ゲーリー・レーシッチ
ニューヨーク・メッツ時代 (1982年) | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オハイオ州ヤングスタウン |
生年月日 | 1954年10月28日(70歳) |
身長 体重 | 184 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1976年 MLBドラフト11巡目 |
初出場 | MLB / 1982年4月9日 NPB / 1986年4月4日 |
最終出場 | MLB / 1985年7月1日 NPB / 1988年10月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
ゲーリー・ルイス・レーシッチ(Gary Louis Rajsich、1954年10月28日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手(内野手)。左投左打。中日ドラゴンズでの登録名はゲーリー。広島東洋カープでプレーしたデーブ・レーシッチは実兄。
経歴
[編集]1976年のMLBドラフト11巡目でヒューストン・アストロズに指名され契約。1981年にニューヨーク・メッツにトレード移籍。
1982年4月9日にメジャーデビュー。メッツ時代にはデービー・ジョンソン監督からは「キース・ヘルナンデスがいるから出番はないが優秀」と実力は評価されていた[1]ものの結局メジャー定着はならず。
1984年にセントルイス・カージナルスに移籍。
1985年にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。
1986年に中日ドラゴンズに入団し、来日。来日1年目からクリーンナップに定着し、1986年5月4日の広島東洋カープ戦で津田恒実、9月16日のヤクルトスワローズ戦で尾花高夫からサヨナラ本塁打を放つなど、同年36本塁打を放った。
1987年には外野から一塁手となり、出場辞退したボブ・ホーナーに代わってオールスターゲームに出場した。
1988年には開幕戦敗戦で迎えた2戦目の4月9日の横浜大洋ホエールズ戦では9回0-0の場面で新浦壽夫からサヨナラ本塁打を放ち、6月1日から8月2日までは不振で3番に降格の落合博満に代わり、4番打者としてチームのリーグ優勝に貢献。同年に中日に入団したラルフ・ブライアントは、中日の外国人枠が、当時の制度でゲーリーと郭源治で埋まっていることとなって、同年シーズン中に近鉄バファローズからの申し入れによってトレードされるまで、一軍で出場できなかった[2]。同年の日本シリーズでは第3戦に7番・指名打者として出場し、中日初の指名打者となった。オフになると右脇腹痛もあり同年限りで中日を退団し、帰国した。
映像外部リンク | |
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スカウティングディレクターとして インタビューに答えるゲーリー・レーシッチ (2016年6月) | |
Gary Rajsich talks about scouting in the upcoming draft - masn Orioles 公式YouTube |
引退後はボストン・レッドソックス、テキサス・レンジャース、トロント・ブルージェイズのスカウトを経て、2011年のシーズンオフからボルチモア・オリオールズのアマチュアスカウティングディレクターに就任し[3]、2018年11月に解任されるまで同職を務めた[4]。
人物
[編集]ゲーリーの応援歌は石井昭男の流用曲である山本リンダの「狙いうち」が原曲であり、その後、ジョージ・ヒンショー、ベニー・ディステファーノ、マーク・ライアル、アロンゾ・パウエルの応援歌として流用され、中日のチャンステーマに使われていたほか(主に7回以降の場面)、高校野球や大学野球(明大など)、社会人野球でも応援歌の定番としてよく使われている。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1982 | NYM | 80 | 182 | 162 | 17 | 42 | 8 | 3 | 2 | 62 | 12 | 1 | 3 | 2 | 0 | 17 | 3 | 1 | 40 | 2 | .259 | .333 | .383 | .716 |
1983 | 11 | 40 | 36 | 5 | 12 | 3 | 0 | 1 | 18 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 1 | 1 | 1 | .333 | .400 | .500 | .900 | |
1984 | STL | 7 | 10 | 7 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | .143 | .300 | .143 | .443 |
1985 | SF | 51 | 110 | 91 | 5 | 15 | 6 | 0 | 0 | 21 | 10 | 0 | 1 | 2 | 0 | 17 | 4 | 0 | 22 | 0 | .165 | .296 | .231 | .527 |
1986 | 中日 | 129 | 525 | 486 | 58 | 122 | 12 | 2 | 36 | 246 | 82 | 2 | 5 | 0 | 3 | 30 | 2 | 6 | 105 | 7 | .251 | .301 | .506 | .807 |
1987 | 87 | 359 | 331 | 60 | 105 | 11 | 4 | 24 | 196 | 54 | 2 | 1 | 1 | 3 | 22 | 1 | 2 | 51 | 7 | .317 | .360 | .592 | .952 | |
1988 | 101 | 404 | 358 | 56 | 105 | 25 | 3 | 16 | 184 | 53 | 2 | 2 | 0 | 6 | 34 | 8 | 6 | 51 | 7 | .293 | .359 | .514 | .873 | |
MLB:4年 | 149 | 342 | 296 | 28 | 70 | 17 | 3 | 3 | 102 | 27 | 1 | 4 | 4 | 1 | 39 | 8 | 2 | 64 | 3 | .236 | .328 | .345 | .673 | |
NPB:3年 | 317 | 1288 | 1175 | 174 | 332 | 48 | 9 | 76 | 626 | 189 | 6 | 8 | 1 | 12 | 86 | 11 | 14 | 207 | 21 | .283 | .336 | .533 | .868 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]- 月間MVP:1回 (1986年5月)
記録
[編集]- NPB初記録
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1987年)
背番号
[編集]- 21 (1982年 - 1983年)
- 33 (1984年)
- 26 (1985年 - 同年途中)
- 43 (1985年途中 - 同年終了)
- 4 (1986年 - 1988年)
脚注
[編集]- ^ ロバート・ホワイティング/松井みどり『ニッポン野球は永久に不滅です』157頁、ちくま文庫、1987年
- ^ ““途中移籍”助っ人の衝撃。ブライアントの場合”. ベースボールマガジン社 (2017年7月28日). 2018年6月19日閲覧。ラルフ・ブライアント参照
- ^ “Orioles Name Gary Rajsich Director of Amateur Scouting”. mlb.com (2011年11月28日). 2022年7月4日閲覧。
- ^ “A deeper look at Gary Rajsich's Orioles' tenure shows change was needed”. The Athletic (2018年11月28日). 2022年7月4日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 ゲーリー・レーシッチ - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)