イワン・ツルゲーネフ

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ
Ивáн Сepгéeвич Тургèнев
ワシーリー・ペロフ画 『ツルゲーネフ』(1872年
誕生 イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ
Ивáн Сepгéeвич Тургèнев
(1818-11-09) 1818年11月9日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国オリョール
死没 1883年9月3日(1883-09-03)(64歳没)
フランスの旗 フランス共和国ブージヴァル
職業 小説家劇作家
ジャンル 写実主義
代表作猟人日記』(1852年)
初恋』(1860年)
父と子』(1862年)
村のひと月』(戯曲)
署名
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イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフロシア語: Ивáн Серге́евич Турге́нев, ラテン文字転写: Ivan Sergeevich Turgenev, 1818年11月9日ユリウス暦10月28日) - 1883年9月3日(ユリウス暦:8月22日[1])は、フョードル・ドストエフスキーレフ・トルストイと並んで、19世紀ロシア文学を代表する文豪である。ロシア帝国貴族

名前の表記は「ツルゲーネフ」の他、ロシア語の発音に近い「トゥルゲーネフ」という表記も用いられる。

概要

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ロシア中部オリョールに、地主貴族の家庭の次男として生まれる。デカブリストの乱において「北方結社ロシア語版: Северное общество)」を設立したN.I.ツルゲーネフ英語版も同じ一族である。

15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じる。1838年から1841年までベルリン大学哲学や古典語を学ぶ。1843年、内務省に職を得るが翌年に辞す。1842年、批評家・ベリンスキーに会い、以後、親交を続けた。1843年、叙事詩『パラーシャ』(: Параша)を発表。その年、夫と子のあるオペラ歌手、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れし、彼女を追ってパリに移り住んだ。それ以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。

1847年から雑誌に発表された『猟人日記』(1852年)で、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで投獄される。この作品は農奴解放英語版1861年)に大きな役割を果たした。その後も、1854年の『ムムー』でも地主の下で使われる農奴たちの悲劇と精神の解放を描いている。

余計者の日記英語版』(1850年)や『ルージン英語版』(1856年)では、高い理想と教養を持ちながらも現実に対しては無力ないわゆる「余計者」を描いた。その後も、政治社会的な問題を主題とした『貴族の巣英語版』(1859年)『その前夜英語版』(1860年)、ナロードニキ運動を描いた『処女地』(1877年)などを次々と発表し、社会論争を巻き起こした。理想主義的な父の世代と、唯物論的な子の世代の相克を描いた『父と子』(1862年)は、19世紀のロシア小説の最高傑作の一つに挙げられる。

自伝的な作品として『アーシャロシア語版』(1858年)(米川正夫訳の邦題は『片恋』)『初恋』(1860年)なども残している。晩年の小作品を集めた『散文詩』(1882年)などもある。

長く住んだパリで、西欧の作家、芸術家たちとの幅広い交友関係を築き、西欧へのロシア文学の紹介に大きな役割を果たした。1883年、パリ郊外のブージヴァルで没し、ペテルブルクでは国葬が営まれた。

日本ではいち早く二葉亭四迷によって翻訳され、特に国木田独歩田山花袋らの自然主義に大きな影響を与えた。

ツルゲーネフはドストエフスキーの『悪霊』の登場人物のモデルの一人とされたという。本人は、革命家ネチャーエフの仲間であるかのように描かれたこと、またドストエフスキーが編集する雑誌に寄稿した『幻影』という小説が悪用されたことが不満であったといわれている[2]

主要作品

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小説

脚注

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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