デメトリオス2世ニカトル
デメトリオス2世 Δημήτριος Β` | |
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シリア王 | |
デメトリオス2世を象ったドラクマ硬貨 | |
在位 | 紀元前145年 - 紀元前138年 紀元前129年 - 紀元前126年 |
出生 | 紀元前160年 |
死去 | 紀元前125年 ティルス |
配偶者 | クレオパトラ・テア |
ロドグネ | |
子女 | |
王朝 | セレウコス朝 |
父親 | デメトリオス1世 |
母親 | ラオディケ |
デメトリオス2世ニカトル(Δημήτριος Β` Νικάτωρ, 紀元前160年 - 紀元前125年[1])は、セレウコス朝シリアの王(在位:紀元前145年 - 紀元前138年、紀元前129年 - 紀元前126年)。
生涯
[編集]デメトリオス1世の子。父王がアレクサンドロス1世に敗れて殺害されると流刑になった[2]。紀元前147年、クレタ島からの傭兵を率いてシリアに戻り[2]、プトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス6世の支持を受けて[3]、その娘のクレオパトラ・テア(アレクサンドロス1世の元妃)を妃とした[1]。紀元前145年のアンティオキアの戦いでアレクサンドロス1世を破って即位した[1]。アレクサンドロス1世の将軍であったディオドトスがアラビア半島へ逃れ、アレクサンドロス1世の遺児であるアンティオコス6世を擁立して挙兵すると、その軍勢に敗れてアンティオキアを失い、セレウキアに移った。
アンティオコス6世の死後、自ら王を称したディオドトスとの内乱が続く中、パルティアのミトラダテス1世によってスーサやエリマイスを奪われた。紀元前140年、失地奪還のためにバビロニアに向かったが、紀元前139年にミトラダテス1世に敗北してその捕虜となった[1][2][4]。デメトリオス2世が捕えられた後、その弟のアンティオコス7世がクレオパトラ・テアと再婚して即位した。パルティアの虜囚となったデメトリオス2世は2度逃亡を試みたが、いずれも失敗に終わった。しかし、パルティアでのデメトリオス2世は政治的な理由から丁重な処遇を受け、ミトラダテス1世の娘のロドグネを妃とした。
紀元前129年、アンティオコス7世との内訌を狙ったパルティアに解放されて[1]シリアに戻った[2]。同年にアンティオコス7世はパルティア相手に戦死したため、弟と再会することはなく復位した[1]。プトレマイオス朝の共同ファラオであったクレオパトラ2世(妃クレオパトラ・テアの母)からの誘いを受けてエジプト遠征に向かったが、その弟のプトレマイオス8世の反撃を受けて撤退した。プトレマイオス8世はシリアの対立王としてアレクサンドロス・ザビナスを擁立し、シリアに侵攻した。紀元前126年にデメトリオス2世はダマスカス郊外の戦いで敗北して[1]プトレマイスに逃げ帰ったが、妃のクレオパトラ・テアに見限られて門を閉ざされ、船でティルスに逃れようとしたが、捕えられて殺害された[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h Losch 2008, p. 387
- ^ a b c d Demetrius II Nicator - ブリタニカ百科事典
- ^ Shayegan 2011, p. 61
- ^ Shayegan 2011, p. 483
参考書籍
[編集]- Richard R. Losch (2008-5-13). All the People in the Bible: An A-Z Guide to the Saints, Scoundrels, and Other Characters in Scripture. Wm. B. Eerdmans Publishing. ISBN 978-0802824547
- M. Rahim Shayegan (2011-9-15). Arsacids and Sasanians: Political Ideology in Post-Hellenistic and Late Antique Persia. Cambridge University Press. ISBN 978-0521766418
先代 アレクサンドロス1世 | セレウコス朝第12代君主 紀元前145年 - 紀元前138年 | 次代 アンティオコス7世 |
先代 アンティオコス7世 | セレウコス朝第14代君主 紀元前129年 - 紀元前126年 | 次代 クレオパトラ・テア |