アレッサンドロ・ブラゼッティ
アレッサンドロ・ブラゼッティ(Alessandro Blasetti,1900年7月3日- 1987年2月1日)は、イタリアの映画監督。
ネオリアリズモの監督でファシスト時代を代表する映画人。1920年代後半に苦境の映画業界を復活させたので、たまに「イタリア映画の父」と呼ばれる[1]。
来歴
[編集]ローマで生まれる。大学で法律を学び、ジャーナリスト・映画評論家になることを志、いくつかの映画雑誌で働き、当時生産中止だった国産映画の制作のためのキャンペーンを張った[2]。
1929年に映画『太陽』で監督デビュー。イタリア映画が製作されていなかった時期の作品であり、好評を博した。ベニート・ムッソリーニは「ファシスト映画の夜明け」とした[3]。この時期にすでにネオリアリズムの要素を持っていた。
同作のヒットで、イタリア唯一の大物プロデューサー・ステファノ・ピッタルーガからオファーを受けた。この時期、ピッタルーガはローマのスタジオを音声映画用に改築したばかりだった。
イタリア初のトーキー映画『復活』(1931年)を撮るが、制作が遅れ、ジェンナーロ・リゲッリの『愛の歌』(1930年)に先を越された[4]。1934年に『1860』を、 2000人の素人俳優を野外で使って撮影した[5]。
国からの助成金と支援のためにロビー活動をしており、1930年代のイタリア映画産業復活の原動力だった。ロビー活動の結果、ローマの大規模スタジオ「チネチッタ」の建設を実現した。
ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベリッシマ』に本人役で出演。同作は、アンナ・マニャーニ演じる母親が娘をスターにしようとチネチッタでブラゼッティのスクリーンテストを受けさせる物語である。
1967年のカンヌ映画祭と、1969年第6回モスクワ国際映画祭で審査委員長を務めた[6]。
1987年、ローマで死去。
主な監督作品
[編集]- 太陽(1929)
- Nerone(1930)
- Resurrectio(1930)
- 母なる大地(1931)
- La tavola dei poveri(1932年)
- Palio(1932)
- Il caso Haller(1933)
- 1860(1934年)
- Vecchia guardia(1934)
- Aldebaran(1935)
- Contessa di Parma(1936年)
- Ettore Fieramosca(1938)
- サルヴァトール・ローザの冒険 Un'avventura di Salvator Rosa(1940)劇場未公開。2001年イタリア映画大回顧での上映題。DVD題も同じ。
- La corona di ferro(1941)
- 道化師の晩餐(1942)
- 雲の中の散歩(1943)
- 人生の一日(1946)
- ファビオラ(1949):スコセッシ評「アメリカ映画には無いセットの厚みがあった。国の歴史の長さがまったくちがうからね。アメリカの映画職人には夢にも見られない厚みだった。それに、グリム童話の怖さもあった。」
- Prima comunione(1950)
- 懐かしの日々(1952)
- こんなに悪い女とは(1954)
- Tempi nostri(1954)
- La fortuna di essere donna (1956)
- ヨーロッパの夜(1959)
- Le quattro verità(1962)
- Liolà(1963)
- Io, io, io... e gli altri(1966)
- シモン·ボリバル(1969)
脚注
[編集]伝記
[編集]- Balfour, Michael. Theatre and War, 1933-1945: Performance in Extremis. Berghahn Books, 2001.
- Moliterno, Gino. Historical Dictionary of Italian Cinema. Scarecrow Press, 2008.
- Reich, Jacqueline & Garofalo, Piero. Re-Viewing Fascism: Italian Cinema, 1922 to 1943. Indiana University Press, 2002.