デビッド・P・ペンハロー

デビッド・ピアース・ペンハローDavid Pearce Penhallow, 1854年5月25日 - 1910年10月20日)は、カナダの植物学者、教育者農学者。いわゆるお雇い外国人として、ウィリアム・スミス・クラークとともに来日,クラークが去った後の北海道札幌農学校で教鞭をとった。

経歴

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メイン州キタリーポイントに,父Andrew Jacksonと母 Mary Annの三男として生まれた。長じてニューハンプシャー州ポーツマスに移る。1869年マサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に15歳で入学,文学会Social Union会長,学長ウィリアム・スミス・クラーク主導の実験に参加する等徐々に頭角を現し,1873年卒業。ポーツマス&ドーバー鉄道に技師として勤務後,研究生としてマサチューセッツ農科大学に戻り,植物学と化学を専攻する。1875年からは同学助手(化学)を務めた。

1876年にSarah Almira Dunlapと結婚。同年開拓使に招かれて札幌農学校教授となり,専門の化学,植物学,園芸学,地質学,顕微学の他,演説を含む英語を教えた。1878年に発生したヒグマによる人身事故「札幌丘珠事件」の折は、学生らを率いて加害熊の解剖実習を担当した。在任最後の1年はウィリアム・ホイーラーの後任として教頭心得を務めた。ただ,アメリカから妻を呼び寄せた後,1879年の冬までの間にブルックスら他の外国人教師と不和となる(ただし,帰国後は和解したとみられる)。1880年に離職。いわゆる「クラークの弟子」と言われる1期生を入学から卒業まで見届けた外国人教師はペンハローただ一人である。

1880年に帰国後はハーバード大学サマースクール,ホートン農場試験場勤務を経,ハーバード大学教授エイサ・グレイの推挙により1883年マッギル大学植物学講師となり,翌年教授となった。1910年,病気療養のためイギリスに向かう船上で死去。遺骨は故郷ポーツマスに移送され,サウスセメトリーに葬られた。

著名な教え子に佐藤昌介大島正健伊藤一隆渡瀬寅次郎内村鑑三新渡戸稲造宮部金吾広井勇等がいる。子孫にDunlap Pearce(1880-1960)。

参考文献

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赤石恵一(2024).『札幌農学校教授ウィリアム・ペン・ブルックス:生涯とその時代』北海道大学出版会

赤石恵一(2017).「米国探訪記:札幌農学校教授D. P. Penhallowの足跡」『日本英学史学会報』141,pp. 3-5.