ナンガ・パルバット

ナンガ・パルバット
北側からの眺め
北側からの眺め
標高 8126 m
所在地 パキスタンの旗 パキスタン
ギルギット・バルティスタン
位置 北緯35度14分15秒 東経74度35分21秒 / 北緯35.23750度 東経74.58917度 / 35.23750; 74.58917座標: 北緯35度14分15秒 東経74度35分21秒 / 北緯35.23750度 東経74.58917度 / 35.23750; 74.58917
山系 ヒマラヤ山脈
初登頂 ヘルマン・ブール1953年
ナンガ・パルバットの位置(パキスタン内)
ナンガ・パルバット
ナンガ・パルバット
ナンガ・パルバットの位置(アジア内)
ナンガ・パルバット
ナンガ・パルバット
プロジェクト 山
テンプレートを表示

ナンガ・パルバットNanga Parbat ウルドゥー語: ننگا پربت‎)は、ヒマラヤ山脈パキスタンギルギット・バルティスタンにある標高は8126 mで世界第9位。

概要

[編集]

「ナンガ・パルバット」はウルドゥー語で「裸の山」の意味で、その周囲に高い山がないことに由来する。nangaナンガとは、サンスクリット語でnaked、bareの意である。

南側のルパール壁は標高差4800 mと世界最大の標高差を誇り、また屈指の登攀難壁である(初登攀はラインホルト・メスナーギュンター・メスナー)。西側のディアミール壁も困難な壁である。南西稜は「マゼノリッジ」と呼ばれ、13 kmの間に7000 m峰を6つ、6000 m峰を2つ含むヒマラヤでも最大級の稜線となっている。

ヘルマン・ブールが1953年7月3日に初登頂するまでにドイツ隊が何度も挑み、多くの遭難者を出したことから「人喰い山」と恐れられた。2013年にブロード・ピークの冬期登頂が達成されたため、冬季登頂が成功していない数少ない8000メートル峰だったが、2016年の2月26日にシモーネ・モロが冬季登頂に成功した。

登山史

[編集]
ルパール壁ベースキャンプからの眺め
西側からの空撮写真
  • 1895年 - イギリスのアルバート・フレデリック・ママリーが試登しディアミール壁から標高6100 m地点まで到達するが、悪天候により下山。北側の別ルートの偵察中8月24日[1]を最後に消息を絶ち行方不明[1]になった。ナンガ・パルバット最初の犠牲者である。
  • 1932年 - ウィリー・メルクールドイツ語版ピーター・アッシェンブレンナードイツ語版らが率いる米独合同の登山隊が北東稜からの登頂に挑むも断念。
  • 1934年 - メルクール率いるドイツ隊が北東稜から再度頂上を狙うが、撤退中に悪天候に襲われメルクールを含む9人が死亡(メルクール隊によるナンガ・パルバット遠征ドイツ語版)。
  • 1937年 - 同ルートからカール・ウィーン率いるドイツ隊が挑むが、キャンプ地を雪崩が直撃し、ウィーンを含む16名の死者を出す。
  • 1939年 - インドに滞在していたドイツ隊が、第二次世界大戦の勃発でイギリス軍の捕虜となる。後日、ハインリヒ・ハラーを含む一部の隊員が収容所から脱走し、チベットに逃げ込んで終戦まで同地で過ごす。
  • 1953年 - ヘルマン・ブールが無酸素で初登頂。第5キャンプ(6850 m)からは単独登攀。山頂にピッケルを残した。ルートは北東稜。
  • 1962年 - トニー・キンスホーファーら3人がディアミール壁を初登攀、第二登を果たす。後にこのルートは頂上へ至る標準的なルートとなり、キンスホーファールートと呼ばれる。
  • 1970年 - ラインホルト・メスナーギュンター・メスナーの兄弟がルパール壁初登攀に成功。下山中、ギュンターが雪崩に巻き込まれて死亡。
  • 1976年 - ハンス・シェル隊長率いるオーストリア隊の4人がルパール壁の新ルートで登頂に成功。以降シェル・ルートと呼ばれる。
  • 1978年 - ラインホルト・メスナーが単独・アルパインスタイルで初登頂。ディアミール壁の新ルート。
  • 1983年7月31日[注釈 1] - 富山県山岳連盟登山隊の谷口守、中西紀夫が日本人初登頂(西壁キンスホッファールートから)。
  • 1985年7月13日 - イェジ・ククチカカルロス・カルソリオらを擁するポーランド、メキシコ合同隊がルパール壁南東ピラー(バツィン柱状岩稜)ルートを完登。
  • 1988年7月12日 - 遠藤由加が日本人女性初の無酸素登頂。
  • 1990年8月18日 - 川崎市教員登山隊の戸高雅史がシェル・ルートで無酸素登頂。その際に同行メンバー一名が滑落死。
  • 1995年7月23日 - 千葉工大山岳部の坂井広志ら3人が北面新ルートを初登攀し登頂に成功。
  • 1999年 - 池田壮彦が山頂直下でブールが残置したピッケルを発見し回収。
  • 2001年6月30日 - 竹内洋岳がキンスホッファールートで無酸素登頂。
  • 2005年9月 - スティーブ・ハウス、ヴィンス・アンダーソンの2人がルパール壁中央側稜をアルパインスタイルで初登攀し登頂に成功。
  • 2012年7月 - サンディ・アラン、リック・アレンの2人が初のマゼノリッジ完全縦走による登頂を果たす。
  • 2013年6月 - 武装集団がベースキャンプを襲撃し、外国人登山者10人と現地人ガイド1人が死亡[2]パキスタン・ターリバーン運動が犯行声明を出す[3]
  • 2016年2月26日 - シモーネ・モロ(イタリア)ら3人が冬季初登頂[4]
  • 2018年1月 - エリザベート・レボル、トマシュ・マツキェビッチが冬季第二登。エリザベートは女性初の冬季登頂となる。マツキェビッチが衰弱していたのですぐに下山を行うも、エリザベートのみが救出される[5]

ナンガ・パルバットが登場した作品

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 中西隊員は前日にもアタックしたが、悪天候のため登頂を確認できず撤退。天候回復後に谷口隊員とともに再アタックの末登頂したが、前日につけた足跡は頂上を通過していた。

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 堀田弘司『山への挑戦』岩波新書 ISBN 4-00-430126-2
  • 千葉工業大学ナンガ・パルバット登山隊1995『ナンガ・パルバット―Keeping tryst with Nanga Parbat』千葉工業大学山岳部OB会、1998年10月。ISBN 4792380472 
  • ラインホルト・メスナー『ナンガ・パルバート単独行』山と溪谷社、2000年7月1日。ISBN 4635047067 
  • ラインホルト・メスナー 著、平井吉夫 訳『裸の山 ナンガ・パルバート』山と溪谷社、2010年10月8日。ISBN 978-4635178198 
  • カール・マリア・ヘルリヒコッファー 著、岡沢祐吉 訳『ナンガ・パルバート回想‐闘いと勝利』ベースボール・マガジン社、1984年9月。ISBN 978-4583024479