朝にもその地位を認められた。1261年にはマムルーク朝のスルターン、バイバルスがアッバース朝の一族をエジプトに迎えてカリフに擁立し、ハフス朝の君主をカリフと認めるのをやめると、ハフス朝とマムルーク朝は一時的に反目状態になっている。一方で、ハフス朝...
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う名目で、1229年にアミールの称号を名乗って独立した。これがハフス朝である。ハフス朝はチュニスを首都に定め、数々のモスクやマドラサ(学校)を建設する。また外国からも、巡礼者や商人が集まり、大都市として繁栄した。 16世紀に入るとハフス朝は衰退し、さらに東方から侵攻してきたオスマン帝国の脅威に晒され...
18 KB (1,742 words) - 17:27, 22 February 2023
朝に雇われていたキリスト教徒やトルコ人の傭兵たちがマリーン朝側についた。翌1248年にアブー・バクルはターザ、サレを初めとする大西洋沿岸部の都市を制圧し、国力をより高めた。同年、アブー・バクルはイフリーキーヤの新興国ハフス朝の権威を承認する。...
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チュニジアの歴史 (section ハフス朝時代(1229年-1574年))
朝は1140年にシチリア王国の属国となり、1148年に滅ぼされた。ズィール朝の滅亡後、イフリーキヤはモロッコから勢力を伸ばしたムワッヒド朝の征服下に置かれた。 1229年にムワッヒド朝の統治からチュニス総督だったハフス家のヤフヤーが独立し、ハフス朝が成立した。ハフス朝...
37 KB (5,515 words) - 15:38, 25 August 2024
朝は新興のマリーン朝とハフス朝との抗争に忙殺され、事実上アンダルスから撤退せざるを得なかった。アルジェリアでもヤグムラーサン・イブン・ザイヤーンが離反してザイヤーン朝を興しマグリブは分裂、もはやカリフは有力官僚と軍人の傀儡と化し、タイファが乱立するアンダルスはキリスト教諸国に征服され、ナスル朝...
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イブン・ハルドゥーン (category マリーン朝)
アービリーの元での学習を終えたハルドゥーンはハフス朝を振り出しに、マリーン朝、ナスル朝、ベジャーヤのハフス朝地方政権といった、地中海世界のイスラム政権の宮廷を渡り歩くことになる。 勉学の続行、ハフス朝の将来への不安、両親の死の直後という境遇のために西方への旅立ちを思い立つ...
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909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派のファーティマ朝(909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝(983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝(1130年 -...
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マーディア十字軍 (category ハフス朝)
マーディア十字軍またはバルバリア十字軍は、1390年にチュニジアに上陸した、フランス王国軍とジェノヴァ共和国軍による十字軍。ハフス朝の都市マーディアを包囲したが、成功しないまま撤退した。フロワサールの年代記などでは、これが最後の十字軍であるなどと言った評価を与えている。...
8 KB (1,005 words) - 04:06, 26 June 2019
のほか、アグラブ朝を滅ぼしたファーティマ朝が建設したマフディーヤがあった。 のちにハフス朝がチュニスを都にすると、イフリーキーヤの王朝支配領域に対して「チュニスの国」という名称も用いられるようになった。のちにハフス朝をオスマン帝国が征服するとチュニス州になり、その名が西欧の言語に取り入れられてチュニジアという国名が定着する。...
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が真っ先に行ったのはマンスーラの破壊だった。 14世紀初頭、マリーン朝が内争で停滞している間にザイヤーン朝は政治的独立と経済力を回復し、弱体化したハフス朝の国政に干渉した。しかし、ハフス朝への干渉は、マリーン朝のスルターンでハフス朝スルターンアブー・バクル1世アル・シャーヒドの女婿にあたるアブル・ハ...
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アブー・ザカリーヤー1世 (category ハフス朝の君主)
ハフス朝の建国者(在位:1228年 - 1249年)。 12世紀のイスラム宗教運動家イブン・トゥーマルトの門弟であるハフス・イブン・ウマルの孫にあたる。 祖父のハフス・イブン・ウマル、アブー・ザカリーヤー1世の父であるアブドゥル・ワーヒドはムワッヒド朝...
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アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル (category ハフス朝の君主)
1277年)は、チュニスを中心とする地域を支配したハフス朝の第2代君主(在位:1249年 - 1277年)。 初代君主アブー・ザカリーヤー1世の子。1249年に父が死去したため、跡を継いだ。1253年にアミール・アル=ムウミニーンの称号を名乗り、1258年にアッバース朝...
4 KB (395 words) - 03:39, 24 April 2022
ファーティマ朝 ズィール朝 ハンマード朝 ムラービト朝 ムワッヒド朝 アイユーブ朝 マリーン朝 ハフス朝 ナスル朝 ザイヤーン朝 マムルーク朝 ワッタース朝 サアド朝 アラウィー朝 カラマンリー朝 フサイン朝 ムハンマド・アリー朝 エジプト王国 リビア王国 チュニジア王国 マリ帝国 スンニ朝 モガディシュのスルタン国(10 –...
10 KB (1,095 words) - 15:26, 4 September 2023
インカ帝国成立 北アフリカ - マムルーク朝、ハフス朝 中南アフリカ -マリ帝国、カネム・ボルヌ帝国、マプングブエ ヨーロッパ - 教皇権の動揺(アヴィニョン捕囚、教会大分裂)、黒死病、百年戦争、ハンザ同盟 西アジア - オスマン帝国黎明、ティムール朝による征服、イル・ハン朝滅亡 中央アジア -...
61 KB (6,362 words) - 04:50, 17 March 2024
朝スルタンとなったバイバルスは、シリアにおけるキリスト教都市の大部分を征服することに成功していた。 ルイ9世の弟で、ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしシチリア王となっていた野心家のシャルル・ダンジューは、自己の勢力拡大のため、かつてシチリア王国に貢納していたがその後自立したハフス朝...
3 KB (368 words) - 07:06, 7 May 2022
アブー・アルハサン・アリー (category マリーン朝の君主)
ハフス朝のスルターン・アブー・バクルの娘と結婚した。この婚姻は父が生前取り決めていたものであり、マリーン朝とハフス朝の関係を深める意図があった。本来はアブー・バクルの娘ファーティマと結婚する予定だったが、結婚前にファーティマが急逝したため彼女の妹を娶った。 1333年6月、グラナダのナスル朝...
15 KB (2,163 words) - 11:35, 18 May 2023
ヤッファならびにテル・アジュル協定(英語版)の締結。 これによりアイユーヴ朝のアル・カーミルから皇帝フリードリヒ2世にエルサレムが返還される。 イフリーキーヤ総督アブー・ザカリーヤー1世がムワッヒド朝から独立しハフス朝が成立。 イエメンのマンスール・ウマル1世がアイユーブ朝から独立しラスール朝が成立。...
120 KB (14,346 words) - 02:37, 14 September 2024
アブー・イナーン・ファーリス (category マリーン朝の君主)
号を名乗り、マグリブの再統一に着手した。1352年にザイヤーン朝の首都トレムセンを再征服し、ザイヤーン朝のスルターンを殺害する。翌1353年にハフス朝が支配するビジャーヤを占領、1357年にハフス朝の首都チュニスに入城したときにマリーン朝は絶頂期を迎える。 しかし、アラブ遊牧民の反乱に遭い、アブー・...
6 KB (618 words) - 03:00, 15 December 2022
7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。イスラム教の浸透とともに住民のアラブ化が進んだ。その後アッバース朝、カイラワーンのアグラブ朝、ファーティマ朝、チュニスのハフス朝の支配を受けた。 しかしこのころからヨーロッパのキリスト教勢力とイスラム勢力との地中海を巡る覇権抗争が激化する。レコンキスタを完了し、イベ...
17 KB (2,280 words) - 02:28, 17 July 2022
。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、そのもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、...
95 KB (11,990 words) - 06:50, 21 October 2024
الوطني بباردو)は、チュニジアのチュニスにある国立博物館である。バルドー国立博物館とも呼ばれる。 博物館の建物は、最初は13世紀のハフス朝の宮殿として建てられ、19世紀にはベグの宮殿として使われた物で、チュニス郊外にある。 博物館では、古代ローマのモザイクや古代ギリシア, チュニジア...
3 KB (241 words) - 11:55, 25 February 2023
イドリース・マアムーン (category ムワッヒド朝の君主)
ハフス朝を興して独立、モロッコでも相次ぐ部族反乱が起こった。混乱の最中、1232年にムウタスィムに奪われたマラケシュを取り返すための進軍中に急死した。 マアムーンの死後、息子のアブドゥル・ワーヒド2世が後を継いでムウタスィムを討ち取ったが、マグリブでハフス朝、マリーン朝、ザイヤーン朝...
6 KB (758 words) - 13:13, 3 May 2022
1535年のチュニス征服は、オスマン帝国支配下のチュニスをカール5世率いるハプスブルク帝国が占領した戦闘。オスマン帝国によって滅んでいたハフス朝が、スペインの保護国として一時的に復活した。 1533年、オスマン帝国のスルタンスレイマン1世は、バルバリア海岸・アルジェの海賊バルバロス・ハイレッディンに...
14 KB (1,477 words) - 08:31, 15 October 2024
Granada)、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。 13世紀初め、それまでアンダルスを支配していたムワッヒド朝が、新たに勃興したハフス朝、マリーン朝...
45 KB (5,600 words) - 14:43, 6 March 2024
アブド・アッラフマーン3世 (category 後ウマイヤ朝の君主)
れに対峙する必要があった。918年にボバストロを拠点とした、反王朝最大勢力の指導者であったイブン・ハフスが死に、アブド・アッラフマーンはその息子たちとも戦い続け928年にこれを平定した。 イブン・ハフスの息子たちを倒し南部を平定した後の929年1月、カリフを宣言しアン・ナースィル・リッディーニッラー...
9 KB (1,067 words) - 01:13, 19 September 2024
アルジェリアの歴史 (section ザイヤーン朝時代(1236年-1550年))
朝から独立し、トレムセンにザイヤーン朝を開いた。ザイヤーン朝は当時アルジェにまで至る地域を支配していたチュニスのハフス朝と、フェスのマリーン朝に挟まれた勢力であり、度々東西から両勢力の侵入を受けた。1492年にイベリア半島で統一スペインがナスル朝...
43 KB (6,232 words) - 23:33, 13 April 2024
域の東部はイフリーキヤ、西部はモロッコと呼ばれていた。中部にあたるアルジェリアはトレムセンやティアレットを中心として栄えていたが、度々ムワッヒド朝やハフス朝といった強力なベルベル人国家の支配を受けた。当時「バルバリア」地域で最も大きく栄えていた都市はモロッコのマラケシュだったが、ヨーロッパからはリビ...
5 KB (547 words) - 04:51, 27 January 2022
世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。 スレイマン1世(1520年...
128 KB (16,693 words) - 05:52, 3 November 2024
ブが西方を指すのに対しマシュリクは東方を指す)のためと思われるが、こちらは現在ほとんど散逸してしまっている。その後1254/5年にチュニスに到着、ハフス朝の君主・ムスタンスィルに仕えた。1267年、再び東方へ出発し、イランまで巡遊している。1276年ころチュニスに戻り、1286年同地に没した。 [脚注の使い方]...
2 KB (236 words) - 05:25, 23 September 2024
はただの木の切れ端でしかなく、誰の名前でも入れられる」と言ったことを伝えている。 以来ヤグムラーサンはハフス朝の支配権を認めたが、他方でサハラ交易の支配権を巡ってモロッコの新興勢力であるマリーン朝と争い、交易の要地であるシジルマサを攻撃した。1257年のシジルマサ攻撃は失敗するが、1264年に攻略...
5 KB (518 words) - 09:05, 24 August 2023
ムワッヒド朝領内では北アフリカ(マグリブ)で反乱が発生、本拠地モロッコでは1216年からザナータ系ベルベル人のマリーン族(後にマリーン朝を興す)が反乱を起こし、リーフ地方を征服し平野部フェズにも進出し付近の部族たちを服属させた。チュニジア(イフリーキヤ)でも総督アブドゥル・ワーヒド(ハフス朝...
5 KB (609 words) - 03:52, 24 April 2022