• サキャ派(チベット語: ས་སྐྱ་པ་、sa skya pa)は、チベット仏教4大宗派の一つ。時として赤帽をかぶることから、ニンマ・カギュとともに西欧人に赤帽と呼ばれている宗派の一つでもあり、古くは「花」と表記されたこともある。 後期密教の代表的な経典の一つである「喜金剛タントラ」(ヘーヴ...
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  • マルパ(中国語版、英語版)、ミラレパを宗祖とする。カルマ、ツェルパ・カギュ、ディクン・カギュ、ドゥク、パクモドゥなどの多数の支派に分かれている。詳細は「カギュ」の項を参照のこと。 サキャ派 - 元朝の時代にはチベットに政権を確立し、サキャ・パンディタやフビライ・ハーンの帝師パクパが出た。 ゲルク -...
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  • サキャ・パンディタ・クンガ・ギェンツェン(チベット文字:ས་སྐྱ་པཎྜི་ཏ་ཀུན་དགའ་རྒྱལ་མཚན་།、Sa skya paṇḍita kun dga' rgyal mtshan; 漢字表記: 薩斯迦班弥怛功嘉監蔵、1182年 - 1251年)は、チベット仏教サキャ派(赤帽...
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  • と尼僧が虐殺された。この惨事をもってインド仏教の終焉とする見方が多い。この際にヴィクラマシラー寺の座主のシャキャーシュリーバトラは、ネパール経由でチベット地方に逃れてサキャ派第4世の名僧サキャ・パンディタに授戒した。 中世におけるイスラム教徒の破壊・殺戮によるインド仏教の衰退は、末法の時代として解釈...
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  • 吐蕃王朝から追放されたガル一族が7世紀にこの地を根拠とした。1448年には第1代デルゲ王ボタル・タシ・センゲと行者タントン・ギャルポがサキャ派の寺デルゲ・ゴンチェンを創建する。18世紀、ダライ・ラマ7世が一時亡命していたことがある。 また、18世紀のデルゲ王テンパ・ツェリンはチベット大蔵経のデルゲ版を完成させている。...
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  • サキャ派がモンゴル帝国の後ろ盾を得て、他の氏族教団や諸侯の上に君臨した。 1240年、モンゴル帝国の第2代ハーンオゴデイの息子コデンはチベットを攻略し、カダム(英語版)の寺院を焼き、僧侶を殺した。一方、6代目座主のサキャ・パンディタの名声は遠くモンゴルにまで聞こえており、コデンはサキャ...
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  • 『ヘーヴァジュラ・タントラ』(Hevajra Tantra)とは、仏教の後期密教経典、いわゆる無上瑜伽タントラの1つ。母タントラの代表的経典。チベット仏教においては、サキャ派が所依とする。 「ヘーヴァジュラ」とは、この教典に登場する尊格の名であり、一般的には「ヘー」は呼びかけの言葉、「ヴァジュラ」は「金剛」を意味すると...
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  • サキャ寺に籠ることが多くなる。1280年にパクパは生誕地のサキャで没する。 彼の死後、クンガ・サンポがパクパを毒殺したと告発され、元軍によって処刑された。クンガ・サンポが処刑された後、1281年にパクパの甥のダルマパーラが帝師とサキャ派の長の地位に就いた。この後元朝の帝師の地位は、サキャ派と周辺の人間によって独占されることになる。...
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  • サキャ派とカギュが新訳の『幻化網タントラ』を主要な五タントラの一つに数え、所依の経典としている。他方、ゲルクでは『幻化網タントラ』の代わりに『ヴァジュラバイラヴァ』(金剛怖畏)のタントラのテキストを主要な五タントラに入れる。 なお、チベット密教において新訳を伝承するサキャ派とカギュ...
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  • チャンチュプ・ギェルツェンは隣接するヤムサン万戸と争いを始めた。サキャパ政権はチャンチュプ・ギェルツェンを2度投獄するが、チャンチュプ・ギェルツェンの権威は揺るがなかった。1347年にサキャ派が分裂して力を弱めると、チャンチュプ・ギェルツェンはツェル、ディグンなどラサ東部を次々に攻略した。1354年にはサキャ...
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  • 1月18日(文暦元年12月28日) - 霧島山御鉢の大噴火 オゴデイがカラコルムを建設。 コンスタンティノープル包囲戦 (1235年) 3月6日 - パクパ、チベットのサキャ派の座主(+ 1280年) 11月19日 - ハインリヒ13世、下バイエルン公(+ 1290年) アンドラーシュ3世、ハンガリー王国アールパード朝最後の国王(+...
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  • 寺)、パラ荘園などの名勝古跡がある。中でもパンコル・チューデは1418年に建立され、大規模で、寺内には多くの僧学院があり、チベット仏教のサキャ派とシャルとゲルクの大きく分けて3つが入っていて珍しいとされている。 チベット中南部のヒマラヤ山脈とカンディセ山脈との間の山谷内に位置し、ヤルンツァンポ川...
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  • 円爾、鎌倉時代の臨済宗の僧(* 1202年) 11月15日 - アルベルトゥス・マグヌス、ドイツのキリスト教神学者(* 1193年?) 11月22日 - パクパ、チベットのサキャ派の座主(* 1235年) 夏貴、南宋の将軍(* 1198年) 熊谷直時、鎌倉幕府の御家人(* 1217年) バラカ、バフリー・マムルーク朝の第6代スルターン(*...
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  • (section 仏教)
    を保持すべきである。チベット仏教も、主要四のニンマ、カギュサキャ派、ゲルクは全て具足戒を授かるが、ニンマとカギュは妻帯を認め、サキャ派は教団の法主が歴代世襲制であり、 ^ 天台宗およびそこから派生した諸宗は基本的に具足戒を伝授されない。カギュも具足戒よりタントラの実践ヨーガを重視し、...
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  • チベット ゲルク / チベットの一宗派。首座はガンデン・ティパと呼ばれる。ダライ・ラマ、パンチェン・ラマなどの名跡もゲルクに属する。ダライ・ラマ3世の時にモンゴルの支援を取り付けて力を付ける。1642年、ダライ・ラマ5世の時にチベットの政権を掌握。 サキャ派政権 / サキャ派...
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  • 無上瑜伽タントラはこのように、最後の究極的な経典群として位置付けられる。 この四分説は、チベット仏教の四大宗派の内、新訳であるゲルクサキャ派、カギュにおいて受容されている。一方、旧訳であるニンマでは、九乗教判の教義による独自の分類法が行われる。 無上瑜伽タントラは以下のように「父(ふ)タントラ」「母...
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  • こでリンダン・フトゥクト・ハーンはマイトレーヤ法王、チョネ・チョエジェらから深い秘密乗の灌頂などを受け、仏法を助けた。 1617年、チベット仏教のサキャ派の高僧であるダクチェン・シャルパ・フトゥクトから灌頂を受けた。また、「白い都」と呼ばれた都市を築き、チベット仏教の寺院を多く作った。...
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  • コン氏 (category サキャ派)
    サキャ寺はチベット仏教四大宗派の一つサキャ派を形成し、コン氏は代々サキャ派座主を輩出した。特に13世紀から14世紀にかけては、モンゴル帝国の後ろ盾を得たコン氏=サキャ教団が実質的にチベットを支配し、「サキャパ政権時代」と呼ばれる時代を築いたことで知られる。クン氏とも。 チベット語史書『サキャ...
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  • 結縁灌頂の儀式に見られるように、誰もが仏の化身たり得ることになる。 ^ カギュの初代ジャムグン・コントゥル・リンポチェは遷化の後、2世として「身」「語」「意」「徳」「事業」の5人の化身が公式に認定された。また、サキャ派のジャムヤン・ケンツェ・リンポチェの場合も同様である。このように高位のラマの化...
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  • 明より称号を受け、あわせて「三大法王、五大教王」と呼ばれた。以上のような枠組みにおいて、この地区は「朶甘思衛」に属し、この時期、チベット仏教サキャ派の支派ゴルが興隆し、カムに浸透した。 16世紀には、この地区に、麗江に本拠をおくジャン王の勢力がのびたが、17世紀半ば、グシ・ハン王朝がチベット征服に...
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  • を続けなければ、健康に問題がでる訳ではない。 茶自体は10世紀以前からチベットに持ち込まれていた証拠があるが、実際には13世紀のサキャ派時代あるいは14世紀のパクモドゥ時代に至るまで普及はしていなかったと見られる。 [脚注の使い方] ^ a b c d e f...
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  • サキャ寺(サキャじ、中国語: 薩迦寺)は、チベット仏教サキャ派の総本山。 1073年、コン氏のコンチョク・ギェンポが北寺を創建、その後1268年に元の帝師パクパが南寺を創建した。もともと南寺・北寺でひとつの寺院であったが、文化大革命で北寺が徹底破壊され、南寺のみが残っている状態となっていた。現在は北寺も再建されている。...
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  • ウー・ツァンはウーとツァンの二地域を統合して形成された。ウーは中央チベットに位置し、初期の歴代ダライ・ラマを擁するチベット仏教ゲルクによって統治されていた。ツァンはギャンツェ以西に広がり、サキャ派によって統治されていた。ダライ・ラマ5世による軍事的勝利により、17世紀には両地区の政権は統合された。...
    2 KB (269 words) - 14:46, 6 January 2024
  • 家の投下領となったが、帝位継承戦争を経てチベットではクビライ家の投下領であったサキャ派が勢力を拡大し、サキャ派を通じたチベット支配体制が確立した(「サキャパ政権」)。 サキャパ政権時代に実際にチベットを支配したのはサキャ派の在俗領主たるポンチェン(dpon chen)であり、パクモドゥパ万戸をはじめ...
    16 KB (2,355 words) - 03:30, 9 July 2023
  • 白蘭王 (category サキャ派)
    蔵文拼音:པའི་ལེན་དབང།)とは、大元ウルス統治下のチベットにおいてサキャ派コン氏に与えられた称号。大元ウルスで定められた王号の序列の中では第3位(金印駝紐)に位置づけられる。 1240年代、コデンの派遣したモンゴル軍のチベット高原侵攻が本格化すると、サキャ派サキャ・パンディタはモンゴルと誼を通じるために甥のロドゥ・ギェンツェン(bLo...
    6 KB (996 words) - 13:40, 6 December 2022
  • ポンチェン (category サキャ派)
    サキャ派教団がモンゴルの後ろ盾を得て全チベットに支配を広げるのに併せて、広汎な地域に影響を及ぼすようになったサキャ派俗権首長こそがポンチェンであった。 ポンチェンという地位の起源は、サキャ・パンディタがチベット侵攻を担当するモンゴルの王族コデンの下を訪れる際に、自らの代行者としてシャーキャ・サンポ(Chakya...
    10 KB (1,612 words) - 10:15, 1 May 2023
  • チベット語史料の『漢蔵史集』はドカムの領域を「ソクラキャボより以下、黄河河曲以上」とし、その中心地がツォムドサムドゥプ寺であったと記す。チベット語史料中でツォムドサムドゥプ寺は「ドカム第二の大寺」とも称されているが、これは「サキャ寺に次ぐ、サキャ派内の第二の大寺」を意味するのではないかと考えられる。...
    9 KB (1,679 words) - 11:41, 16 March 2023
  • シャキャーシュリーバトラ(1127年 - 1225年) - インドのヴィクラマシーラ寺院最後の学頭・寺院破却後はチベットに亡命し仏教を伝える サキャ・パンディタ(1182年 - 1251年) - チベットのサキャ派の座主・シャーキャシュリーパドラの法を継ぐ・パクパは甥...
    120 KB (14,346 words) - 11:32, 25 February 2024
  • クンガ・サンポの乱 (category サキャ派)
    ル帝国仏教界の頂点に位置付けた。これによってサキャ派を通じたモンゴルによるチベット支配体制(所謂「サキャ政権」)が確立していくことになったが、これに反発する諸勢力も多く残っており、このような反対勢力によって起こされたのが「クンガ・サンポの乱」と「ディクンの乱」であった。...
    10 KB (1,632 words) - 01:19, 7 January 2023
  • pa)の乱とも呼ばれる。ディグン派の乱とも。 「ディクン派の乱」鎮圧を通じてサキャ派は他の諸寺院にも軍団を派遣して服属させ、サキャ派が政治的にチベット仏教諸宗派の頂点に立つ体制が確立された。そのため、「ディクンの乱」は大元ウルスの後ろ盾を得たサキャ派がチベットを支配する、所謂「サキャ政権」が完成する契機となる事件であったと評されている。...
    12 KB (1,908 words) - 10:58, 12 December 2022
  • 、インド仏教は終焉を迎える。ゴール朝の侵入後に多数の仏僧がチベットに亡命し、その中にはチベット仏教の一派であるサキャ派の指導者サキャ・パンディタに具足戒を授けたカチェ・パンチェン・シャーキャシュリーパドラも含まれていた。 この時代には、地方語であるベンガリー語に発達が見られた。...
    11 KB (1,226 words) - 14:31, 13 May 2023