ジェイミー・ミューア

ジェイミー・ミューア
生誕 (1942-11-30) 1942年11月30日(81歳)
出身地 スコットランドの旗 スコットランド エディンバラ
ジャンル フリー・ジャズ
プログレッシブ・ロック
職業 打楽器奏者、画家
担当楽器 打楽器
活動期間 1966年 -
共同作業者 デレク・ベイリー
キング・クリムゾン

ジェイミー・ミューアJamie Muir1942年11月30日 - )は、スコットランド出身の打楽器奏者、画家。

略歴

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エディンバラ生まれ。1960年代前半にエディンバラ芸術大学在籍中、当初はピアノを学び、別の学校ではフレンチホルンも勉強した。ジャズに興味を持ってトロンボーンと打楽器演奏を学び始め、トロンボーンを諦めると次にドラムをはじめ、練習では当初、ケニー・クラークトニー・ウィリアムス等のジャズ・スタイルをコピーした。アルバート・アイラーファラオ・サンダースに興味を持ち始めるとミルフォード・グレイヴスの演奏に惹かれ打楽器の即興演奏を志向。地元バンドのアサシネイション・アテンプト(The Assassination Weapon)にトロンボーンで参加、フリー・ジャズを演奏し始めた。

1965年、エジンバラ芸術大学でエジンバラ・フェスティバルが開催され、彼はロンドンから出演したミュージシャンのバックで演奏した。バーニー・グリーンの演奏で客演ギタリストのデレク・ベイリーと共演。ベイリーからロンドンへ出てくるように勧められ、一週間にわたり振付師・舞踏家リンゼイ・ケンプの公演にベイリー、エヴァン・パーカーらと参加。またピート・ブラウン&ピブロクトに加入してパーカッションとドラムスを担当、フリーなバンド演奏スタイルで1968年7月まで在籍。

1968年、ベイリー、パーカー、ヒュー・デイヴィスとザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー(The Music Improvisation Company)を結成し、1970年8月に発表された同名デビューアルバムの制作に携わった。1969年7月には、ローリング・ストーンズがロンドンのハイド・パークで開催したフリー・コンサート[注釈 1]の観客の1人として、コンサートに出演したデビュー直後のキング・クリムゾンを目撃した。ピート・ブラウン・バタード・オーナメンツ(Pete Brown's Battered Ornaments)のエジンバラ・フェスティバルでの演奏にも参加。元コロシアムのジム・ローチェ[1](ギター)、ドン・ウェラー(サクソフォーン)、ジェイミー・ピータース(ベース)が結成したボリス(Boris)に誘われ[2]、過激で暴力的なパフォーマンスを披露した。1971年、ザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニーを離れ、ヘヴィ・アフリカン・エンヴェロープを率いてコンサート活動を開始した。

1972年、当時関わっていたアサガイで知り合ったアラン・ゴーウェンらとサンシップ(Sunship)を結成[3]。同年4月、キング・クリムゾンのロバート・フリップ[注釈 2]から連絡を受け、ジャム・セッションの後にキング・クリムゾンへ加入[4]。ライブ活動[5][6][7]の後にアルバム『太陽と戦慄』(1973年)の制作に参加した[注釈 3][8]。しかしインドの宗教家パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読んで深い影響を受け、キング・クリムゾンの管理会社であるE.G.マネージメントに脱退を申し入れた[9]

その後、1980年頃までスコットランド、フランス、インドなどで仏教修行に入った。帰国後、友人から誘われて音楽活動を再開し、ベイリー[10]、パーカー[11]といくつかの作品を残している。1983年にはデヴィッド・カニンガムの呼びかけでマイケル・ジャイルズ[注釈 4]らと共に、ケン・マクマラン監督の映画"Ghost Dance"のサウンドトラックを制作した。この作品のCDは1995年に発売された[12][13]

1980年代前半にはベイリーとの共作アルバム[10]やベイリーが結成したカンパニーのアルバム[14][15]のジャケットのアートを手掛けた。1980年代末にはシーケンサーや一部楽器以外の機材を渡米のために売り払ってしまい、この頃、画家に転身した。

ディスコグラフィ

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キング・クリムゾン

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  • 太陽と戦慄』 - Larks' Tongues in Aspic (1973年)
  • The Beat Club Bremen 1972 (1999年)
  • Live At The Zoom Club 1972 (2002年)
  • Live In Guildford 1972 (2003年)

その他

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  • ザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー : 『ザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー』 - The Music Improvisation Company (1970年) ※日本盤はデレク・ベイリー名義
  • ザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー : 1968-1971 (1976年)
  • デレク・ベイリー、ジェイミー・ミューア : Dart Drug (1981年)
  • カンパニー : Trios (1986年)
  • Richard Strange & The Engine Room : Going, Gone (1986年)
  • マイケル・ジャイルズ、ジェイミー・ミューア&デヴィッド・カニンガム : 『ゴースト・ダンス』 - Ghost Dance (1995年) ※1983年録音
  • エヴァン・パーカー : The Ayes Have It (2001年) ※1983年の演奏
  • Laurie Scott Baker : Gracility (2009年) ※キング・クリムゾン加入以前のライブ音源

脚注

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注釈

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  1. ^ ブライアン・ジョーンズの追悼公演になった。
  2. ^ フリップは新しいキング・クリムゾンを結成すべくメンバーを探していたところ、『メロディ・メーカー』誌のリチャード・ウィリアムスにミューアを迎えることを強く勧められた。
  3. ^ アルバムの原題"Larks' tongues in aspic"は彼の案である。
  4. ^ 彼が1969年7月にハイドパークで観たキング・クリムゾンのドラマーだった。

出典

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  1. ^ Discogs”. 2024年7月3日閲覧。
  2. ^ 米映画会社の呼びかけでデモテープも作ったが、映画会社の倒産で頓挫した。『MARQEE別冊キング・クリムゾン』(1995年)
  3. ^ Smith (2019), p. 147.
  4. ^ Smith (2019), pp. 146–147.
  5. ^ Discogs”. 2024年7月3日閲覧。
  6. ^ Discogs”. 2024年7月3日閲覧。
  7. ^ Discogs”. 2024年7月3日閲覧。
  8. ^ Smith (2019), p. 149.
  9. ^ Smith (2019), pp. 156–157.
  10. ^ a b Discogs”. 2024年7月5日閲覧。
  11. ^ Discogs”. 2024年7月5日閲覧。
  12. ^ Smith (2019), pp. 374–375.
  13. ^ Discogs”. 2022年12月29日閲覧。
  14. ^ Discogs”. 2024年7月5日閲覧。
  15. ^ Discogs”. 2024年7月5日閲覧。

引用文献

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  • Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. ISBN 978-1916153004 

参考文献

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  • 『キング・クリムゾン―至高の音宇宙を求めて』(新興楽譜出版社、1981年6月)
  • 『MARQEE 別冊 キング・クリムゾン』(マーキームーン社、1995年)
  • 『クリムゾン・キングの宮殿 風に語りて』シド・スミス著(ストレンジ・デイズ、2007年7月)
  • 『デレク・ベイリー…インプロヴィゼーションの物語』ベン・ワトソン著(工作舎、2014年1月)

関連項目

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外部リンク

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