公国の分領公国であったが、のちに大公国を称した。 1218年のウラジーミル大公コンスタンチンの死後、所領がその子たちに分割相続されたことで、ヤロスラヴリ公国が形成された。初代ヤロスラヴリ公はコンスタンチンの次男フセヴォロドであり、公国の領域は、ヤロスラヴリ...
8 KB (815 words) - 02:42, 17 December 2023
ヤロスラヴリ(ヤロスラーヴリ、ロシア語: Ярославль, ラテン文字転写: Yaroslavl' [jɪrɐˈsɫavlʲ]イラスラーヴリ)は、ロシア西部、ヤロスラヴリ州の州都。人口は57万7279万人(2021年)。モスクワの北東250 kmに位置する。 ヴォルガ川とコトロス...
11 KB (1,008 words) - 07:50, 17 January 2024
て来た(モンゴルのルーシ侵攻)。ユーリー2世は諸公の兵力をかき集めるためにウラジーミル大公国の首都ウラジーミルを出てロストフ及びヤロスラヴリを回り、兵を集めた。ウラジーミルの町についてはフセヴォロドやムスチスラフら息子に託した。しかしバトゥは首都ウラジーミルを攻撃して同地を占領し、ユーリー2世の一...
10 KB (1,100 words) - 19:33, 30 August 2023
ヤロスラヴリ公(ロシア語: Князь Ярославский)はヤロスラヴリ公国の君主の称号である(「公」はクニャージからの訳出による)。君主号・公国の名は、その首都だったヤロスラヴリによる。 括弧内は在位年 フセヴォロド・コンスタンチノヴィチ(1218年 - 1238年) ヴァシリー・フセヴォロドヴィチ(ru)(1238年...
3 KB (198 words) - 00:43, 28 April 2020
ペレヤースラウ公国 Переяславське князівство ペレヤースラウ公国(ペレヤスラヴリ公国)(ウクライナ語:Переяславське князівство)は、11世紀から1239年まで存在したリューリク朝のルーシ系の公国の一つ。首都はペレヤスラーヴリ(現在のペレヤスラウ=フメリニツキー)。...
5 KB (325 words) - 05:26, 26 December 2023
ドン川沿いの大都市ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌ)と区別するために、ロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий, 大ロストフ)、或いはロストフ・ヤロスラフスキーと呼ばれることもある。鉄道駅はロストフ・ヤロスラフスキー駅と呼ばれ、モスクワからヤロスラヴリ方面行きの多くの列車が停車する。 ロス...
8 KB (664 words) - 05:29, 13 July 2024
祖:オレグ・スヴャトスラヴィチ)、スモレンスク公国のロスチスラフ一門(始祖:ロスチスラフ・スヴャトスラヴィチ)、ヴォルィーニ公国のイジャスラフ一門(始祖:イジャスラフ・ムスチスラヴィチ)、スーズダリ公国のユーリー一門(始祖:ユーリー・ドルゴルーキー)であった。...
75 KB (9,861 words) - 06:02, 30 December 2024
ペレヤスラヴリ公(ウクライナ語: Переяславські князі)とは、ペレヤスラヴリ公国の君主の称号である(「公」は「クニャージ」からの訳出による)。 (留意事項) 本頁の人名・地名は現地の言語の音写よりも、日本語表記として一般的と思われるものを優先して表記している。...
5 KB (440 words) - 12:28, 9 July 2019
56.733; 38.867 ペレスラヴリ・ザレスキー(ロシア語: Пересла́вль-Зале́сский;「森の向こうのペレスラヴリ」)は、ロシアのヤロスラヴリ州にある古都。人口は3万7738人(2021年)。モスクワの北東140km、州都ヤロスラヴリ...
5 KB (619 words) - 06:44, 21 May 2023
コンスタンチン (ウラジーミル大公) (category ロストフ公)
1216年には弟のユーリー2世とヤロスラフ(後のヤロスラフ2世)の軍を破り、ウラジーミルに入り、大公になる。 1218年に死去。三人の息子に世襲分の領土を分割し、ロストフ(ロストフ公国)をヴァシリコに、ウグリチ(ウグリチ公国)をウラジーミルに、ヤロスラヴリ(ヤロスラヴリ公国)をフセヴォロドに遺贈した。...
4 KB (210 words) - 08:02, 14 April 2020
コテリニチェスク公国 ペレヤスラヴリ公国 - (ペレヤスラウ=フメリニツキー・1054年 - 1239年)cf.:ペレヤスラヴリ公 ゴロデツ-オスチョール公国 - (オステール) ガーリチ公国 - (ハールィチ(1290年よりリヴィウ)・1084年 - 1352年)cf.:ガーリチ公 ペレムィシュリ公国 - (プシェムィシル・1085年...
25 KB (2,024 words) - 08:01, 3 September 2023
ヤロスラフ・フセヴォロドヴィチ(Ярослав II Всеволодович、1191年2月8日 - 1246年9月30日)は、フセヴォロド3世の子、母はチェコ公女マリヤ。キエフ大公としてはヤロスラフ3世と数えられる。ペレヤスラヴリ・ザレスキーで生まれる。ペレヤスラヴリ公...
7 KB (554 words) - 06:04, 24 December 2022
スラヴリ・ザレスキー公ドミトリーとの間に行われていたウラジーミル大公国の内戦(ru)に、ドミトリー陣営に立って参戦していたトヴェリ公ミハイルは、1293年に同陣営のロストフ公ドミトリー(ru)の娘アンナ(ru)と結婚し、カシンがトヴェリ公国領へと編入された。 また、1295年、トヴェリ公国...
26 KB (2,480 words) - 02:06, 13 May 2023
モジャイスク公(1250年 - 1299年)、スモレンスク公(1279年 - 1281年)、ヤロスラヴリ公(1293年 - 1299年)。 コンスタンチン ユーリー 公位の置かれた都市はそれぞれスモレンスク、ムスチスラヴリ、モジャイスク、ヤロスラヴリを参照されたし。 ^ a b Л.Войтович КНЯЗІВСЬКІ...
6 KB (417 words) - 08:22, 24 April 2022
公国の中心地ともなった。 1132年、大公ムスチスラフ1世の死後、キエフ大公国はいくつかの小公国に分裂した。ユーリー・ドルゴルーキーはスーズダリ公国の公座を獲得し、ペレヤースラウ公国を狙った。このことについて、隣国チェルニーヒウ公国...
11 KB (1,194 words) - 14:44, 9 March 2024
ポロツク公国 Полацкае княства P V M IZ D L O K G S R KI T N VI ポロツクとその分領公国 P:ポロツク公国 V:ヴィテプスク公国 L:ルコームリ公国 D:ドルツク公国 O:ロゴジュスク公国 M:ミンスク公国 IZ:イジャスラヴリ公国 G:ゲルツィケ公国 K:クケイノス公国...
35 KB (3,458 words) - 03:21, 17 December 2023
公国にとっては恥辱であったが、翌年のスヴャトスラフの勝利により、かなりの期間にわたってキエフとチェルニゴフに対するクマン人の脅威が軽減された。やがてイジャスラフと敵対し、1073年にはフセヴォロドと手を組んで、大公位を奪った。1073年と1076年の『スヴャトスラ...
8 KB (719 words) - 13:13, 20 May 2024
シチ川の戦い (category ウラジーミル・スーズダリ大公国)
公国への侵入を受けて、大公ユーリーはシチ川近くの森(現ヤロスラヴリ州の北西)へ出発し、ここへ新たな軍勢を集めるよう命じた。首都のウラジーミルにはユーリーの家族とピョートル・オスレデュコヴィチの指揮する守備隊を残した。『ラヴレンチー年代記』によれば、ユーリーは兄弟のヤロスラ...
6 KB (592 words) - 08:13, 25 December 2018
公国から、ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの3人の子(ガーリチ・ロスチスラヴィチ家(ru))によって、テレボヴリ公国、ズヴェニゴロド公国、ペレムィシュリ公国が独立、さらに1124年、テレボヴリ公の子、イヴァン・ヴァシリコヴィチがガーリチを分割相続し、ガーリチ公国...
12 KB (976 words) - 21:24, 24 May 2021
キプチャク (section ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北)
1154年、キエフ大公イジャスラフ2世が亡くなり、弟のロスチスラフが新たなキエフ大公(ロスチスラフ1世)となると、ユーリーの子グレープが多数のポロヴェツ人を率いてペレヤスラヴリに侵攻した。ロスチスラフ1世は子のスヴャトスラフを派遣し、ペレヤスラヴリ公のムスチスラフと合流させた。両軍は激しく戦ったが、ポロヴェツ人がスヴャトスラ...
76 KB (10,219 words) - 08:27, 6 October 2024
ロストフ公国はコンスタンチンの3人の息子に分割相続された。すなわち、ヴァシリコのロストフ公国(ロストフとベロオゼロを含む)と、フセヴォロド(ru)のヤロスラヴリ公国、ウラジーミルのウグリチ公国である。 モンゴルのルーシ侵攻が始まると、1238年に、ロス...
13 KB (1,547 words) - 02:44, 17 December 2023
ポータル クラシック音楽 『イーゴリ公』(イーゴリこう、原題:Князь Игорь)は、アレクサンドル・ボロディンによって書かれたオペラである。中世ロシアの叙事詩『イーゴリ遠征物語』を題材に、1185年、キエフ大公国の公(クニャージ)イーゴリ・スヴャトスラヴ...
9 KB (1,114 words) - 06:05, 17 June 2021
リ公国、そして東のテレヴォビリを公座とするテレヴォビリ公国であった。それにくわえて、ドニステル川の中流地域も自治権を保っている領地が存在し、それはハールィチ公国に臣従していた。ハールィチの諸分公国は13世紀半ばまで存在したが、それ以降はダヌィーロ大公が統一したハールィチ公国の中で融合された。...
24 KB (2,758 words) - 11:53, 26 February 2024
ウラジーミル2世モノマフ (category ペレヤスラヴリ公)
ヤロスラフ1世の孫。息子にムスチスラフ1世、ユーリー・ドルゴルーキーらがいる。 相次ぐ内乱や外寇で衰えていた大公国を中興し、後世もっとも人気のあるキエフ大公となった。ウラジーミルはポーロヴェツ族(キプチャクないしはクマン)との戦いで戦果を上げ、キエフ大公国...
8 KB (871 words) - 04:51, 4 March 2023
ミハイル2世 (キエフ大公) (category ペレヤスラヴリ公)
2世の長女マリア(アナスタシア)の間に生まれる。父フセヴォロド4世がペレヤスラヴリからペレヤスラヴリ公ヤロスラフを追放した後、しばらくペレヤスラヴリ公の座にあった。1223年のカルカ河畔の戦いに参加し、チェルニゴフ公ムスチスラフの戦死後にチェルニゴフ公となった。1224年にノヴゴロド公を兼ねるように...
13 KB (1,375 words) - 12:26, 2 July 2023
プレドスラヴァ - 1181年?、ヴォルィーニ公ロマンと結婚。後に離婚し修道女。 ヤロスラヴァ - 1187年、ヴォルィーニ公スヴャトスラフ(ru)と結婚。 フセスラヴァ - 1199年、リャザン公国のヤロスラフ(ru)と結婚。 ロスチスラフ ウラジーミル ^ 「スモレンスク・ロスチスラ...
20 KB (1,991 words) - 08:13, 30 November 2024
奪う。1125年、父の死に伴いキエフ大公位を相続する。1130年にチュヂ族討伐のために遠征。1132年に死去し、大公位は弟のヤロポルク2世に渡った。ムスチスラフの治世は大公国が統一と力強さを示した最後の時代となった。 1095年にスウェーデン王インゲ1世の娘クリスティーナと結婚し、10人の子女をもうけた。...
5 KB (359 words) - 03:49, 4 January 2023
1154年)。父はムスチスラフ1世、母はスウェーデン王女クリスティーナ。 1097年にノヴゴロドに生まれる。1129年にポロツクとミンスク公国を得る。1132年にペレヤスラヴリ・ルースキーの公になる。 1146年に、フセヴォロド2世の跡を継いでキエフ大公になったその弟イーゴリ2世を攻め立て、彼を打ち破って...
6 KB (581 words) - 03:48, 4 January 2023
リ公ヤロスラフ3世の後見を受けた。1271年にヤロスラフが死去するとモスクワ公として自立した。 1300年にリャザン公国からオカ川沿いの重要拠点都市コロムナを奪い、次いで1302年にペレヤスラヴリ・ザレスキーを後嗣のなかったペレヤスラヴリ公...
5 KB (419 words) - 09:19, 1 January 2024
ウラジーミル4世 (category リューリク・ロスチスラヴィチ)
1239年、モンゴル帝国軍によるペレヤスラヴリ攻略の際に死亡した。 ロスチスラフ - オーヴルチ公 マリナ - 1230年、ノヴゴロド公フセヴォロド(ru)と結婚 娘 - ベルズ公アレクサンドルと結婚 アンドレイ - ヴャジマ公 ^ ペレヤスラヴリ公への在位に関する記事は『ラヴレンチー年代記』による。 ^...
6 KB (451 words) - 06:12, 17 June 2021
ヤロスラフとヴォルィーニ公ムスチスラフはキエフ大公位にロスチスラフを就けた(ロスチスラフの死(1167年)の後はヴォルィーニ公ムスチスラフがキエフ大公に就く。)。ヤロスラフと対立していたイジャスラフは1161年に、イヴァンは1162年に死亡した。以降、ヤロスラフは自身の死までガーリチ公国...
11 KB (1,345 words) - 11:28, 5 June 2021