• 松方デフレ(まつかたデフレ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が1881年(明治14年)より行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも言う。 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣(信用の低かった太政官札等)が濫発...
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  • フレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。 なお、現在の日本に於ける会計年度「4月 - 3月制」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである。...
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  • の戦費を捻出するため不換紙幣を濫発し、インフレーションが発生した。明治14年(1881年)の明治十四年の政変により「積極財政」を敷く大隈重信が政府から追放されると、松方正義により紙幣整理が推し進められた(松方デフレ)。政府も「緊縮財政」を実施するが松方デフレの影響で税収は減少しており、煙草税や酒造税...
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  • 本項では、日本のデフレーション(にほんのデフレーション)について記述する。 1880年代前半の日本では、大蔵卿(1885年(明治18年)の内閣制度発足に伴い、大蔵大臣)の松方正義が緊縮財政政策を行い、それまで濫発されていた不換紙幣を償却し、日本銀行を設立して銀本位制が実現された。この緊縮財政の結果、日本はデフレ不況となった(松方デフレ)。...
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  • 生及び同予備門生徒のうち、寄宿舎生の大部分によって行われた賄征伐、暴動事件である。 事件の起きた1883年頃は自由民権運動に対する政府の圧迫や、松方デフレの影響で政治、経済において複雑な様相を呈していた。(旧)東京大学で寄宿舎生活を送る学生及び同予備門生徒は、政治活動への参加禁止や寄宿舎の統裁強化...
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  • 帰国した板垣は、党の先行きに不安を感じ、解党するか党再建のために10万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。だが、有力な資金提供者であった豪農層が松方デフレにより相次ぎ脱落したため資金集めに失敗し、1884年3月13日、東京の自由党大会で、総理に専断決行の特権を与えて権限を強化し、文武館(のち有一館...
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  • 国会期成同盟の結成、集会条例。君が代に曲がつけられる。 1881年(明治14年) 開拓使官有物払下げ事件→明治十四年の政変。国会開設の詔勅出される。→大隈重信失脚後、大蔵卿松方正義による松方デフレ)。ハワイ王国のカラカウア王来日。 1882年(明治15年) 軍人勅諭。壬午事変。福島事件。 1883年(明治16年) 陸軍大学校開設。鹿鳴館開館。...
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  • 前期(明治〜大正前期) 明治政府は富国強兵・殖産興業のための財政基盤確立のため、地主・農民からの地租収入に大きく依存したが、その一方で、明治前期の松方デフレ財政による農民層分解の進行、また中期以降の産業革命の展開の結果、日本の農村社会は疲弊しその秩序は危機に瀕することになった。こうした情況に際し、一...
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  • して出された石丸安世・石橋重朝の「不当廉価」を理由とした払い下げ中止の提議が、自由民権運動と結んだ大隈の謀略として受け止められ、岩倉らの要求によって御前会議が招集され、大隈の参議免官と佐野大蔵卿の更迭、後任に松方内務卿の転任が決定された。これによって大隈財政は終わりを告げることになった。 松方デフレ...
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  • 江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来...
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  • 背景として、一時的に田の地租の半分を米で納める代石納を一時的に認めた(1877年11月-1889年9月)。ところが、導入直後及び松方財政によるデフレ(いわゆる「松方デフレ」)による米価下落時以外に代石納希望者がほとんど現れず、間もなく代石納は廃止されて全ての租税は金納で行われることになった。ただし...
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  • 右衛門・大木喬命らとともに発起人に加わっている。農産社は甲府に本社を置き、市川大門村に洋式紡績工場である市川紡績所を設立する。市川紡績所の経営は松方デフレによる農村不況の影響を受け、破綻し、1887年(明治20年)には渡辺がこれを引き継ぎ渡辺紡績所となる。 1891年(明治24年)には小田切謙明・...
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  • 1878年には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の退蔵と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ後の1885年には、初の日本銀行券(大黒図案の100円、10円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年に正式に金本位制を採用するまで...
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  • 換紙幣への切替時の準備金とすることとした。だが、緊縮財政によるデフレーションは租税収入の減少を招くという悪循環に悩まされる(松方デフレ)。また、甲申政変の発生やコレラの発生などの臨時出費もあり、緊縮予算の維持も困難を極めた。それでも松方は、新税の設置などで歳入を確保することで当初の計画を出来るだけ...
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  • の低賃金労働者化の促進など、国家及び一部階層の資本蓄積と低廉な労働者・小作農形成によって日本の資本主義発展の基礎を築いた。この傾向は松方財政によるいわゆる「松方デフレ」によって一層進むことになった。 だが、一方で農民側による地租軽減を求める動きも続いていた。地租改正反対のための合法的闘争に報徳思想...
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  • 群馬事件(ぐんまじけん)は、1884年(明治17年)5月に群馬県北甘楽郡で起こった自由党急進派と農民による自由民権運動の激化事件である。 明治15年からの松方デフレにより全国的に農民は困窮し、負債で苦しんでいた。群馬県北甘楽郡でも30余の村の村民が県へ陳情するほどであった。党本部の政府寄り姿勢に憤っていた群...
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  • 時を限った発行許可申請制度としたことにより、深山自由新聞は一方的に廃刊となった。愛国正理社の当初の顧問には石塚重平が名を連ねており、事件当時には松方デフレによる大不況で窮乏する養蚕地帯の自作農らが多く集まっていた。 恒心社と愛国正理社は1884年5月に連携を取るに至った。...
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  • (明治14年)に家督を継ぎ、坂口家興隆の礎を築いた明治時代初期の当主・坂口平兵衛を初代としている。 初代・平兵衛は、1885年(明治18年)頃に松方デフレで地価が暴落すると、積極的に土地を買い入れ巨利を得、その富を多くの事業に投資して財閥を築き上げたという。まず、1888年(明治21年)に米子紡績...
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  • よって政府紙幣の回収を始めた。この結果、物価動向も落ち着いた。しかし新たに登場した松方内閣(松方首相が大蔵大臣兼任)はさらに多くの政府紙幣の回収を行った。この結果、大幅に需要が減り、デフレーションになった(松方デフレ)。 第一次世界大戦中には、戦争により銀価格が急騰したため、銀貨の発行継続が困難に...
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  • 大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。 こうした背景のもとに1881年(明治14年)には秋田事件、...
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  • 南戦争の戦費支出増大などに伴い不換紙幣の増発が続いたため、インフレが急速に進行。金銀の流出、および退蔵化がさらに進んだため、松方デフレ政策の登場となった。明治十四年の政変により大隈が失脚した後、大蔵卿(明治17年より大蔵大臣)となった松方正義が主導した超緊縮財政、および明治15年(1882年)の日本...
    25 KB (4,203 words) - 15:58, 9 August 2024
  • 取れ」とある通り、「知知夫」が「秩父」に改まる。 1884年(明治17年) 秩父事件の発生地域となる。 日本史上最大規模の民衆蜂起とされる事件。松方デフレ以来の経済危機に苦しみ悩む秩父地方の農民たちは、自由民権運動の影響を受けて困民党と呼ばれる組織を結成し、田代栄助らの指揮下で10月31日に武装蜂...
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  • が扶桑教として独立したのを機に丸山教会は扶桑教から離脱、神道本局へ所属し、名称も「神道丸山教会本院」と改称した。 丸山教は明治10年代に「松方財政」(松方デフレ)の影響で困窮した農民からの支持を集め、静岡県・愛知県・長野県・神奈川県などを中心に隆盛した。1880年(明治13年)には多摩川の河原で信...
    9 KB (1,435 words) - 21:51, 23 July 2024
  • 日本で国会期成同盟結成。 第二次アフガン戦争。 1881年 明治十四年の政変。 開拓使官有物払下げ事件、大隈重信の追放。 国会開設の勅諭、自由党結成。 松方正義の大蔵卿就任(松方デフレ)。 ロンドン自然史博物館が開館する。 ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺される。ユダヤ人に対するロシア各地でのポグロム(英語版)が発生する。...
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  • 1946年(昭和21年)1月28日)は、明治から昭和前期の公吏、新聞記者、作家。東京市幼年少年保護所長を歴任。 筑摩県筑摩郡(現・長野県松本市)に生まれる。松方デフレで家業の米穀商が傾き一家で上京。1898年に和仏法律学校を卒業。翌年から警視庁勤務、1903年に退職し、中央新聞・東京日日新聞・日本新聞・大正通...
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  • 1873年(明治6年)8月23日、東京府(現在の東京都)が「願人呼称廃止」を布告し、呼称は廃止されたが、代わりに稼業が禁止され、むしろ零落した(松方デフレの影響も大きかったとされる)。その後、新聞・雑誌などによる興味本位の『貧民窟』キャンペーンがあるなど、江戸時代より蔑視があからさまになり、橋本町...
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  • 継ぎ、材木商から蚕種製造業に転換した。商用で横浜へ赴き、銀行業務の実際を学び帰郷。明治14年(1881年)稲荷山銀行を設立し、専務取締役となり、松方デフレの難局を乗り切った。また同20年(1887年)には小坂善之助とともに、長野県の為替業務を扱う「真彰社」を再建し、信濃銀行と改称し支配人に就任した...
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  • 八郎と同様に自由民権運動の影響を受けて上京し、中江兆民の仏学塾に入ったものの、病気のため帰郷する。 1881年(明治14年)の松方デフレによる不況の開始時期において米価急落するも地租の額は変わらないため、祖税納入に苦しむ農民をまのあたりにした民蔵は、土地問題に関心を抱き、1888...
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  • 1378年)、頼鎮によって開山された。その後、慶安年間(1648年 - 1652年)に覚玄阿闍梨によって中興された。 境内には、「困民党首領塩野倉之助之碑」がある。これは松方デフレで多くの農民が困窮したため、借金の返済条件の緩和を求めるべく立ち上がった「武相困民党」の代表塩野倉之助を顕彰するために、1954年(昭和29年)...
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  • 融政策についても自ら機能麻痺に陥っていると批判し、リフレーション政策の必要性を示唆した。 ノーベル経済学賞受賞のポール・クルーグマンはデフレ脱却政策に関して「中央銀行の独立性への介入に関しては、もはやあれこれ躊躇すべきではない。日本のGDPデフレーターは、ここ13年間、下がりっ放しである。それなの...
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  • 人として名を連ねた。丸家銀行は書店業から顧客の信頼を得、産業振興をめざす山形県の有力者などから資本や預金を獲得したが、明治17年(1884年)に松方デフレの影響と近藤孝行頭取の乱脈経営によって経営が破綻し、早矢仕は再建を目指して丸善社長を辞して銀行頭取に就任するが、結局、再建できず責任を取り退陣し...
    10 KB (1,668 words) - 11:25, 19 February 2024