サントフォワの戦い
サントフォワの戦い | |||||||
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フレンチ・インディアン戦争中 | |||||||
サントフォワの戦い ジョージ・B・カンピオン作 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国 | グレートブリテン王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
フランソワ=ガストン・ド・レビ | ジェームズ・マレー | ||||||
戦力 | |||||||
正規兵2600 民兵2400 | 正規兵3800 大砲27 | ||||||
被害者数 | |||||||
死者193 負傷者640 | 死者259 負傷者829 | ||||||
サントフォワの戦い (Battle of Sainte-Foy)は、フレンチ・インディアン戦争の期間中の1760年4月に、カナダのケベック・シティーで行われたフランスとイギリスの戦闘である。ケベック奪還を試みたフランスが、イギリスに勝利した。
概要
[編集]ケベック奪還へ
[編集]エイブラハム平原の戦いでフランスは敗退し、モントリオールに退却したが、なおもイギリスに三方(セントローレンス川、シャンプラン湖、オンタリオ湖)から包囲されていた。ケベックの奪還のためにも、また、イギリス軍指揮官のジェームズ・マレーの、新しい要塞の計画を止めるためにも、兵器を準備して行動に出る必要があった。しかも、雪が完全に溶ける前、セントローレンス川から氷が消える前に、マレイの、最新装備の駐屯部隊に一泡吹かせるつもりだった。[1]イギリス軍指揮官のマレーには、フランス軍の半分の軍ほどしか兵がおらず、しかも長い冬の間に、壊血病で弱っていた[2]。大砲を多く装備しているとは言え、フランスと一戦交えるのはかなり大胆なことだった[1]。
戦闘
[編集]フランスの将軍、フランソワ=ガストン・ド・レビの指揮下の兵は5900人とも言われていた[2]。(一説によると、12000人にも達していたと言われる)[3]一方、イギリスのほうは3000人だった[2]。兵力はフランスがはるかに優勢だったが、大砲はわずかに3台であった。[4]
両軍は、前年に続き、再びケベックの西のエイブラハム平原で相まみえた[3]マレーの3886人の兵は、10の正規兵部隊と、混成軽歩兵隊、そしてレンジャーズの2つの歩兵中隊だった。戦場をすべて埋め尽くすために、通常の、肘と肘が触れるほどの並び方ではなく、2層式で、前後3歩の間隔で縦に整列した。[5]部隊と部隊の間には、37メートルの距離があった。軽歩兵隊は右翼を守った。整列した順に、右から左へ、第48歩兵連隊(en:48th (Northamptonshire) Regiment of Foot)、第15歩兵連隊(en:East Yorkshire Regiment)、第58歩兵連隊(en:58th (Rutlandshire) Regiment of Foot)、2列目が第60歩兵連隊(en:King's Royal Rifle Corps)、第43歩兵連隊(en:43rd (Monmouthshire) Regiment of Foot)、第47歩兵連隊(en:47th (Lancashire) Regiment of Foot)、第78歩兵連隊(フレーザー・ハイランダーズen:78th (Highlanders) Regiment of Foot)そして第28歩兵連隊(en:28th (North Gloucestershire Regiment of Foot) だった。レンジャーズと志願兵とは左翼の守りに回った。右翼の予備隊として第35歩兵連隊(en:35th (Royal Sussex) Regiment of Foot)がいた。また、3列目の第60連隊は左翼の予備隊だった。歩兵の援護として、20台の大砲と2台の榴弾砲があった[6]。この時のイギリス軍を、ある軍曹はこう記録している。「イギリス軍隊は、壊血病にかかり、餓死しかけた、みじめで哀むべき一握りの骸骨であった」[7]
この時点で、フランス軍がまだ配置についている最中であるのを見て、マレーは、相手の準備が整う前に攻撃を仕掛けることにした。イギリス軍が進撃してくるのを見て、レビは右翼の、3列に配置した旅団を、シレリーの森に後退させた。この時、左翼のほうはまだ整列が終わっておらず、イギリスの軽歩兵隊は、フランスの擲弾兵部隊を、右の風車小屋の外に追いやった。マレーは、予備隊である第35歩兵部隊にその場を任せ、イギリスの右側の守りを建て直した。[4]しかし、風車小屋の内側の陣地の獲得を巡って、熾烈な戦いが続いた。[8]
イギリスの左の部隊が砦を幾つか奪った時、レビは右翼の隊と共に力強い反撃を加えた。マレーは、最後の予備隊である第3大隊の第60連隊を送りこんで、この反撃を止めようとした。また、中央から43連隊に攻撃を命じたが、レビは殆どそれを無視した。マレーは自軍の左翼の守りに入ったが、結局この部分で大きな損害をこうむり、フランスの突破を許した。イギリス軍の陣形は左から右へと崩壊した。後になってレビは、ケベックからイギリスを追い払うつもりだったが、運悪く敵を逃してしまったと言い張った。イギリスの右翼にいた旅団の一人が迷走し、命令通りに正面からの攻撃をする代わりに、左翼を助けるべく突っ込んで行った。[6]
この戦闘の開始直後では、多くのイギリスの大砲が、フランスの攻撃に圧力を掛けていた。しかし、フランスは前進によって弾みがつき、しかもイギリスの大砲は弾丸切れの状態になった。マレ-が陣形を前にやるよう命令した時には、弾丸運搬の荷車は雪の中に埋もれてしまった。イギリスは、自分たちの大砲を使い物にならなくしてから廃棄し、退却した。[9]
フランスの勝利とその後
[編集]イギリス軍の戦死者は292人、負傷者が837人、そして捕虜が53人で、全部で1182人の戦死傷者と捕虜が出た。フランスは833人で、戦死193人、そして負傷者640人だった。[10]第15歩兵部隊は、階級を問わず836人の兵のうち138人、34パーセントが戦死した。[11] フレーザー・ハイランダーズの士官は4分の3が戦死もしくは負傷した。サントフォワの戦いは、カナダを舞台とした戦争の中で、もっとも殺伐としたものの一つだった。[2]
レビはその後、兵力の弱いイギリスに対して包囲戦に出た。フランスからの援軍をも当てにしていたレビは、5月15日の夜に艦隊の音を聞きつけ、確認したところ、それはフランスではなく、イギリスの艦隊だった。フランス艦隊は、前年秋のキブロン湾の海戦で、イギリスに粉砕されていたのだ。分が悪くなったレビの軍は、5月末にモントリオールに退却した。その年の9月、ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、モントリオールで降伏した。 [2][3]
1995年以来、サントフォワでは毎年4月に、この戦いの記念式典が行われている[12]。
脚注
[編集]- ^ a b Quebec: the challenge of a new battle > Context >Batle of Sainte-Foy>the national Battlefire
- ^ a b c d e Battle of Sainte-Foy Quebec
- ^ a b c The Seven Years War - French and Indian War - The Fall of New France
- ^ a b Brumwell, p. 257
- ^ Brumwell, p. 255
- ^ a b Brumwell, pp. 256-257
- ^ Brumwell, p. 153
- ^ Brumwell, pp. 259-260
- ^ Brumwell, p. 261
- ^ Brumwell, p. 258
- ^ Brumwell, p. 259
- ^ Sainte-Foy - The Canadian Encyclopedia
参考文献
[編集]- Brumwell, Stephen. Redcoats: The British Soldier and War in the Americas, 1755-1763. NY: Cambridge University Press, 2002. ISBN 0-521-80783-2
- Chartrand, Rene (2000). Canadian Military Heritage. Casemate Publishing. ISBN 2920718517