モンゴルのニザール派討滅(モンゴルのニザールはとうめつ)は、1253年にフレグ率いるモンゴルの遠征軍によってニザール派(暗殺教団)が討滅された出来事である。モンケ・カアンの命により始まった弟フレグを総司令とする西アジア遠征において、ニザール派の拠点たるアラムートとアッバース朝の拠点たるバグダードの...
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ニザール派(ニザールは、ペルシア語: نزاریان, Nezāriyān、アラビア語: نزارية, Nizārīya)は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派...
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の誓い」に加わっていたと伝えている。 翌1204年には、オングト王家が正式にチンギスに帰順し、モンゴル高原の勢力図が一変。この年のうちにタヤン・カンを討ってナイマン王国を滅ぼし、メルキト部族連合の盟主トクトアもまた敗れて逃走。ウワス・メルキト氏族の首長ダイル・ウスンは降服・帰順した。 オイラトの帰順...
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モンゴルのニザール派討滅)アラムートが陥落し、次いでアッバース朝の攻略に取り掛かったフレグはハマダン経由でバグダードへ西進、諸将に命じて道中のザグロス山脈周辺の諸勢力の攻略も併せて行った。 フレグはチグリス川の付近で軍を東西に分割した。アッバース朝軍は西岸から攻撃するモンゴル...
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派の一派、イスマーイール派(正確にはニザール派)の勢力が未だモンゴル軍に反抗を続けていた。「暗殺教団」とも呼ばれるニザール派はアラムートの城塞を中心とする難攻不落の山城群をアルボルズ山脈やイラン南東部のクヒスターンなどの...
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11世紀 (category 日本語版記事がリダイレクトの仮リンクを含む記事)
1092年)・王朝の全盛期を現出 クルチ・アルスラーン1世(? - 1107年) - ルーム・セルジューク朝の第2代スルタン(在位1092年 - 1107年)・第1回十字軍の急襲に苦慮する ハサン・サッバーフ(? - 1124年) - イスマーイール派・ニザール派開祖でいわゆる暗殺教団の最初の指導者 ダンガ(?...
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の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」と称された。『元史』にみえる「阿母河等処行尚書省」がこれにあたる。 1253年1月、モンケはオノン川河源で開催したクリルタイの決議により、西方のニザール派やアッバース朝などを討滅すべくフレグ率いる本格的な遠征軍をアム川以西の...
93 KB (14,389 words) - 15:18, 12 January 2025
郭侃 (category モンゴル帝国の将軍)
ニザール派最大の要衝であるギルドクーフ(乞都卜)は天険の要塞にして守兵も士気が高くモンゴル軍は攻めあぐねたが、郭侃は砲によってこれを攻め、ニザール派の平定に功績を挙げた。 1257年(丁巳)正月にはロル地方に至り、伏兵を用いることで敵兵を尽く殺し、現地の...
15 KB (2,878 words) - 02:41, 31 January 2025