ウィリアム・シューマン
ウィリアム・シューマン | |
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生誕 | 1910年8月4日 アメリカ合衆国、ニューヨーク市ブロンクス |
死没 | 1992年2月15日(81歳没) |
学歴 | コロンビア大学教育大学院、ニューヨーク大学商学部 |
ジャンル | 新古典主義 |
職業 | 作曲家 |
ウィリアム・ハワード・シューマン(William Howard Schuman, 1910年8月4日 – 1992年2月15日)は、アメリカ合衆国の作曲家。音楽機関の長を長く務めた。
略歴
[編集]ニューヨーク市のブロンクス出身。アメリカ大統領のウィリアム・ハワード・タフトにちなんで名づけられた。少年時代からヴァイオリンやバンジョーを弾き始めるが、当初は野球に情熱が注がれた。ハイスクール時代にダンス・バンドを結成し、自らはベース奏者として結婚式などで演奏した。
1928年にニューヨーク大学商学部に入学すると同時に、広告業界で働き始める。この頃は、親しい友人のE.B.マークス・ジュニアらの作詞家とともに、ポピュラー音楽の作曲に手を染めている。
1930年4月4日に実姉オードリーとともにカーネギー・ホールにおいて、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮によるニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴いて深い感銘を受けるとともに、職業作曲家への転身を決意する。大学を中退し、個人教師について作曲を学び始める。指導者の一人にロイ・ハリスがおり、その引き合わせでセルゲイ・クーセヴィツキーの知遇を得る。クーセヴィツキーは後にウィリアム・シューマンの庇護者となった。
1935年から1945年まで、サラ・ローレンス大学で作曲を指導。1943年に、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に基づくカンタータ『自由の歌』(A Free Song )によって、ピューリッツァー音楽賞の最初の受賞者に選ばれる。1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設する。1961年にリンカーン・センターに音楽監督として転出。
作品
[編集]8つの交響曲を筆頭に作曲家としてかなりの量の作品を残している。これは作曲者自身によって、「第3番から第10番までの8曲しかない。最初の2曲は撤収された」と述べられている。ヴァイオリン協奏曲(1947年/改訂1959年)は、シューマンのすべての管弦楽曲の中で、最も力強い作品の一つと称賛された。その他の作品に、ウィリアム・ビリングスの旋律に基づく「ニューイングランド三部作」(1956年)や、「アメリカ祝典序曲」(1939年)、マーサ・グラハムのためのバレエ音楽「ジュディス」(1949年)などのほか、2曲のオペラがある。チャールズ・アイヴズのオルガン曲「アメリカの主題による変奏曲」を1963年に管弦楽用に編曲したものは、原曲以上に有名になった。吹奏楽曲「ジョージ・ワシントン・ブリッジ」(1950年)も人気が高い。
歌劇
[編集]- マイティ・ケイシー(1953年) - 「野球オペラ」として知られる
交響曲
[編集]- 交響曲第3番 (1941年)
- 交響曲第4番(1942年)
- 弦楽のための交響曲 (交響曲第5番)(1943年)
- 交響曲第6番(1948年)
- 交響曲第7番(1960年)
- 交響曲第8番(1962年)
- 交響曲第9番『アルデアティーネの洞窟』(1968年)
- 交響曲第10番『アメリカのミューズ』(1976年)
管弦楽曲・吹奏楽曲
[編集]- アメリカ祝典序曲(American Festival Overture, 1939年)
- バレエ音楽『ジュディス』(Judith, 1949年)
- ニューイングランド三部作(New England Triptych, 1956年) - 各曲を自身が吹奏楽編曲している
- 喜びあれ、アメリカ(Be Glad then America )
- イエス涙を流したもう時(When Jesus Wept )
- チェスター(Chester )
- ジョージ・ワシントン・ブリッジ(George Washington Bridge, 1950年)
協奏曲
[編集]- ピアノ協奏曲(1943年)
- ヴァイオリン協奏曲(1947年/1959年改訂)
- オルフェウスの歌(チェロと管弦楽)(A Song of Orpheus, 1962年)
室内楽曲
[編集]- 弦楽四重奏曲第2番(1937年)
- 弦楽四重奏曲第3番(1939年)
- 弦楽四重奏曲第4番(1950年)
- 弦楽四重奏曲第5番(1987年)
- アマリリス(弦楽三重奏のための変奏曲)(1964年)
外部リンク
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