• トグステムル(モンゴル語:ᠲᠡᠭᠦᠰ ᠲᠡᠮᠦᠷ, ラテン文字転写: Tögüs Temür)は、モンゴル帝国の第17代ハーン(北元としては第3代皇帝)。明朝の官選史料『明実録』では脱古思帖木児と記され、『新元史』『明史』といった後世の編纂物もこの表記を用いる。尊号はウスハル・ハーン(モンゴル語:ᠤᠰᠬᠠᠯ...
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  • 帝と皇太子がそのまま北方に避難して宮廷が温存されたという点では、この「北元」は中国史として唯一の例である。 北元では、1388年にトゴン・テムルの子トグステムル・ハーンがアリクブケ裔のイェスデルによって殺害されてハーン位を簒奪され、元の事実上の始祖であるクビライ裔の皇統が一時的に断絶した。1388...
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  • 而敵自脱古思帖木児後、部帥紛拏、五伝至坤帖木児、咸被弑、不復知帝号。有鬼力赤者簒立、称可汗、去国号、遂称韃靼云。 (しかして敵は、トグステムルより後部族の統率者間に紛争があり、クン・テムルに至るまで五代の首領は皆殺されて、またその帝号は知られない。その後、鬼力赤という者があって、位を奪って立ってハーンと称し...
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  • トグステムル)を弑逆して帝位についており、この頃の北元社会は帝位を巡って非常に不安定な情勢にあった。 1399年、「雪のように肌が白く、血のように頬の赤い」絶世の美女を求めていたエルベク・ハーンは、オイラトのジャハ・ミンガン部のゴーハイ太尉に勧められ、息子であるハルグチュク・ドゥーレン・テムル...
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  • テムルは文宗の次男のエル・テグスの擁立を計画したが、その母のブダシリがエル・テグスは未だ幼少であることを理由にトゴン・テムルを推挙したため、ブダシリによってトゴン・テムルが広西から召還されることとなった。 エル・テムルには明宗毒殺説もあり、既に13歳となっていたトゴン・テムル...
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  • ゴルの第18代皇帝(ハーン)。チンギス・カンの孫で、兄クビライと帝位を争ったアリク・ブケの後裔にあたる。第17代皇帝のウスハル・ハーン(天元帝トグステムル)を弑逆してクビライの王統を一時的に断絶させ、北元時代をもたらしたことで知られる。 モンゴル皇帝としての称号はジョリクト・ハーン(Зоригт...
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  • イェスンテイの勢力(オゴデイ家)と、マルハザとアルクタイの勢力(故トグステムル直属の勢力)の連合政権とも呼ぶべきものであった。 同年、オルク・テムル・ハーンとアルクタイは軍を率いてチョロース部のマフムードと戦ったが、オルク・テムルらはマフムード率いるオイラト軍に大敗し退却を余儀なくされた。モンゴ...
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  • しかし、アリクブケの子孫であるイェスデルが1388年にクビライの子孫トグステムルを殺害してカアン位を奪うことで、100年目の復讐を果たしている。また、フレグの立てたイルハン朝において、アリクブケの次男メリク・テムルの曾孫のアルパ・ケウンが君主位に就いたことがある。...
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  • アユルシリダラ (category トゴン・テムル)
    テムルを総司令官として軍を南下させ、一時は山西北部まで勢力を盛り返すが、宣光5年(1375年)にココ・テムルが病死してからは反攻も頓挫することとなった。その3年後の宣光8年(1378年)にカラコルムで崩御し、後を異母弟ともされるトグステムルが継いだ。 ^...
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  • ったとし、イェスデルの名が出てこない。一方、『アルタン・トブチ』ではジョリグト・ハーンとエンケ・ハーンの2人が登場し、ウスハル・ハーン(天元帝トグステムル)が1388年に亡くなった後、ジョリグト・ハーンが1388年から1391年まで、エンケ・ハーンが1391年から1394年まで帝位にあり、その後...
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  • の元朝は北元と呼んでそれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグステムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)が、1388年にトグステムルが殺害されクビライ以来の直系の王統は断絶する。...
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  • 南部政行、鎌倉時代、南北朝時代の武将、南部氏の第12代当主(* 生年未詳) 崔瑩、高麗の武将(* 1316年) 陳晛、ベトナムの陳朝の第11代皇帝(* 1361年) トグステムル、モンゴルのハーン(* 1342年) フィールーズ・シャー・トゥグルク、トゥグルク朝の第3代スルタン(* 1309年)...
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  • 奇皇后 (category トゴン・テムル)
    トグステムル(北元の天元帝)である。北元が頼みにしていた満州に勢力を有する大尉ナガチュが1387年、明の圧力に抗しきれず投降すると、北元の命運は尽きる。洪武21年(1388年)、根拠地であるブイル湖一帯を明軍に襲撃されたトグステムル...
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  • 14世紀後半以降、モンゴル帝国が解体してゆく過程で、アリクブケの後裔イェスデルが、クビライ家正統継承者である北元のトグステムル・ハーンを殺害してハーン位を奪取する事件が起こり、14世紀末から15世紀前半にかけて、モンゴル高原では西部の諸部族、中でもアリクブケ一門支持派...
    36 KB (4,843 words) - 20:27, 30 March 2024
  • 天元 (北元) (category トグステムル)
    天元(てんげん)は、中国・北元のトグステムルの治世で用いられた元号。1379年 - 1388年。 史書によって元年と末年には異説がある。 プロジェクト 紀年法 『新元史』恵宗本紀(1379年 - 1388年) 『明実録』(1388年末年説) 『明史』太祖本紀(1389年末年説)、韃靼伝(1388年末年説)...
    2 KB (130 words) - 06:08, 13 September 2022
  • 1332年) 寧宗リンチンバル(1332年) コシラの次男。 恵宗トゴン・テムル(1333年 - 1370年) コシラの長男。リンチンバルの兄。 昭宗アユルシリダラ(1370年 - 1378年) トゴン・テムルの子。 天元帝トグステムル(1378年 - 1388年) アユルシリダラの弟。 イェスデル(在位:1388年...
    121 KB (16,166 words) - 09:44, 1 September 2024
  • 14世紀末、オイラト部を始めとするモンゴリア西方の諸部族はアリクブケの子孫であるイェスデルに従ってハーンのトグステムルを殺し、イェスデルをハーンとした。この時アリク・ブケ家に従った旧オイラト部(後のホイト部)・旧ケレイト部(後のトルグート部)・旧バルグト部(後...
    6 KB (864 words) - 17:46, 6 March 2022
  • 朝に投降し、翌洪武21年(1388年)にハーンのトグステムル(ウスハル・ハーン)が殺されるとモンゴル側の劣勢は決定的となり、明朝に投降するモンゴル人が相次いだ。 チンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンの子孫である遼王アジャシュリもまた、トグステムルの死によって明朝への投降を余儀なくされ、これを受...
    18 KB (3,270 words) - 14:40, 13 June 2024
  • 方して戦ったことを下敷きに作られたものであると考えられている。 14世紀末、オイラト部はアリク・ブケの末裔であるイェスデルに従い、時のハーン、トグステムルを殺害した。この際にイェスデルの下に結集した反クビライ家の諸部族、オイラト部(後のホイト部、バートト部))・旧バルグト部(後のバルグ部、ブリヤ...
    6 KB (927 words) - 03:08, 8 June 2022
  • 宣光(せんこう)は、中国・北元の昭宗アユルシリダラ及びトグステムルの治世で用いられた元号。1371年 - 1379年。 史書によって元年と末年に異説がある。 プロジェクト 紀年法 『新元史』恵宗本紀 鍾淵映『歴代建元考』(1370年 - 1380年説) 李崇智 『中国歴代年号考 修訂本』(北京:中華書局,2001年1月)...
    1 KB (100 words) - 04:55, 7 December 2018
  • 000の兵を率いてモンゴル高原への遠征軍を率いた。ブイル・ノールに駐留する北元の皇帝トグステムルの元に向かい、百眼井に到達するが敵軍の姿を確認できなかったため、藍玉は帰国を考える。しかし、定遠侯の王弼に説得されて進軍を続け、ブイル・ノールの戦いでトグステムルの軍を撃破した。トグステムルは逃したものの、彼の妃や次男の地保奴を捕らえ、...
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  • ブハ(タイスン・ハーン)を擁立し、東モンゴリアの有力者アルクタイを攻殺することによってトグステムルの死以来のモンゴリア統一を達成した。 『蒙古源流』はトゴンがバトラ丞相(マフムード)とエルベク・ハーンの娘のサムル公主との間に生まれ、幼名はバクムであったと記している。バトラ丞相はケレヌートのオゲチ・...
    9 KB (1,502 words) - 01:05, 24 April 2024
  • モンケの系統はモンケ没後は不遇であり、モンケの遺児シリギは1276年に反乱を起こして鎮圧され、モンケ家は没落した。 クビライの系統は元朝が北走して北元になった後、トグステムルがアリクブケ家のイェスデルに殺されて消滅した。 モンケ・クビライの同母弟、アリクブケの同母兄であるフレグは、モンケの命令で西アジアやシリア方面...
    4 KB (594 words) - 04:18, 19 May 2023
  • 安嶺西麓にはチンギス・カンの諸弟たちのウルスが分封されているが、フルンボイル地方はこのうちテムゲ・オッチギンとその一族が領有していたとする説が現在有力視されている。明の初期、藍玉率いる明軍が北元のトグステムルの軍を潰走させ、多くの捕虜を得ている。 ^ “Lake Buir and its surrounding...
    4 KB (521 words) - 10:28, 5 February 2024
  • 易ルートが確立したことによってオイラト部は経済的に活性化した。 14世紀末、オイラト部はアリクブケの末裔であるイェスデルに従い、時の大ハーン、トグステムルを殺害した。この際にイェスデルの下に結集した反クビライ家の諸部族、オイラト部(後のホイト部、バートト部)・旧バルグト部(後のバルグ部、ブリヤー...
    11 KB (1,696 words) - 08:39, 8 October 2023
  • また同時期には宮古・八重山からの入貢もこの時期行われるようになった。1390年、宮古の与那覇勢頭豊見親は島内統一の際の後見を期待して入貢している。 なお彼の治世に、北元3代皇帝トグステムルの次男ディボヌ(中国語版)(地保奴)が明の洪武帝によって琉球に配流されたことが、『明史』や『球陽記事』に記されている(ディボヌのその後は、伝わっていない)。...
    6 KB (792 words) - 12:44, 15 June 2024
  • 諸侯の一人として知られていた。1380年代、北元の中で最も有力な勢力は遼東に蟠踞するジャライル部のナガチュであったが、ウスハル・ハーン(天元帝トグステムル)はナガチュを制御することができず、他の有力臣下であるカラジャン・マンジ・ヤナシュリらも互いに猜疑心を抱いており北元政権は不安定な状態にあった...
    7 KB (1,335 words) - 13:40, 7 September 2022
  • トゴン・テムル死後に北元は皇太子のアユルシリダラが後を継いでいたが、洪武8年(1375年)のココ・テムルの死後はその勢力を大きく減退させていた。更に洪武21年(1388年)には藍玉を将軍とした明軍がアユルシリダラの弟トグステムルの軍を撃破。その後にトグステムルが殺されたことでモンゴルは混乱期に入ることになる。...
    38 KB (6,659 words) - 04:08, 5 July 2024
  • しかし、チャランの処刑によってスルドス部とアリク・ブケ家との関係が断たれたわけではなく、『集史』「クビライ・カアン紀」の「メリク・テムルの御家人一覧」では1,5,6,17番目の千人隊長がスルドス部族出身であったと記されており、メリク・テムル・ウルスにおいてスルドス部が重要な位置を占めていたことが窺える。 ^ 志茂2013,666-667頁...
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  • テムル(モンゴル語: Temür、生没年不詳)とは、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたスニト部出身の千人隊長の一人。 『元朝秘史』などの漢文史料では帖木児(tièmùér)、『集史』などのペルシア語史料ではتيمور(tīmūr)と記される。 『集史』「スニト部族志」にはスニト部出身のノコル(御...
    3 KB (342 words) - 22:03, 7 June 2022
  • 3年に建元したとされるが、添元という私年号の存在そのものに疑義を呈する見解もある(鍾淵映は『歴代建元考』巻頭「歴代建元類考」の中で、「添元」がトグステムルの治世で用いられた元号である「天元」と似ていることを理由に再考証の必要性を指摘している。また、羅福頤も「北元官印考」『故宮博物院院刊』1979...
    19 KB (3,010 words) - 05:28, 24 January 2024