ウッドヴィル・レイサム

1922年に出版された映画史に関する記事に掲載された、撮影時期不詳のウッドヴィル・レイサムの写真。

ウッドヴィル・レイサム少佐(Major Woodville Latham、1837年 - 1911年)は、南北戦争中のアメリカ連合国(南軍)砲兵士官、ウェストバージニア大学化学の教授。彼は初期の映画技術の発展に重要な役割を果たした。

ウッドヴィル・レイサムは、ニューヨークキネトスコープ・パーラーのオーナーであったグレイ・レイサム (Grey Latham) とオトウェイ・レイサム (Otway Latham) の父であった。1894年12月、レイサムは、息子たちとともに、フランクフォート通り35番地 (35 Frankfort Street) にラムダ社 (the Lambda Company) を構え、以前トーマス・エジソンに雇われていたウジェーヌ・ローストを雇い、さらに活動写真の先駆者ウィリアム・ケネディ・ディクソンも雇った。ディクソンは、1895年4月までエジソンに雇用されていたため、当初はレイサムへの専門知識の提供は秘密裏におこなわれていた。1895年4月21日エイドロスコープ (Eidoloscope) が報道陣に公開され、5月20日には有料での一般公開がおこなわれ[1][2]5月4日に開催されたグリフォ対バーネットの懸賞ボクシング試合の様子をマディソン・スクエア・ガーデンの屋根から撮影した映像が、ロウアー・ブロードウェイの店舗で上映された[3]

レイサムの初期の映写機のひとつ。

レイサムは、1898年には映画事業を放棄し、彼らの特許も失われた。レイサム少佐は、1910年に二人の息子たちに先立たれたが、彼らは快楽主義的な性格であったと言われている。

ディクソンとローストの支援を受けたレイサムは、レイサム・ループ (Latham loop) として知られる発明で有名になったが、これは映画のカメラや映写機の内部の機構で、映画史上重要な発展であり、これによって映画は、たかだか1分ほどの長さしか上映できなかったエジソンのキネトスコープに対し、連続して長時間の撮影や上映が可能になった[1]。死去する直前の1911年、レイサムは、「レイサム・ループ」の特許に関する聴聞会で証言した。

脚注

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  1. ^ a b Domankiewicz, Peter (2020年5月20日). “Happy 125th Birthday, Cinema! Part 1” (英語). William Friese-Greene & Me. 2020年5月23日閲覧。
  2. ^ Domankiewicz, Peter (2020年5月20日). “Happy 125th Birthday, Cinema! Part 2” (英語). William Friese-Greene & Me. 2020年5月23日閲覧。
  3. ^ Streible, Dan (11 April 2008). Fight Pictures: A History of Boxing and Early Cinema. University of California Press. pp. 46. ISBN 9780520940581. https://books.google.com/books?id=Bpc1fk5T5dYC&pg=PA46 16 May 2016閲覧。 

外部リンク

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