• ビテュニア(Bithynia)は、歴史的地名で、古代にはビテュニア王国(ビテュニアおうこく)、共和政ローマの時代に属州(ビテュニア属州(ビテュニアぞくしゅう))が存在した。小アジアの北西にあたり、マルマラ海、トラキア、ボスポラス海峡および黒海に接する。 ビテュニア...
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  • テュースの息子の1人で、小アジアのサンガリオス川(現在のサカリヤ川)の河神である。サンガリオス川はプリュギア地方やビテュニア地方を流れて黒海に注ぐ。一説によるとメトーペーとの間にトロイア王プリアモスと結婚したヘカベーをもうけた。さらにパウサニア...
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  • ニアでローマに対する反乱(英語版)を起こした。ポントス王ミトリダテス6世はセルトリウスの反乱に呼応して、前75年にローマに対する戦争を起こした。 紀元前74年の春、ミトリダテス6世はアルメニア王国やボスポロス王国と同盟を結び、大軍を催してビテュニアに攻め込んだ。ビテュニア...
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  • 返還するように命じ、ミトリダテス6世も返還を受諾した。 しかし、ミトリダテス6世は隣国のビテュニア王ニコメデス4世の兄弟ソクラテスに一軍を与え、ビテュニアに送り込んだ。ソクラテスはニコメデス4世を追ってビテュニアを支配した。他方、カッパドキアでもミトリダテス6世の援助を受けた反乱が起こり、ローマが送...
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  • マケドニア王国最後の王アンドリスコスが王位に就いた。 共和政ローマの支援を得て、ニコメデス2世が父プルシアス2世の後を継いでビテュニアの王になった。 マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス、共和政ローマ期の政治家(* 紀元前234年) プルシアス2世、ビテュニア王(* 紀元前182年)...
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  • ビテュニア王ニコメデス3世と共謀してパフラゴニア(英語版)及びガラティアを分割支配することを企んだが、ビテュニアがこれに反してローマと同盟を結び、ミトリダテス6世への対抗姿勢を鮮明にした。また、カッパドキアの支配権を巡る戦いでビテュニアを破ったが、ビテュニア...
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  • 崇神天皇24年 皇紀587年 中国 前漢 : 元平元年 朝鮮 檀紀2260年 仏滅紀元 : 470年 ユダヤ暦 : 3687年 - 3688年 ビテュニア最後の王ニコメデス4世が遺言で元老院に王国を譲った。 キュジコスの戦いで、ルキウス・リキニウス・ルクッルスに率いられたローマ軍がポントスのミトリダテス6世の軍を破った。...
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  • スッラによる護民官の職の制限を非難した。 マルクス・トゥッリウス・キケロがクァエストルの職に就いた。 ビテュニアのニコメデス4世は、ポントス王ミトリダテス6世がビテュニア、カッパドキア、パフラゴニア(英語版) に侵攻し、第三次ミトリダテス戦争を始めたことに腹を立て、自分の死後、王国をローマ帝国に譲渡すると遺言状した。...
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  • 史上もっとも有名なニカイアは、小アジアのビテュニアのヘレニズム都市である。ビテュニアのニカイアは、現在のトルコの都市、イズニクにあたり、初期キリスト教の教義確立に大きな影響を与えた、二つの公会議(325年および785年)の開催地、東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国の首都として知られる。 ビテュニア...
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  • アンティオコス1世が、父の仇であるマケドニア王プトレマイオス・ケラウノスに和平を結ぶことを強いられ、マケドニアとトラキアを支配する計画が破綻する。 ビテュニア王ニコメデス1世が、父ジポイテス1世から続くアンティオコスの侵攻に脅かされる。アンティオコスはビテュニアに侵攻したが、戦いの危険を冒さず撤退した。...
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  • 1204年)の間に名を挙げた。コンスタンティノポリス陥落に際し、その直前に即位した兄のコンスタンティノス(「一夜皇帝」)らと共に首都を脱出した。付き従った一団を率いて、ビテュニアに赴いてニカイアに定住。この地が帝国民にとって再出発の場となった。ひとまず十字軍の危険から解放され、コンスタンティノスより権力を譲られて小アジア...
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  • 紀元前207年) 紀元前228年 ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス、共和政ローマの軍人、元老院議員(+ 紀元前174年) プルシアス1世、ビテュニアの第6代国王(+ 紀元前182年?) 紀元前227年 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、共和政ローマの執政官(+ 紀元前171年?) 紀元前220年...
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  • ニコメデス4世フィロパトル(ラテン語: Nicomedes IV Philopator, ? - 紀元前74年)は、ビテュニア王国の国王(在位:紀元前94年 - 紀元前74年)であり、ビテュニア王国最後の王でもある。ニコメデス3世の子。 ニコメデス4世の生年及び王位に即くまでの経歴は一切不明である。紀元...
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  • ガリア・キサルピナ属州に侵略したキンブリ族へ対するために、総司令官ガイウス・マリウスは兵を募ると共に、同盟国であったビテュニアへ支援を要請したものの、ビテュニアは応じることができなかった。そのため、マリウスはローマの奴隷を兵に充てるべく、従順な一部の奴隷を解放するよう指示した。...
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  • コルネリア・アフリカナ、スキピオ・アフリカヌスの娘、グラックス兄弟の母(* 紀元前190年頃) ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス、ローマの政治家(* 生年不詳) ビテュニアのテオドシウス、古代ギリシアの天文学者、数学者(* 紀元前160年頃) 注釈 出典 [脚注の使い方] ウィキメディア・コモンズには、紀元前100年に関連するカテゴリがあります。...
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  • ἀνάβασις/Alexandrou anabasis、直訳すれば『アレクサンドロスのアナバシス』)の著者として有名である。 アッリアノスはビテュニアのニコメディアでローマ市民権をもって生まれた。エピルスのニコポリスで哲学者エピクテトスに学び、師の言葉を筆録した『語録』と師の教えの要約である『提要』を著した。...
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  • 聖マリーナまたはビテュニアのマリーナ(伊: Santa Marina della Bitinia、? - 750年頃)は、8世紀頃のキリスト教の聖人である。聖マリナとも。ヴェネツィアのカトリック教会などで崇敬されている。同名の聖人にアレクサンドリアのマリーナが存在し、混同される場合がある。...
    6 KB (747 words) - 00:49, 14 April 2021
  • 3608年 ルシタニア人が、ローマ帝国のヒスパニアを何度も襲撃した。同じころ、ドウロ川沿いに住むヌミディアのケルティベリア人は、ローマ帝国の支配に対して反乱を起こした。 2年に及ぶ戦いを経て、カッパドキアのアリアラテス5世とローマ軍の支援を得たペルガモン王国のアッタロス2世は、ビテュニアのプルシアス2世を破った。...
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  • 楚の幽王が死去し、楚の人々は弟の哀王を擁立した。庶兄の負芻がこれを殺して、自ら即位した。 魏の景湣王が死去し、子の魏王假が即位した。 プルシアス1世 - ビテュニア王(紀元前182年没) ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス - 、共和政ローマの軍人、政治家(紀元前174年没) ハミルカル・バルカ -...
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  • トルコ (redirect from テュㇽキイェ)
    、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。 トルコはチューリップを国花と定めている。チューリップは元々、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、天山山脈を原産地としているが、中央アジアからのテュルク系民族の移住によってアナトリアへ持ち込まれ栽培された。...
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  • ナルボネンシス(Narbonensis)(ガリア,Galliaの一州) バエティカ(Baetica)(イベリア半島の一州) マケドニア(Macedonia)(テッサリア,Thessaliaも含む) ポントゥス・ビテュニア(Pontus et Bithynia) シキリア(Sicilia) 表示 編集...
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  • またデメトリオスは、マケドニア北部から南下する蛮族も撃退せねばならず、ダルダニ族との戦いは熾烈を極め、王位を幼い息子ピリッポスに託して紀元前229年に没した。 シリア王アンティオコス1世の娘ストラトニケ(従妹で母の異父妹にあたる)と結婚し、1女をもうけた。 アパメー3世 - ビテュニア王プルシアス1世と結婚...
    3 KB (293 words) - 22:14, 23 January 2022
  • ニアのペルセウスとガラティア人に対する戦いのあたりから、アッタロス朝とローマとの関係は悪化した。その他の地域との関係では、セレウコス朝とは同盟関係にあり、カッパドキアのアリアラテス4世、ポントスのミトリダテス4世などとの関係も良好であり、ただビテュニア...
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  • 太始3年 朝鮮 檀紀2240年 仏滅紀元 : 451年 ユダヤ暦 : 3667年 - 3668年 ニコメデス4世が父のニコメデス3世の後を継ぎビテュニアの王になった。 サカがインド北部の統治を始めた。 執政官 - ガイウス・コエリウス・カルドゥスとルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス...
    2 KB (439 words) - 02:26, 26 January 2022
  • ハンニバル (category チュニジアの紙幣の人物)
    ニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する。 シリア戦後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れようとクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと落ち延びた。ハンニバルのビテュニア滞在を知りながらしばらくは静観したローマだが、元老院は使者としてティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスを送り、ビテュニア...
    39 KB (4,804 words) - 21:11, 15 February 2024
  • アンティゴノス2世は、アンティオコス1世と和平を結んだ。その後、アンティゴノス2世の外交政策は、セレウコス朝との友好関係を基調とするものとなった。 ニコメデス1世がビテュニア王国の最初の王となった。彼はニコメディアの街を創設し、この街はすぐに大いに繁栄した。 カルタゴ軍は、シラクサとアグリジェントの間の争いに介入する...
    4 KB (496 words) - 22:37, 27 January 2022
  • 紀元前120年に即位したミトリダテス6世は、コルキスやボスポロス王国を服属させ、スキタイ人を破って黒海沿岸を制覇した。更にローマの属国であったビテュニアやカッパドキアへの侵略に及んだことから、ローマはこれを口実としてミトリダテスと戦争状態に突入した。紀元前88年から3次にわたるミトリダテス戦争で...
    7 KB (815 words) - 07:06, 27 January 2024
  • のブルサ大都市自治体はブルサ県と同一の範囲となっている。 この地にあった古代の都市キオス(en:Cius)が、紀元前202年にマケドニア王ピリッポス5世からビテュニア王プルシアス1世に与えられ、その名にちなんでプルサ(Prusa)と名づけられたといわれる。 シルクロードの西端の都市として繁栄した。...
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  • Pompeia法により、ガリア・キサルピナの住民にローマ人と同じ権利が与えられた。 マルクス・トゥッリウス・キケロがローマ軍を退いた。 ポントスのミドリタデス6世がカッパドキアとビテュニアに侵攻し、第一次ミドリタデス戦争が始まった。 上官皇后:漢の昭帝の皇后(紀元前37年没) アウルス・センプロニウス・アセリオ:ローマのプラエトル...
    3 KB (547 words) - 02:23, 26 January 2022
  • (紀元前186年の執政官)を派遣し、紛争の解決に当らせた。 ムティナ、アクイレイア、パルマ、エトルリアのサトゥルニアにローマの植民市ができた。 スキピオ・アフリカヌスがカンパニア州のリテルヌムで死去した。 ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスがビテュニアに派遣され、ペルガモンとの戦争とカルタゴの元将軍ハンニバルの受け入れに抗議し...
    4 KB (602 words) - 13:51, 11 March 2024
  • 食が乏しい状況で敵中に残されたヨウィアヌスは、ペルシア王シャープール2世と屈辱的和議(アルメニア、メソポタミアのチグリス川以東の放棄)を結び、撤退。364年にコンスタンティノポリスへの帰還の途中、ビテュニア属州のダダスタナ付近で火鉢によるガス中毒で死亡したといわれている。ただし、暗殺説もある。キリ...
    4 KB (417 words) - 01:57, 24 December 2023