ゴスポダーリ

ゴスポダーリロシア語: господарьブルガリア語: господарセルビア語: gospódar)は、ゼタ公国、モルダヴィア公国(ru)、ワラキア公国(ru)ノヴゴロド共和国リトアニア大公国、北東ルーシ(ウラジーミル大公国領域)、モンテネグロにおいて用いられた称号である。

(留意事項):本頁の「ゴスポダーリ」はロシア語: господарьからのカナ転写であり、他の言語に拠れば別の表記となるが、便宜上「ゴスポダーリ」で統一している。

歴史

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ゼタ公Иванの像(モンテネグロツェティニェ)。台座・上から3行目にゴスポダーリ
モルダヴィア公シュテファン3世(1457年 - 1504年)の印章。時計でいう5時半から7時のあたりにかけてゴスポダーリ(гωсподар[注 1]

ゴスポダーリは、元はスラヴ祖語の単語であり、様々なスラヴ系言語で用いられた。すべてのスラヴ系言語において、所有主あるいは所有地を意味した。ゴスポダーリが君主の称号として用いられるようになったのは、ラテン語ドミヌス翻訳借用として、主、主人の意味が付加されたためとみられる。君主の称号として用いられた最初の例は、ともにラテン語使用地域と接していた、14世紀のゼタ公国、またガリツィアポーランド王国領)の外交文書においてである。たとえば、ゼタ公国の君主Иван Црнојевићが、1458年に「ゼタのゴスポダーリ」と署名した史料が残されている。 また、ワラキア公国、モルダヴィア公国では、14世紀始めから、事務的な文章の中に「hospodar」が用いられ始めた。ただしこの時期のワラキアでは、「hospodar」は相手に呼びかける場合にのみ添えられた。一方、モルダヴィアでは称号として用いられた[1]。ワラキアにはセルビアから、モルダヴィアにはガリツィアから伝わったと考えられる[1]。15 - 19世紀になると、モルダヴィア、ワラキアでは共に、統治者が、hospodar、またヴォイヴォダを称号に用いた。また、ルーマニアにおいては、「Domn(ラテン語のドミヌス / dominusより)」と共にゴスポダーリが用いられた。ルーマニア公国が王政を宣言(ルーマニア王国となる)した1881年まで、この称号は用いられた。

モンテネグロでは、モンテネグロ王ニコラ1世が、王(Краљ)の称号とともに、1918年までゴスポダーリの称号を保持していた[2]

モスクワ大公イヴァン3世の印章(1489年頃)。左、時計でいう5時から7時のあたりにゴスポダーリ[注 2]

ロシアにおいては、ノヴゴロドの白樺文書No.247(ru)(11世紀)に用いられている例がある。14世紀にはリトアニア大公でも用いられ、さらに15世紀にはウラジーミル大公国域へと伝わった。その契機はおそらく、モスクワ公ヴァシリー1世と、リトアニア大公ヴィータウタスの娘ソフィヤ(ru)との結婚(1391年1月。当時の暦を用いたトヴェリ年代記では1390年[3])であると考えられる。ゴスポダーリの称号はロシアに定着し、モスクワ公と同じくウラジーミル大公国域の諸公の統一をはかるトヴェリ公、また西接するノヴゴロドでも用いられた[注 3]。なお、15世紀には、所有主・主人の意味を示す単語としては、「xoža / 主人」などのテュルク語からの[5]借用語であるホジャイン(хозяин)が用いられるようになった。しかし、その後、15 - 16世紀の端境期になると、「ゴスダーリ(государь)」という表現が用いられ始める。17世紀始めには、ゴスポダーリという表現は、完全にゴスダーリに取って代わられた[注 4]

なお、帝政ロシアにおいては、モルダヴィア等のゴスポダーリの子孫(ダビジャ家(ru)、カンタクゼン家(ru)カンテミール家マヴロコルダト家。名称はいずれもロシア語転写。)が貴族の家名を保っていたが、いずれも、ゴスポダーリあるいはゴスダーリと称されることはなかった。

王朝

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各王朝の以下の時期に、ゴスポダーリ系(カタカナ表記は各言語に拠って異なる)の称号を冠した人物がいる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 全文:12時から時計回りに「Печать(印章) iω Стефанъ(シュテファン) Воевωда(ヴォエヴォダ) гωсподар(ゴスポダーリ) Земли Мωлдавскои(モルダヴィアの地)」
  2. ^ 全文:12時から時計回りに「Иѡанъ(イヴァン) Б[о]жiею милостію(神の寵愛を受けた) Господарь(ゴスポダーリ) всеѧ Рꙋси(全ルーシ) Великыі кн[я]зь·(ヴェリーキー・クニャージ)」
  3. ^ なお、ノヴゴロドではのちに、「ゴスポダーリ・ヴェリーキー(大)・ノヴゴロド(Господарь Великий Новгород)」から、「ゴスポヂン(主人)・ヴェリーキー(大)・ノヴゴロド[4](Господин Великий Новгород )」へと表現を変えている。
  4. ^ 例:ロシア皇帝ピョートル1世の称号:Божиею милостию мы, пресветлейший и державнейший великий государь и великий князь Петр Алексеевич…(後略).[6]

出典

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  1. ^ a b Литвина, 2014, с. 565—567.
  2. ^ Ракочевич, Н. Politički odnosi Crne Gore i Srbije: 1903—1918. — Pòdgorica: Istorijski institut SR Crne Gore u Titogradu, 1981. — С. 124.
  3. ^ Тверские летописи. Древнерусские тексты и переводы. - Тверь. - 1999.
  4. ^ 田中1995.p199
  5. ^ 井桁2009.p1226
  6. ^ Лакиер А. Б. §66. Надписи вокруг печати. Соответствие их с государевым титулом. // Русская геральдика. — СПб., 1855.
  7. ^ Литвина, 2014, с. 555—586.

参考文献

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  • Господарь // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.
  • Hospodar // Encyclopædia Britannica Eleventh Edition.1911
  • Литвина А. Ф. и др. Из истории русской культуры. Т. II. Кн. 1. (Киевская и Московская Русь). — М.: Litres, 2014.
  • 田中陽児・倉持俊一・和田春樹編『ロシア史〈1〉9~17世紀 (世界歴史大系)』山川出版社、1995年
  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年