オロチン

オロチン・キュレゲンモンゴル語: Oločin Küregen、生没年不詳)は、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたコンギラト部出身の万人隊長(トゥメン)。『元史』などの漢文史料では斡羅陳(wòluóchén)と記される。

概要

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オロチンは大元ウルスを創設したクビライの義兄に当たるナチン・キュレゲンの息子として生まれ、兄弟にはテムルジルワダイマンジタイナムブイらがいた[1]。ナチンの息子達の中では年長であり、1261年シムルトゥ・ノールの戦いにも参戦したことが記録されている[2]。父のナチン・キュレゲンが亡くなると長兄のオロチンが万人隊長(トゥメン)の地位を継ぎ[1]、オルジェイを娶った[3]。しかし、オルジェイは婚姻から数年後に亡くなってしまったため、今度はクビライの娘のナンギャジンを娶った[1]。オロチンとナンギャジンとの婚姻は、遅くとも1269年(至元6年)以前のことと見られる[4]

1276年(至元13年)冬、以前よりクビライ政権に不満を抱いていたシリギトク・テムルといったトルイ系諸王はアルマリクにて叛乱を起こし、シリギをカアンに推戴してクビライに叛旗を翻した(シリギの乱)。叛乱軍はアルマリクから東に進み、モンゴル高原を制圧しようとしたが、これに呼応して兵を挙げたのがジルワダイであった[5]。「張氏先塋碑」によると、ジルワダイはオロチンを捕虜としてコンギラト部の根拠地応昌を包囲せんと北上したが、間もなくオロチンはジルワダイによって殺害されてしまった[6]。しかしキプチャク人将軍トトガクの活躍によってジルワダイはシリギら反乱軍との合流を果たせず、最終的にボロカンらによって討伐された。叛乱鎮圧後、コンギラト部ではオロチンの弟のテムルが1280年(至元17年)に万人隊長(トゥメン)の地位を継承し、また未亡人となったナンギャジンをレビラト婚で娶った[1]

オロチンに息子はいなかったが、娘のシリンダリオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)に嫁いでいる[7]。ただしオロチンが亡くなったシリギの乱時にテムルは僅か13歳に過ぎず、オロチンはこの婚姻に直接関わっておらず、有力な姻族との繋がりを求めたテムルの側からの働きかけで成立した婚姻であると考えられている[8]

コンギラト部デイ・セチェン家

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脚注

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  1. ^ a b c d 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏、世居朔漠……子曰按陳。……子斡陳。……弟納陳。……斡羅陳襲万戸、尚完澤公主。完澤公主薨、継尚嚢加真公主。至元十四年薨、葬拓剌里。無子」
  2. ^ 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「及阿里不哥叛、中統二年与諸王北伐、以其子哈海・脱歓・斡羅陳等十人自従、至于莽来、由失木魯与阿里不哥之党八児哈八児思等戦、追北至孛羅克禿、復戦、自旦及夕、斬首万級、僵尸被野」
  3. ^ 『元史』巻109表4諸公主表,「魯国長公主完澤、適斡陳男斡羅真駙馬」
  4. ^ 『道光鉅野県志』巻20「済寧路総管府記碑」に「至元六年、州人敬述遺命、請於斡羅真駙馬・嚢加真公主。於是、乃追慕納陳駙馬遺訓、従州人之請奏。奉朝命、立鉅野県事、且移置済州総司」とあり、至元6年には斡羅真駙馬(オロチン・キュレゲン)が嚢加真(ナンギャジン)公主を娶っていたことが確認されるため(宇野1999,63頁)
  5. ^ 杉山2004,300頁
  6. ^ 『満州金石志』巻4、張氏先塋碑。『新元史』巻115列伝12「至元十四年、斡羅陳弟只児瓦台叛、夾斡羅陳北去、並窃太祖所賜誓券。未幾、斡羅陳為只児瓦台所殺、其左右張応瑞逃帰、世祖嘉之、賜鈔五百緡、命応瑞輔斡羅陳子諦瓦不剌、収其部衆」
  7. ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝,「成宗貞慈静懿皇后、名失憐答里、弘吉剌氏、斡羅陳之女也。大徳三年十月、立為后。生皇子徳寿、早薨。武宗至大三年十月、追尊諡貞慈静懿皇后……」
  8. ^ 宇野1999,41頁

参考文献

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  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52号、1993年
  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係に見られる対称的婚姻縁組」『国立民族学博物館研究報告別冊』20号、1999年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年