを最後として晋...
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  • コンゴル(Хонгор Тайж) バイ・テムル(Бай Төмөр) オルクテムル(Өрөг Төмөр) ベルケ・テムル(Бэрх Төмөр) ブシュー(Бүс Тайж)…コンゴルの三子の「いずれかの息子」とする アグサカルダイ(Агсахалдай) アルグ・テムル(Аргун Төмөр) エスンク(Eсөнхү)...
    7 KB (1,020 words) - 15:22, 12 November 2023
  • 徐温(呉の斉王、追封) 徐知誥(呉の斉王) - 呉の睿帝から禅譲を受けての皇帝に即位し、さらに名を李昪、国号を唐と改めた(南唐の烈祖・先主)。 石重貴(後晋の斉王) - 後晋の皇帝に即位。 遼朝 韓徳譲 耶律隆裕 北宋 趙廷美 元朝 バブシャ オルクテムル 北元 ボルナイ 明朝 朱榑 朱由楫 郡 表示 編集...
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  • 弱体化し結束力は失われた。ナヤンの乱以後、天暦の内乱では斉王オルクテムル(カサル裔)が遼トクトア(オッチギン裔)を殺害するなど各王家が独自の行動を取るようになった。 元末明初期、東道諸王の中で史書に名を記される有力者としてオッチギン家の遼アジャシュリがいた。しかしウスハル・ハーンの死をきっかけ...
    14 KB (2,293 words) - 12:19, 29 September 2023
  • また、オシュ・テムルはかつて父エセンが一度支配下に置いたコムル方面に進出していたものの、成化5年(1469年)にオシュ・テムルの配下拜亦撒哈が叛乱を起こし、400人を率いてコムル城に入った。翌成化6年(1470年)にはホルチン部首長の斉王ボルナイを破り、モンゴリア北部の大部分を手中に収めた。...
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  • ウネ・テムル(モンゴル語: Ūne temür,中国語: 遼兀研帖木児,? - ?)とは、チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの子孫で、15世紀中頃に活躍したモンゴル帝国の皇族。ウリヤンハイ三衛の一つ泰寧衛を統べ、「遼(劉)」と称してマルコルギス・ハーンやモーラン・ハーンに仕えていた。漢字表記は兀研帖木児など。...
    5 KB (943 words) - 06:55, 29 January 2022
  • シクドゥル(Šikdür,勢都児/شیکتورShīktūr) 斉王バブシャ(Babuša,斉王八不沙/مامیشاMāmīshā) ビリグ大王(Birigü,必烈虎大王) コンゴル(Qong'ur,黄兀児) バイ・テムル(Bai Temür,伯帖木児斉王オルクテムル(Ürüg Temür...
    7 KB (1,205 words) - 04:42, 10 July 2024
  • 派に劣勢となり、逆に上都を包囲されてしまった。上都を包囲したのはカサル王家の斉王オルクテムルおよび東路蒙古元帥のブカ・テムルで、ここに至ってダウラト・シャーは降伏し、梁オンシャンは逃れたが、トクトアは斉王オルクテムルによって殺されてしまった。オッチギン王家当主のトクトアが同じ東方三王家の当主...
    12 KB (2,166 words) - 09:36, 8 July 2024
  • トグス・テムルの死後、モンゴリアでは東方のドチン・モンゴル(四十モンゴル、明側では韃靼と呼称)と西方のドルベン・オイラト(四オイラト、明側では瓦剌と呼称)が覇権を争う時代となった。このような中で、三衛はしばしば勢力拡大を図るモンゴル勢力の侵攻に晒された。オルクテムル・ハーンは元の末裔である三衛とコムル...
    18 KB (3,270 words) - 14:40, 13 June 2024
  • 方で編纂されたペルシア語史料『五族譜』では「テムル・カアンのアミール一覧」においてタラカイ(طرقاي/ṭaraqāī)の名前が挙げられている。 大徳11年(1307年)、オルジェイトゥ・カアンが死去し、クルク・カアン(武宗カイシャン)が即位した。クルク・カアンは即位前にアルタイ山脈方面に駐屯して...
    15 KB (2,585 words) - 05:03, 24 May 2024
  • オルジェイ・テムルが帰還したため、アルクタイらがオルクテムル・ハーンを廃位してオルジェイ・テムルを擁立するという事件が起こった。この時モンゴル高原の混乱を見て取った永楽帝は再びマフムード、タイピン、バト・ボラドの3名に使者を派遣して明朝への帰順を呼びかけた。 永楽7年(1409年)、オル...
    16 KB (3,164 words) - 06:27, 19 October 2023
  • 鎖南管卜から領地を侵していることを訴えられ、朝廷の介入を経て領地を返却させられている。 天暦元年(1328年)、イェスン・テムルが亡くなりカアン位をめぐって天暦の内乱が勃発すると、イェス・エブゲンは大都派として参戦し、襄陽一帯を確保した。斉王オルクテムル...
    7 KB (1,145 words) - 09:45, 8 July 2024
  • シクドゥル(Šikdür,勢都児/شیکتورShīktūr) 斉王バブシャ(Babuša,斉王八不沙/مامیشاMāmīshā) ビリグ大王(Birigü,必烈虎大王) コンゴル(Qong'ur,黄兀児) バイ・テムル(Bai Temür,伯帖木児斉王オルクテムル(Ürüg Temür...
    7 KB (1,023 words) - 14:47, 12 November 2023
  • ンの子であったトクトアが当主となったが、父同様に驕慢で元朝を侮る言動が屡々みられたという。しかし、トクトアは「天暦の内乱」においてカサル家の斉王オルクテムルに殺害されており、建国以来の東道諸王内での強い結束も失われてしまったようである。 総じて、強大な権限を持つ遼陽行省の設置と東道諸王の勢力分散...
    85 KB (15,893 words) - 10:24, 16 March 2023
  • #オルルク・ノヤン…? ○バトラ丞相(順寧マフムード)(#バトラン丞相)…ゴーハイ太尉の子 トゴン太師…マフムードの子 エセン・ハーン(#エセン・ノヤン)…トゴンの子 オシュ・テムル太師(オシュトモイ・ダルハン・ノヤン)(#エスメト・ダルハン・ノヤン)…エセンの子 ケシク太師…オシュ・テムルの子...
    6 KB (864 words) - 17:46, 6 March 2022
  • 長。トクトア・ブハ(タイスン・ハーン)を擁立し、東モンゴリアの有力者アルクタイを攻殺することによってトグス・テムルの死以来のモンゴリア統一を達成した。 『蒙古源流』はトゴンがバトラ丞相(マフムード)とエルベク・ハーンの娘のサムル公主との間に生まれ、幼名はバクムであったと記している。バトラ丞相はケレ...
    9 KB (1,502 words) - 01:05, 24 April 2024
  • 々クビライの母ソルコクタニ・ベキ(エシ・ハトン)の霊に奉仕した。クビライの即位後、子の安西マンガラ、孫の安西アナンダと相続され、泰定帝の代に安西オルクテムルに与えられたが、1332年、文宗トク・テムルによって取り潰された。1510年、ダヤン・ハーンがモンゴルを再統一すると、ダヤン・ハーンの直轄領となった。...
    14 KB (1,912 words) - 09:17, 16 October 2023
  • テムルが亡くなり、カイドゥの侵攻に対する指揮官としてキプチャク、アスト、カンクリといった軍事集団を率いていた武宗カイシャンが即位すると、これらの集団は引き立てられ、以後政治に介入するようにもなった。泰定帝イェスン・テムルの死後にはキプチャク人集団の長エル・テムルがトク・テムル...
    20 KB (3,328 words) - 12:38, 29 September 2023
  • 1582年、アルタン・ハーンが亡くなると、センゲ・ドゥーレン・テムル皇太子が後を継いでハーンとなった。 1582年、センゲ・ドゥーレン・ハーンはチベットのダライ・ラマ3世を招き、オルドスのホトクタイ・セチェン・ホンタイジ共々ダライ・ラマ3世から聖典の言葉・教誡・灌頂を受け...
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  • アを統一し、ハーンを称するに至ったが、モンゴル人の反発を招き部下のアラク・テムルに殺された。エセンの死によってチョロース氏の支配体制は崩れ、再びホイト部が力を持つようになった。 エセンの死後、チョロース氏からはオシュ・テムルやケシクといった指導者が輩出されていたがエセン時代ほどに勢力を回復すること...
    11 KB (1,696 words) - 08:39, 8 October 2023
  • テムル(伯顔帖木児)とされるが、後述するようにアスト部とヨンシエブ部とは混同されることが多かったこと、その妻の名前アハダライ・アガ(阿撻剌阿哈)の名前が一致することなどから同一人物と見られる。後にハーンを称したエセンは部下のアラク・テムル...
    12 KB (1,778 words) - 02:42, 9 November 2023
  • 「[大徳十一年秋七月]丁丑、封諸王八不沙為斉王、朶列納為済、迭里哥児不花為北寧……」 ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年八月]乙未、賜諸王按灰・阿魯灰・北寧迭里哥児不花金三百五十両・銀三千七百両」 ^ 『元史』巻95食貨志3,「又迭里哥児不花湘寧分撥湘郷州・寧郷県六万五千戸、計鈔二千六百錠」...
    6 KB (971 words) - 05:23, 31 May 2023