ジョーウチ・ヴォーディの戦い
ジョーウチ・ヴォーディの戦い | |
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戦争:フメリニツキーの乱 | |
年月日:1648年4月29日から5月16日 | |
場所:ジョーウチ・ヴォーディ、ウクライナ | |
結果:コサック・タタール同盟軍側の勝利 | |
交戦勢力 | |
ザポロージャ・コサック クリミア・ハン国 | ポーランド・リトアニア共和国 |
指導者・指揮官 | |
ボフダン・フメリニツキー トハイ・ベイ | ステファン・ポトツキ en:Stefan Czarniecki |
ジョーウチ・ヴォーディの戦い(ウクライナ語: Битва під Жовтими Водами;ポーランド語: Bitwa pod Żółtymi Wodami )は、1648年4月29日から5月16日にかけて、ウクライナのジョーウチ・ヴォーディ周辺で、ボフダン・フメリニツキー率いるザポロージャ・コサック・クリミア・ハン国同盟軍と、ポーランド・リトアニア共和国政府軍との間に行われた合戦である。
前史
[編集]1648年の始め、ボフダン・フメリニツキーが軍勢を集めて反乱の準備をしていることを知ったポーランド・リトアニア共和国政府は、ミコワイ・ポトツキとマルチン・カリノフスキの率いる在ウクライナ政府軍にフメリニツキーのコサック軍を鎮圧するよう命じた。しかし、政府軍は寒さのために1648年の春まで進攻できず、その隙にフメリニツキーはウクライナの南方の隣国であったクリミア・ハン国と同盟を結び、クリミア・タタール人からの援軍の約定を取りつけた。
戦闘の経過
[編集]1648年4月、政府軍の司令官達は貴族の諸部隊の到着を待つためにコールスニ町辺りに本陣を据え、ミコワイ・ポトツキの子息、ステファン・ポトツキが率いる1万人余りの先勢をフメリニツキーの根拠地へ派遣した。先勢は、4月29日にジョーウチ川(ウクライナ語: Жовті Води - 英: Zhovti river[1])の辺りでフメリニツキーの8千人のコサックと1千5百人のタタール人の同盟軍と衝突した。
コサック・タタール同盟軍が優勢であったため、政府軍の先勢は速やかに陣地を要塞化し、そこに籠城して和平交渉を望んだ。しかし、交渉中に先勢にいた政府側の1千人余りの登録コサックは、同盟軍にいた同胞のコサックへ寝返り、交渉は中断してしまった。
5月15日の夜、先勢はコサックの軍の包囲を突破して脱出しようと試みたが、翌日にクニャージ・バイラークィという谷でコサック・タタール同盟軍に包囲され、コサックの鉄砲隊と砲兵隊の射撃によって壊滅した。
結果
[編集]戦いの最中に政府軍の大将ステファン・ポトツキは討ち死にした。捕虜となったウクライナ系の政府側の軍人はフメリニツキーに登用されたが、その他の捕虜はタタール人の獲物となり、奴隷としてクリミア・ハン国へ送られた。
影響
[編集]フメリニツキーの乱における初めての戦いでもあり、合戦は同盟軍の勝利に終わり、反乱の拡大を齎した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫 編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、東京〈世界各国史; 20〉、1998年。ISBN 4-634-41500-3。NDLBibID: 000002751344。
- 黒川祐次『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社、東京〈中公新書; 1655〉、2002年。ISBN 4-121-01655-6。NDLBibID: 000003673751。
- Крип'якевич І. Богдан Хмельницький. К. 1954.
- Смолій , В. А., Степанков, В. С. Богдан Хмельницький, Альтернативи, 2003.
- 『ウクライナ史の概説』/ N.ヤコヴェーンコ著. — キエフ: ゲネザ, 1997.
- Wójcik, Z. Wojny kozackie w dawnej Polsce, Kraków: KAW, 1989.
- Biernacki, W. Żółte Wody - Korsuń 1648, Warszawa: Bellona, 2004.