• ジョチ家ジョチけ)は、チンギス・ハーンの長男であるジョチから始まる家系である。 ジョチとはモンゴル語で「客人」を意味するが、チンギスの長男であるジョチは生母のボルテがメルキト族に略奪され、チンギスがそれを奪回した後に誕生した故につけられた名である(ただし集史ではボルテが略奪前に懐妊していたとされて...
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  • ジョチの末裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。 ジョチ・ウルスは歴史によって金帳汗国、キプチャク=ハン国といったさまざまな呼称がなされている。 『集史』「ジョチ・ハン紀」ではジョチ家の政権を指して「ジョチのウルス(ulūs-i jūchī)」と呼称しており、この記述に基づいてジョチ...
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  • ジョチ(ᠵᠥᠴᠢ Jöči、現代モンゴル語:Зүчи、1177年/1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチとも片仮名表記される。 漢字史料では主に朮赤、アラビア語・ペルシア語史料では主にجوچى خان jūchī khān と綴られる。...
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  • バトゥ (category ジョチ・ウルスの君主)
    Bātū、1207年 - 1256年)は、ジョチ家の2代目当主(ハン:在位1225年 - 1256年)で、ジョチ・ウルスの実質的な創設者。チンギス・カンの長男のジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。カナ表記ではバツ、バト。 1224年、父のジョチの死によりジョチ家...
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  • 答)、モンケ・テムル(忙哥帖木児)、トダ・モンケ(脱脱蒙哥)、トクタ(脱脱)、ウズベク(月即別)らジョチ・ウルス歴代当主を全て兄弟関係にあるとしている。詰まるところ、これらの系図は本紀や列伝(ジョチ家の場合は巻107朮赤伝)に散見する人名を何の根拠もなく、恣意的につなぎあわせたものに過ぎないと言える。...
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  • の使節団によって正式にイラン地域の支配を認めた王冠、封冊の賜衣、封冊書を拝領し、加えてジョチ・ウルスのモンケ・テムルからもハヤブサなどの祝賀の献上品を受領して、イランにおけるフレグの支配がモンゴル皇帝とジョチ家という二大勢力から正式に認証されることとなった。...
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  • ジョチ・カサル(Jöči Qasar, 1164年? - 1213年?)は、チンギス・カンの次弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの次男で、他の同母兄弟にはカチウンとテムゲ・オッチギンがいる。『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、搠...
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  • モンケ (category モンケ)
    勝を収めた。1232年、父の死によりトルイの当主となる。 1235年、第2代モンゴル皇帝オゴデイの下で、カラコルムのクリルタイにおいて諸国への遠征計画が発議された。その一つとしてジョチ家の当主バトゥを総司令としてヨーロッパ遠征が決議され、チンギス・カンの各王家から次期当主クラスの王族達を選抜し...
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  • グユク (category オゴデイ)
    の王族達およびバトゥ(ジョチ家)はオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。 バトゥは独自にクリルタイを開催し、オゴデイの王侯はこの動きに抵抗したが、ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギン...
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  • オルダ・ウルス (category ジョチ・ウルス)
    ムの戦い)、更に西進してシル河中・下流域のオアシス諸都市を征服した。これら、ジョチ存命中に獲得されたジョチ家最初期の領地(イルティシュ河上流域〜シル河下流域)をオルダは継承しており、その中心地はジョチの初封地たる「イルティシュ河のユルト」にあった。 その後、時代が降りモンゴル王公の定住化が進むと、オ...
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  • ウズベク・ハン (category ジョチ・ウルスの君主)
    Muḥammad Ūzbak、1282年 - 1342年)は、ジョチ・ウルスの第10代ハン(在位:1313年 - 1342年)。 ウズ・ベクとも書かれる『集史』によるとモンケ・テムル・ハンの十男で末子であったと思われるトグリルチャが父である。ジョチ家の王族としてはベルケ以来最もイスラームに帰依したことで知...
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  • サライ (都市) (category ジョチ・ウルス)
    Sarai、 Sarai-al-Maqrus、 Saraj、 Saray)は、13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルスの首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。...
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  • ジョチ家の人間が主にキプチャク草原に住まうようになったこともあり、これ以後平陽路はオゴデイ系王家の人間の遊牧地としても利用されるようになる。 帝位継承戦争を経て即位したクビライは当初ジョチ・ウルスに友好的であったが、「シリギの乱」が勃発した際にジョチ...
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  • トルイ (category トルイ)
    ジョチ家の筆頭部将だったコンギラト部族出身のサルジダイ・キュレゲンに嫁ぎ、その娘がジョチ家当主のモンケ・テムルの妃となった。この関係で叔父のクビライとオゴデイのカイドゥと紛争になった時、ケルミシュ・アガはトルイの王女としてトクタの時代までジョチ家、クビライ、フレグとの関係親交に尽力したという。...
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  • ベルケ (category ジョチ・ウルスの君主)
    一方、ジョチ・ウルスはバトゥの主導によってフレグの西方遠征にも親族を幾人か派遣していた。すなわち長兄のオルダの次男のクリを1万戸ともに派遣し、弟であるシバンの四男のバラカン、同じくボアルの次男のミンカダルの子のトカル(ノガイの従兄弟)などであった。 モンケ没後の混乱でベルケは西征軍に参加していたジョチ家...
    10 KB (1,618 words) - 01:22, 16 October 2024
  • スの時代に現在の甘粛省敦煌市一帯に設置された。 チンギス・カンによる西夏国征服後にジョチ家のバトゥに与えられており、平陽路とともに初期ジョチ・ウルスの投下領であった。13世紀後半にカイドゥの乱によって大元ウルスとジョチ・ウルスの交流が途絶えると、チャガタイ系ブヤン・ダシュを始祖とする西寧王家の拠点と...
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  • 西道諸王(せいどうしょおう)は、モンゴル帝国におけるチンギス・カンの諸子(ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、コルゲン)を始祖とする、モンゴル高原西方に領地を持つ諸王家の総称である。史料上では西方諸王、右翼諸王とも記される。 これに対し、チンギス・カンの諸弟(ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギン、ベルグテイ)を始...
    10 KB (1,723 words) - 11:01, 31 January 2023
  • オゴデイ (category オゴデイ)
    名せず、クチュの長男のシレムンを後継者としていたという。しかし、シレムンはいまだ若年であり、壮年の王族はオゴデイの息子たちはもとより、ジョチ家やトルイ、チャガタイにも大勢いた。オゴデイは即位の時にオゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞(möčelge)を提出させていたという。...
    16 KB (2,251 words) - 06:15, 18 August 2024
  • ており、これは「姉妹交換婚」として対となる婚姻であると考えられている。しかし、ジョチ家はチグゥの領地(西寧州)から遠く離れたキプチャク草原を本領としたため、ジョチ家とチグゥの婚姻は続かなかった。一方、トルイの息子ジョリケは「アルチ・キュレゲンの孫娘」ブルガイを娶ったと記録されているが、これはチ...
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  • モンケ・テムル (category ジョチ・ウルスの君主)
    ジョチ家や他の王家ではしばらくオイラト部族のクドカ・ベキがチンギス・カンの姻族として活躍していたが、モンケ・テムルの時代からバトゥではふたたびコンギラト部族が姻族としてジョチ・ウルスの宗主であるハンの正妃と母后を多く輩出するようになった。 ^ 『元史』巻117,列伝4の朮赤(ジョチ...
    8 KB (1,221 words) - 14:24, 4 March 2022
  • 隊」こそがイェケ・クトクトによって創始され、ジョチとともにイランに移住した千人隊であったと考えられている。 ジョチにはジェルメという息子とノクタンという娘がおり、前者はフレグの長女ブルガン・アカを娶り、後者はフレグの長男アバカに嫁ぐなど、ジョチ家はフレグと密接な姻戚関係を結んだ。特にアバカとノクタ...
    3 KB (408 words) - 21:05, 6 June 2022
  • オルダ (category ジョチ家)
    ‎Ūrda/Hurdū、? - ?)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・カンの長男ジョチの長男。ジョチの正室でコンギラト部族出身のサルタクを母に持つ。 父のジョチの死後、弟のバトゥと父の直属の軍隊を二分し、ジョチ・ウルスの左翼を形成した。 ジョチが没した後、オルダはジョチ...
    9 KB (1,200 words) - 13:16, 8 October 2022
  • における強固な基盤を築き上げたが、1232年に病を得て急死した。家督は長男のモンケが継いだが若年のため、正妻のソルコクタニ・ベキが家政を行ない、トルイは一時雌伏する。 オゴデイによる西征が開始されると、モンケは従軍し、ジョチ家のバトゥと親密になる一方でオゴデイのグユクやチャガタイ...
    4 KB (594 words) - 04:18, 19 May 2023
  • ジョチ・チャウルカン(モンゴル語: J̌öči ča'urqan,中国語: 朔魯罕,? - ?)とは、13世紀初頭のトランギト・ジャライル氏族長で、チンギス・カンに仕えてモンゴル帝国の千人隊長となった人物。 『元史』などの漢文史料では朔魯罕(shuòlŭhǎn)、『集史』などのペルシア語史料ではجوچی...
    6 KB (810 words) - 10:35, 30 January 2022
  • ジョチ家とフレグの対立はこの後も長く続いた。 そのジョチ・ウルスにおいてもモンケ時代に人口調査を受けた民は全てジョチ家の占有するところとなり、他家の介入を許さなかった。中央アジアでは事情が複雑で、モンケ時代にはチャガタイ・オゴデイを弾圧してジョチ家とトルイ...
    155 KB (22,488 words) - 05:24, 24 May 2024
  • ノガイ (category ジョチ家)
    1299年)は、ジョチ・ウルスの有力者。チンギス・カンの長男ジョチの血を引く王族で、ジョチの七男ボアルの長男タタルの子、すなわちジョチの曾孫である。『集史』などのペルシア語資料では نوقاى Nūqāy と表記されている。 バトゥ・ハンの時代から、ジョチ・ウルス右翼諸軍に属していたボアル...
    13 KB (1,971 words) - 10:45, 24 December 2023
  • ョチ家が分割することを約した(タラス会盟)。なお、旧来はこの会盟でジョチ家とチャガタイがオゴデイのカイドゥを三者共同のハーンに擁立し、クビライのカアン位を否定したとされるが、現在では疑問が呈されている。特にモンケ・テムルらジョチ・ウルスの王族たちは、モンケ没後の後継者争いにはクビライ、アリクブ...
    8 KB (1,241 words) - 23:17, 23 December 2023
  • ジョチ・ウルスのモンゴル人たちは早くに言語的に先住民キプチャクと同化してテュルク化し、ヨーロッパからは彼らを総称してタタール(タルタル)と呼ばれるようになる。 ジョチ・ウルスは14世紀前半にイスラム教を受容し最盛期を迎えたが、同じ世紀の後半にはジョチ家諸王家の政権やジョチ家...
    8 KB (1,067 words) - 23:36, 2 April 2022
  • Odčigin、? - 1246年)は、チンギス・カンの末弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとホエルン夫人との四男で、他の同母兄にはジョチ・カサルとカチウンがいる。 『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、帖木格斡惕赤斤(『元朝秘史』巻1・60段)・鉄木哥斡赤斤・帖木格斡赤斤・忒木哥...
    9 KB (1,331 words) - 15:05, 27 November 2022
  • ジョチ家のバトゥらを大将にして西征を行わせて東欧にまで進出する。しかし南宋攻略には失敗し、皇太子のクチュまでも失った。このため有力な後継者を欠いたまま1241年にオゴデイが急死すると、後継をめぐってオゴデイとチャガタイ、トルイジョチ家...
    3 KB (398 words) - 06:02, 6 September 2022
  • ウルスはチャガタイの曾孫バラクによって再統一されつつあり、イェスルもバラクに仕えてその軍団長となった。 バラクはタラス会盟によってオゴデイのカイドゥ、ジョチ家のモンケ・テムルらとともに中央アジアの領土を分割し、更に西南のフレグ・ウルスに侵攻する協力をとりつけた。この時、イェスルは「最良の策は和平...
    5 KB (790 words) - 11:19, 8 December 2023