ノイルピーン

紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州: ブランデンブルク州
郡: オストプリーグニッツ=ルピーン郡
緯度経度: 北緯52度55分29.62秒 東経12度48分19.14秒 / 北緯52.9248944度 東経12.8053167度 / 52.9248944; 12.8053167
標高: 海抜 44 m
面積: 303.32 km2
人口:

31,002人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 102 人/km2
郵便番号: 16816(ブースコウ、ノイルピーン、ニートヴェルダー)
16818(グネーヴィコウ、ギューレン・グリーニケ、カルヴェ、リヒテンベルク、ノイ・グリーニケ、ラーデンスレーベン、ラインスベルク・グリーニケ、トルノウ、ヴーテノウ)
16827(アルト・ルピーン、クランゲン、モルヒョウ、ツェルミュッツェル、ツィペルスフェルデ)
16833(シュテフィーン)
16835(ヴルコウ)
市外局番: 03391(地区によって異なる)
ナンバープレート: OPR, KY, NP, WK
自治体コード: 12 0 68 320
地区数: 13 地区
行政庁舎の住所: Karl-Liebknecht-Straße 33/34
16816 Neuruppin
ウェブサイト: www.neuruppin.de
首長: イェンス=ペーター・ゴルデドイツ語版 (Pro Ruppin)
郡内の位置

ノイルピーン (Neuruppin, ドイツ語発音: [n‿ɔʏʁʊˈpiːn][2]) は、ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の都市。オストプリーグニッツ=ルピーン郡の郡庁所在地である。人口は約31,000人。なおノイルピンノイルッピンとも表記される。

この地に誕生した作家テオドール・フォンターネを記念し、1998年5月1日から都市名に「フォンターネシュタット (Fontanestadt, フォンターネ都市)[3]」を添えている。ノイルピーンはブランデンブルク州「歴史的な中心部のある都市」作業部会ドイツ語版の加盟都市であり、またフリードリヒ大王が即位前に軍務に就き、建築家カール・フリードリヒ・シンケルが誕生した地でもある。

地理

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ノイルピーンはドイツで最大の面積をもつ都市の一つである。ベルリンから北約60kmに位置するオストプリーグニッツ=ルピーン郡に位置する。南部はリーン川ドイツ語版が川幅を増した部分、ルピーン湖ドイツ語版の湖畔地区から成り立つ。その中には中心部であったノイルピーン地区とアルト=ルピーン地区がある。北部ではルピーナー・シュヴァイツドイツ語版を経てキューリッツ=ルピーン荒地ドイツ語版にまで広がっている。なおキューリッツ=ルピーン荒地はドイツ駐留ソ連軍集団の演習場として利用された。都市はルピーナー・ラントドイツ語版内に位置する。

都市構成

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ノイルピーンには1993年の編入合併の結果、下記の地区、居住地区、住宅街が含まれる[4]

地区 居住地区・その他の住宅街
  • 旧牧羊場 (Alte Schäferei)
  • ニートヴェルダー支集落 (Ausbau Nietwerder)
  • ヴルコウ支集落 (Ausbau Wulkow)
  • ベヒリーンドイツ語版
  • ビーネンヴァルデ (Binenwalde)
  • ビルケンホーフ (Birkenhof)
  • ボルテンミューレ (Boltenmühle)
  • ビュルガーヴェンデマルク (Bürgerwendemark)
  • ビュートウ (Bütow)
  • ディータースドルフ (Dietershof)
  • クラウスハイデ休暇公園 (Ferienpark Klausheide)
  • フリストウ (Fristow)
  • ゲンツローデ (Gentzrode)
  • ギルデンハルドイツ語版
  • ハイデハウス (Heidehaus)
  • ヘルマンスホーフ (Hermannshof)
  • クンスターシュプリング (Kunsterspring)
  • リーツェ (Lietze)
  • ムージカージードルング (Musikersiedlung, 音楽家宅地)
  • ノイグリーニケ (Neuglienicke)
  • ノイミューレ (Neumühle)
  • パープストトゥーム (Pabstthum)
  • クヴェステ (Quäste)
  • ラーデホルスト (Radehorst)
  • レーゲルスドルフ (Rägelsdorf)
  • ラインスベルク=グリーニケ (Rheinsberg-Glienicke)
  • ローフヴィンケル (Roofwinkel)
  • ロットシュティール (Rottstiel)
  • ゼーホーフ (Seehof)
  • シュタインベルゲドイツ語版
  • シュテンデニッツ (Stendenitz)
  • シュテフィーン山 (Stöffiner Berg)
  • トルノウ (Tornow)
  • トレスコウ (Treskow)
  • ツェルミュッツェルドイツ語版
  • ツィペルスフェルデ (Zippelsförde)

歴史

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大火以前(1787年まで)

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1694年頃のノイルピーン

この地の先史時代の集落形成については、中石器時代から初期青銅器時代を経て、当初はゲルマン人、後にスラヴ人集落があり、場所はルピーン湖畔の旧市街地域、「新市場 (Neuer Markt)」や周辺地域であった。スラヴ人時代後期、この地域には Zamcici 族が定住し、アルト・ルピーン南方に浮かぶ島、ポッゲンヴェルダー (Poggenwerder) の城塞ドイツ語版に根拠地をおいた。1147年のヴェンド十字軍の後、アルブレヒト熊公らドイツ人領邦君主がこの地を征服すると、1214年からアルト=ルピーンのアムツヴェルダー (Amtswerder) スラヴ人城址付近に、大規模な低地城塞ドイツ語版、「プラーネンブルク (Planenburg)」が建設された。城塞の北側前面には市場集落 (Marktsiedlung) ができ、ニコライ教会 (Nikolaikirche) が建てられた。その東に隣接するリーン川対岸にできた「キーツ (Kietz, 地区)」がオルデン・ルピーン (Olden Ruppyn)、すなわちアルト・ルピーンドイツ語版である。

城塞の南西にも13世紀初頭からルピーン (Ruppin) という名をもつ集落が生まれた。これが今日のノイルピーンである。集落にはニコライ教会があり、芝生の共有地には街道市場 (Straßenmarkt) が設けられた。

その後当時のルピーン(現在のノイルピーン)は、リンドウ=ルピーン家ドイツ語版が計画的に新規建設した都市となった。

この伯爵家はアルンシュタイン家ドイツ語版に連なる家系で、アルト・ルピーンを統治していた。最初の記録は1238年に遡る。当初は市場権ドイツ語版による市場集落であったアルト・ルピーンは、1246年にこの地にドミニコ会の修道院が設立された頃には、今日のノイルピーンにまで広がっていたといわれている。修道院にとっては、エルベ川オーダー川の間で初となる支部であった。初代修道院長はヴィヒマン・フォン・アルンシュタインドイツ語版であった。1256年3月9日にはギュンター・フォン・アルンシュタインによって、シュテンダールドイツ語版法 (Stendaler Stadtrecht) に基づく都市権を与えられた。13世紀には都市の要塞化が、防禦柵、防塁・環濠方式を用い進められ、後に城壁、防塁・環濠方式になった。24か所の城壁組込型の番屋 (Wiekhaus) と2本の高い塔で都市壁は強化された。加えて門が3か所に設けられた。北側にはアルトルピーン門/ラインスベルク門 (Altruppiner/Rheinsberger Tor)、南側にはベルリン門/ベヒリーン門 (Berliner/Bechliner Tor)、東側には湖門 (Seetor) であった。遅くとも15世紀頃には都市を取り巻く城壁が完成した。

ノイルピーンで最古の地域は細長い緑地帯、すなわち南北都市門間を並走する2本の道路に挟まれた部分であり、その南には最古の教会、聖ニコライ教会がある。ノイルピーンの目抜き通りは16世紀中頃から舗装されている。 ノイルピーンを北西から湖に向かって横切るのは、ルピーナー・メッシェ (Ruppiner Mesche) を起点とする堀、クラップグラーベン (Klappgraben) であり、雑用水の供給、また排水に用いられた。1537年には一部が埋められ、1787年の大火後はシンケル通り (Schinkelstraße) に運河として再整備された。

ノイルピーンは中世には北東ドイツの大規模都市の一つになっていた。この時代のものには、例えば都市壁の一部、聖三位一体修道院教会 (Klosterkirche St. Trinitatis, 1246年)の一部、聖ゲオルク礼拝堂 (St. Georgs-Kapelle, 1362年)、診療院 (Siechenhospital, 1490年) と1491年に落成した聖ラツァルス礼拝堂 (St.-Lazarus-Kapelle)、湖畔地区の遺構がある。中世の市街の範囲は、ほぼ正方形の約700メートル四方であったが、東の隅はひしゃげた形状であった。東側と南東側の境界はルピーン湖畔にあった。

平和条約を記念し選帝侯ヨアヒム1世は1512年、ノイルピーンで3日間にわたる馬上槍試合を開催した。これは

当時、国中の話題をさらい、その見事なことといえば、いまだかつてベルリンにもシュプレー河畔のケルンドイツ語版にもなかったほどだった。
テオドール・フォンターネ、『マルク・ブランデンブルク周遊記』-第1巻:ルピーン伯領-第9章 [5]

リンドウ=ルピーン伯爵家が断絶すると、1524年にノイルピーンは選帝侯ヨアヒム1世の封土となった。三十年戦争ではノイルピーンも大きな被害を受け、1685年以降はフランス人ユグノーが移住してきた。

宗教改革が進むと、修道院の領地は1540年頃には選帝侯の手に渡った。1564年、選帝侯は都市に修道院を寄贈した[6]。この時代に起きたのが、修道院教会内に描かれる伝説である。小柄なハツカネズミが大柄なクマネズミを追い回すというもので、この教会が今後もルター派であり続けることを象徴的に暗示している[7]

記録に残るノイルピーン最古の学校は1365年のラテン語学校である。当時、非常に重要な教育機関であり、この地域にとどまらず広く知られていた。学校の歴史は1477年以来しっかりと記録が残されている[8]。1777年にフィリップ・ユリウス・リーバーキューンドイツ語版ヨハン・シュトゥーフェドイツ語版が学校運営を引き継ぐと、ヨハン・ベルンハルト・バゼドウの意図するところ改革され、この地域にとどまらず、多くの人々から広く注目された[6]

1688年、ノイルピーンはブランデンブルクで初の衛戍都市の一つになった。かのフリードリヒ大王も王太子時代にこの地に滞在した。逃亡に失敗し、キュストリーン要塞に幽閉された後、1732年から1740年まで王太子歩兵連隊ドイツ語版の主を務めた。なおベルンハルト・フェルトマンドイツ語版 が都市の勤務医になったのはこの時代である。彼が残した参事会文書の写しには、歴史的に興味深い文書が含まれ、今日では都市初期の歴史にとって最重要な文献集となっている。原本は1787年の大火で焼失してしまったためである。都市の人口は当時は3,500人であったが、これに対して軍人および部隊所属の民間人は時に1,500人に上った[9]。このような状況はドイツ駐留ソ連軍集団が撤退するまで続くことになる。

1740年からノイルピーンに工房を開いたオルガン製作者ゴットリープ・ショルツェドイツ語版は、なかでもラインスベルクドイツ語版のオルガンで名高い。

大火と再建(1787年-1803年)

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フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の記念碑

都市発展で重要な転機となったのは、1787年8月26日、日曜日の大火であった。火元はベルリン門近くの納屋で、大量の穀物を保管していた。当日午後の出火後、火は瞬く間に燃え広がった。被害を免れたのは、東部・西部の端の2か所のみだった。被害は合計、市民家屋が401棟、別棟・後屋が159棟、家畜小屋が228棟、納屋が38棟、そして聖マリア教区教会 (Pfarrkirche St. Marien)、参事会館、改革派教会、王太子宮殿が失われた[10]。死者は出なかった。被害金額はおよそ60万ターラーと算定された。火災保険から約22万ターラー、教会が集めた特別献金が6万ターラー、プロイセン王国政府は都市再建資金として13万ターラーを用立てた。プロイセンはその後数年間で合計100万ターラー以上を支出した。

ノイルピーン都市計画、1789年、ベルンハルト・マティアス・ブラッシュ

1783年から既に都市建築局長 (Stadtbaudirektor) の任にあったベルンハルト・マティアス・ブラッシュ (Bernhard Mattias Brasch) は、再建委員会の裁量範囲を変更し、都市再建を監督した。再建には1788年から1803年までかかったが、総合計画どおりに実施された。ブラッシュの計画では、テンペルガルテン (Tempelgarten, 神殿庭園) と湖の間にある都市壁を取り除き、都市を46ヘクタールから約61ヘクタールに拡大することを企図していた。南北方向の2本の通りは近接していたため、1本の幹線道路(今日のカール=マルクス通り)に集約された。こうして直交する街路網と、三階建てで通り抜け可能な家屋が立ち並ぶことになった。堂々たる広場に至る長大な広幅街路と初期新古典主義様式の家屋は、この時代の街のたたずまいの特徴である。この都市建築の改革原理は今日でもはっきりと見て取ることができる。こうして唯一無比の新古典主義様式の都市構成が誕生し、今日でも初期新古典主義の都市計画芸術の模範例となっている。再建が完了したのは1803年になってからであった。聖マリア教区教会(1801年から1806年にカール・ルートヴィヒ・エンゲルドイツ語版の参加を得て建設)の完成のみ、静力学上の問題から1806年までずれ込んだ。

再建から大合併まで(1804年-1993年)

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ノイルピーンのビルダーボーゲンドイツ語版(一枚絵)、手彩色、1850年

ヨハン・ベルンハルト・キューン (Johann Bernhard Kühn) が1750年にノイルピーンで始めたのが、ビルダーボーゲン (Bilderbogen, 一枚絵[11]) の生産であった。テーマに沿った一枚刷り印刷物で、色付けは長年、手作業であった。息子のグスタフ・キューンドイツ語版(1794年-1868年)の時代には、一部では発行部数が年間300万部に達した(1870年-1871年の普仏戦争図案)。銘版には「ノイ=ルピーン、グスタフ・キューン謹製 (Neu-Ruppin, zu haben bei Gustav Kühn)」とあり、世界中で有名になった。この他にもフィリップ・エーミクケおよびヘルマン・リームシュナイダー (Philipp Oehmigke und Hermann Riemschneider) とフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルゲマン (Friedrich Wilhelm Bergemann) がビルダーボーゲンを生産していた。これら3社は同業者が当時全ドイツで60社以上もある中、長く不動の地位を保った。

1877年、オルガン製作者のアルベルト・ホレンバッハドイツ語版 がノイルピーンに工房を構えた。彼の手がけたオルガンには、ベヒリーン、ブースコウ、カルヴェ、ニートヴェルダー、シュトルベックの各地区の教会、ノイルピーン旧市街の病院礼拝所 (Siechenhauskapelle) などがある。

1880年の後、ノイルピーンは鉄道支線網の中心地であり、1945年までルピーン鉄道ドイツ語版株式会社の運営であった。鉄道網はフェーアベリーン-パウリーネンアウエドイツ語版(1880年)、クレンメン-ベルリンとヴィットシュトック-マイエンブルクドイツ語版(1899年)、ノイシュタット-ヘルツベルク線ドイツ語版 (1905年)が放射状に延びていた。

1893年には、中心市街地の南端に州立ノイルピーン癲狂院 (Landesirrenanstalt Neuruppin) が設立された。

1905年からノイルピーンでは消火器が生産されている。特にミニマックスドイツ語版社の消火器は、取り扱いが容易ですぐに広まった。

第一次世界大戦中、一個飛行中隊がノイルピーンに駐屯し、飛行場が建設された[9]

1921年、建築家兼住宅地設計専門家ゲオルク・ハイアードイツ語版(1880年-1944年) がギルデンハルドイツ語版 地区にフライラントジードルング (Freilandsiedlung, 「緑野の住宅地」) を建設した。その目的は芸術家や美術工芸家が共に住まい、共に働くべく集い、日常用品を誰もが手にできる価格の美術工芸品として共に創作、生産するためであった。著名な芸術家や美術工芸家が集まり、1929年まで存続した。

ノイルピーンの緊急通貨、都市が図案、1923年

1926年には鉄道築堤に並行し、ルピーン湖を渡る道路が完成した。こうして「ギルデンハル」と「コロニー・ヴーテノウ (Kolonie Wuthenow)」の両住宅地はノイルピーンと直接結ばれた。1929年、両住宅地はノイルピーンに編入された。また前年の1928年には「トレスコウ領地区域」(Gutsbezirk Tresckow) が編入されていた[9]

ナチ党の権力掌握後の1933年6月、政敵とされた80人以上もの人々、とりわけ社会民主党員ユダヤ人共産党員が、ナチ党突撃隊の運営する暫定収容施設に連行された。この建物は操業停止となっていた醸造所で、アルトルピーナー・アレー (Altruppiner Allee) にあった。囚人の多くが突撃隊員から拷問、または虐待を受けた。なお犠牲者を追憶するため、ソ連軍占領時代の1947年に記念碑が、また後の1981年には東ドイツ支配政党、社会主義統一党地区指導部の指令により一連の彫像が作られた。なお彫像が立つのは学校広場 (Schulplatz) で、以前の追悼碑を建て替えたものである。

1934年、軍のノイルピーン飛行場は「ノイルピーン飛行学校 (Fliegerschule Neuruppin)」として復活した。

ユダヤ系市民は約90名がナチス時代に迫害、追放、殺害された。1824年に開設したユダヤ人墓地、旧墓地 (Alter Friedhof) は、それにもかかわらず寛大に扱われた。墓碑は破壊を免れ、ドイツ国防軍の当時の連隊長パウル・フォン・ハーゼの命により、新墓地(プロテスタント墓地)に移された。2003年11月17日にストルパーシュタイン(つまずきの石)が中心市街地とアルト=ルピーンに置かれ、殺害されたユダヤ人市民を追憶している。

ナチス・ドイツのいわゆる安楽死措置、T4作戦に際し、州立ノイルピーン癲狂院はブランデンブルク殺害施設ドイツ語版ベルンブルク殺害施設ドイツ語版への中継施設となった。そのため患者数は1937年1月1日の1,971名から、1940年4月1日には4,197名に増加した。1941年には定員1,797名に対し、患者は1,147名であった。1943年、患者の大部分は、非空襲地域で病床確保を図るブラント作戦ドイツ語版のため他施設に移送された[12]。病院の一部は予備軍病院として使用された。1945年以降、施設の一部は地区病院となった。2004年9月20日にルピーン総合病院 (Ruppiner Kliniken) の敷地に、つまずきの石ドイツ語版が6つ設置され、旧州立癲狂院の「安楽死」犠牲者を象徴している[13]

1945年5月1日にソ連赤軍はノイルピーンに達し、対岸から街に向け砲撃を準備していた。しかし幸い何者かが修道院教会の塔に白旗を掲げ、そして教区教会もこれに倣った。こうして都市は破壊を免れた[14]

ドイツ駐留ソ連軍集団は中心市街地のすぐ北の軍飛行場を使用し、市内に大きな騒音公害をもたらした。1989年には市民が大規模なデモを行い、飛行場を閉鎖する代わりにヴィットシュトック演習場ドイツ語版を存続するという計画に抗議した。

1950年頃まで中心部には「新劇場 (Die neue Bühne)」 という劇場があった。州ドイツ民衆劇場連盟 (Landesverband der Deutschen Volksbühne) が運営し、最高で95名が従事していた[15]

1951年、ノイルピーンに電気物理製作所 (Elektro-Physikalischen Werkstätten) が設立され、電子部品を生産した。これらは1970年から電気物理工業 (Elektro-Physikalische Werke, EPW) として東ドイツ最大のプリント基板生産工場となり、従業員は3,500名にまで増大した。

1952年、ノイルピーンは東ドイツ政府の郡域改革により、ポツダム県ノイルピーン郡ドイツ語版の郡庁所在地になった。

1990年にブランデンブルク州が新設されると、ノイルピーン郡は当面存続することとされた。

1993年大合併後のノイルピーン

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個々の編入地区の歴史は個別記事を参照。本節では都市全体、特に中心部の歴史のみを扱う。
ルピーン総合病院 (Ruppiner Kliniken) 1号館

郡の再編が1993年12月6日に実施され、ノイルピーン郡は新設のオストプリーグニッツ=ルピーン郡に吸収された。同日ノイルピーンは都市アルト・ルピーン、また自治体であるブースコウ、グネーヴィコウ、ギューレン=グリーニッケ、カルヴェ、クランゲン、リヒテンベルク、モルヒョウ、ニートヴェルダー、ラーデンスレーベン、シュテフィーン、ヴルコウ、ヴーテノウを合併し、大幅に拡大した。

1991年までノイルピーンにはソ連軍第12戦車師団が駐屯していた。兵舎は後に2000年のハノーファー万国博覧会の外部プロジェクトとして住宅に改装された。飛行場の一部はグライダー滑空場として利用されている。

1996年には当時の州立ノイルピーン総合病院 (Landesklinik Neuruppin) と地区病院であるルピーン病院 (Ruppiner Krankenhaus) が共に、オストプリーグニッツ=ルピーン郡によるルピーン総合病院有限会社 (Ruppiner Kliniken GmbH) に移管された。ルピーン総合病院は地域最大の雇用主の一つである[16]

福音派のルピーン教区とヴィットシュトック/ドッセドイツ語版教区が1998年に合併すると、ノイルピーン教会地区長ドイツ語版は廃止され、ヴィットシュトック/ドッセが担当している。

2001年1月1日に検察は、東ドイツ不法行為対策部および地区刑事部 (Abteilung für DDR-Unrecht und Bezirkskriminalität) を改組し、汚職特別捜査部 (Schwerpunktstaatsanwaltschaft für Korruption) を設置し、ブランデンブルク州全体の汚職事件を担当している[17][18]

2002年9月7日、第7回「ブランデンブルクの日 (Brandenburgtag)」が約23万の訪問者を集め開催された。ザクセン州を襲った2002年エルベ川洪水ドイツ語版に際し、数多くのアーティスト、ウード・リンデンベルクドイツ語版ゲルハルト・シェーネドイツ語版らが被災者のために報酬を寄付した[19]

2009年5月、ルピーン湖ドイツ語版畔の開発区域の地下水が有機ハロゲン化合物で汚染されていたことが初めて公表された。管轄の環境当局であるオストプリーグニッツ=ルピーン郡が認めたことだが、この環境汚染は以前にも別件の建設計画時で検出され、1999年から既知の事実であったという[20]

ノイルピーン塩化物泉温泉 (Thermalsole Neuruppin) はヨウ素を含み、2011年5月12日に療養泉 (Heilquelle) として国家から認定を受けた。これはブランデンブルク州内で初の認定であった。

塩化物泉温泉は、旧市街近くのフォンターネ・テルメ (Fontane-Therme) で健康促進に、また暖房に利用されている。

テオドール・フォンターネの顕彰と記念

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1994年、テオドール・フォンターネ生誕175周年を記念し、ノイルピーン・フォンターネ賞ドイツ語版 が創設された。

1998年にノイルピーンは、テオドール・フォンターネ没後100周年を記念し「フォンターネ年 (Fontanejahr)」を開催し、州全体で約200件の催事を挙行した。この企画を創設したノイルピーンは、「フォンターネシュタット (Fontanestadt)」を都市名に添えることになった[21]

2010年から2年ごとに五旬節の期間中、フォンターネ記念祭ドイツ語版を開催している。

汚職対策

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2004年以来、ノイルピーンは汚職事件や縁故癒着で紙面を賑わせてきた。こういった地方政治の不祥事が重なり、事件の検証が進むと、人々からは「マルク地方パレルモ (Märkisches Palermo)」、「小パレルモ (Klein Palermo)[22]」、果ては汚職 (= Korruption) と掛けた「コルピーン (Korruppin)」などと揶揄された[23][24]

オーラフ・カームラート (Olaf Kamrath) 元市議会議員 (CDU) は、2006年にXYギャングドイツ語版の「ヘッド」として特に組織的薬物犯罪の廉で長期の懲役刑判決を受け、確定した[23]

ラインハルト・ゾンマーフェルト (Reinhard Sommerfeld) 元市議会議員(ノイルピーン市民運動、Neuruppiner Initiative)は、現在まででドイツで唯一、代議士贈収賄罪で有罪が確定した代議士である[25]

オットー・テールドイツ語版元州議会議員 (Die Linke) は2008年5月15日、市長在任中の不当利得の廉で懲役9か月の執行猶予付き判決を受けた。判決後、州議会議員を辞職した[26]

2008年9月にはオストプリーグニッツ=ルピーン貯蓄銀行の前最高経営責任者ヨーゼフ・マルクホフ (Josef Marckhoff) を解任した。理由は、自分の60歳の誕生日パーティーに銀行から5万5,000ユーロを支出させたためであった。なおこの日は銀行創設160周年記念日でもあった[23]

ノイルピーン都市施設局の元理事長ディートマール・レンツ (Dietmar Lenz) は、監査会を通さず50万ユーロ以上をスポーツ団体MSVノイルピーンドイツ語版支援のため支出したとの批判を受け、2009年3月19日に重大な背任行為と不当利得の廉で自由刑2年の執行猶予付き判決を受けたが、同年末に自殺した[27]。ここで市民運動が結成され、有罪判決を受けたオットー・テールとラインハルト・ゾンマーフェルトの支援を受け、イェンス=ペーター・ゴルデドイツ語版市長の解任を求める活動を始めた。市民運動「このままじゃダメだ!(Kein weiter so!)」はゴルデを指導力不足、選挙公約不履行、都市の雇用を危険にさらしたとして非難した。しかし2010年2月に解任請求は不成立となった。必要票数、5,300票に対し、主催者側発表で5,079票しか得票できなかったためである[24][28]

「ノイルピーンはこれからもカラフル (Neuruppin bleibt bunt)」

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2007年9月1日に極右団体がノイルピーンの中心部でデモを計画すると、これに先立ち超党派の行動連合「ノイルピーンはこれからもカラフル (Neuruppin bleibt bunt)」が結成され、対抗企画を組織し約1,000名の参加者があった[29][30]。極右団体が再びデモを計画すると、2009年9月5日に行動連合の企画で、一連の市民的勇気ドイツ語版活動がデモの経路に沿って行われた[31]。2010年3月27日に「ノイルピーンはこれからもカラフル」は、極右団体「ノイルピーン自由勢力 (Freie Kräfte Neuruppin)」が350人でデモ行進に出ると、民主祭り「とっておきの民主主義 (Demokratie im Quadrat)」を組織し、2,000名が参加した[32]。2011年6月6日に活動連合の業績に対し、「勇気と理解のためのきずな (Band für Mut und Verständigung)」賞を受賞した。2011年11月、「ノイルピーンはこれからもカラフル」が市の意思に反し抗議する中、極右政党ドイツ国家民主党の党大会がノイルピーンで開催された[33]

政治

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人口動態

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詳細なデータ出典は、Wikimedia Commons[34]

ノイルピーン:
今日の領域の人口動態
[35]
人口
1875 20080
1890 21912
1925 26640
1933 29044
1939 33090
1946 37904
1950 36677
1964 31422
1971 31283
1981 33042
人口
1985 33989
1989 34176
1990 34014
1991 33324
1992 33349
1993 33249
1994 33049
1995 32795
1996 32817
1997 32744
人口
1998 32732
1999 32640
2000 32598
2001 32375
2002 32317
2003 32114
2004 32061
2005 32145
2006 31939
2007 31821
人口
2008 31662
2009 31574
2010 31599
2011 30184
2012 30162
ノイルピーン市庁舎

市長

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都市改革以前

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  • 1786年頃:ゲーリング (Goering)[10]
  • 1810年-1816年:ブラウン博士 (Dr. Braun)[9]
  • 1816年-1822年:バルタザール・フリードリヒ・クネーフェンフォーゲル (Balthasar Friedrich Knoevenvogel)
  • 1822年-1851年:エルンスト・アドルフ・ビーネングレーバー (Ernst Adolph Bienengräber)
  • 1851年-1888年:Ch. L. G.フォン・シュルツ (Ch. L. G. von Schulz)
  • 1889年-1899年:アドルフ・トレンクマンドイツ語版
  • 1899年-1923年:マックス・ヴァルツェハ (Max Warzecha)
  • 1923年-1933年:エルンスト・ブリューメル (Ernst Blümel)
  • 1934年-1945年:クルト・クリューガードイツ語版
  • 1945年:ラインホルト・マイアー (Reinhold Meyer)[6]
  • 1945年:カール・ホーホシュテット (Karl Hochstädt)
  • 1945年:ヘルマン・フーフ (Hermann Huch)
  • 1945年-1946年:リヒャルト・シュルツ (Richard Schulz)
  • 1946年-1948年:トルーデ・マルクス (Trude Marx)[36]
  • 1948年-1949年:H. シュルツ (H. Schulz)[6]
  • 1949年-1951年:ヨーゼフ・ロビーネ (Joseph Robiné)
  • 1951年-1953年:オットー・ヘルムス (Otto Herms)
  • 1954年-?年:マックス・ハルトマン (Max Hartmann)
  • 1957年-1965年:ブルーノ・ザルヴァート (Bruno Salvat)
  • 1965年-1970年:ギュンター・ヴァイクト (Günter Weigt)
  • 1970年-1978年:ゲルト・ホールフェルト (Gerd Hohlfeld)
  • 1978年-1988年:ハラルト・レムケ (Harald Lemke)
  • 1988年-1990年:ライナー・フランク (Rainer Frank)
  • 1990年-1991年:ジルケ・ブリングマン (Silke Bringmann)
  • 1991年-1994年:ヨアヒム・ツィンドラー (Joachim Zindler)

1993年大合併以降

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市議会

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2008年9月28日の地方選挙による全32議席の議席配分は以下の通り[37]

政党 議席
SPD 9
DIE LINKE ノイルピーン市民運動 (Neuruppiner Initiative) 8
CDU / FDP 6
B90/Grüne/オストプリーグニッツ=ルピーン郡農民連盟有権者連合 (Wählergruppe des Kreisbauernverbandes Ostprignitz-Ruppin) 5
社団法人 ルピーンのために (Pro Ruppin e.V.) 4

紋章

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ノイルピーン都市条例第2条第1項並びに第2項[38]に規定がある。

「本市は1928年6月22日のプロイセン国務省ドイツ語版証書により、紋章を導入する権利を与えられた。」

この紋章は2003年3月31日に承認された。

紋章記述:紋章は「青地に銀色の城塞があり、鋸壁のある三階建ての2本の塔にはそれぞれ上下階ごとに黒い門、赤い屋根には金色の頂部がつく。建物中央には小塔が3つと黒い門があり、金色の嘴、爪、舌をもつ銀色の鷲が乗る赤い三角盾が覆う[39]。」

姉妹都市

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ノイルピーンは以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる[40]

文化・名所

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詳細はノイルピーンの建築記念物一覧ドイツ語版を参照。

建築物

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宗教建築

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クヴァスト家ドイツ語版の墓地、2007年修復

世俗建築

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テンペルガルテンの邸宅

記念碑

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教会広場 (Kirchplatz) のシンケル記念碑、マックス・ヴィーゼドイツ語版

野外彫刻

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博物館

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文化施設

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文化教会・聖マリア教区教会
  • クンスターシュプリング地区のふるさと動物公園 (Heimattierpark Neuruppin):めずらしいタヌキを飼育
  • 文化教会:旧聖マリア教区教会を利用した広域催事施設、ノイルピーン地区、全600席
  • ノイルピーン街の庭文化会館 (Kulturhaus Stadtgarten Neuruppin):広域催事施設、全550席
  • 診療所礼拝堂 (Siechenhauskapelle):演奏会場、春分音楽祭 (Aequinox Musiktage) 会場
  • 波止場の絵画館 (Galerie am Bollwerk):現代美術振興協会 (Galerieverein zur Förderung zeitgenössischer Kunst)
  • ノイルピーン演劇本舗 (Theaterladen Neuruppin):波止場の絵画館内
  • ノイルピーン市立図書館
  • ノイルピーン青少年芸術学校 (Jugendkunstschule Neuruppin):児童、青少年文化施設
  • オストプリーグニッツ=ルピーン郡音楽学校 (Kreismusikschule OPR)
  • 青少年余暇センター (Jugendfreizeitzentrum, JFZ):若年成人のための集会場
  • ノイミューレ穀物倉庫 (Kornspeicher Neumühle):演奏会場
  • ノイルピーン・ウニオン映画館 (Union Kino Neuruppin)

定例催事

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  • 春分音楽祭(毎年3月の春分前日に開催)
  • ディキシー祭(毎年7月中旬)
  • ノイルピーン・フォンターネ祭(隔年)
  • フォンターネ・ラリー(毎年春)
  • ボート・パレード(8月第1土曜日、アルト・ルピーンのリーン川で開催)
  • 港祭り(兼五月祭、毎年5月最初の週末、ドラゴンボート競技が見もの)
  • 聖マルティヌスの日の季節市と馬のセリ市(毎年11月初旬)
  • オールディーズ・バザール(毎年11月)
  • 抗癌ボート大会(毎年9月)
  • ルピーン・ヨットレース(毎年7月中)
  • クリスマス市(毎年第一待降節前)
  • ワイン祭り(毎年8月中旬)

経済とインフラ

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ノイルピーンはブランデンブルク州中規模中心地ドイツ語版に区分されている[47]経済拠点ドイツ語版としてブランデンブルク州に15ある地域成長拠点ドイツ語版の一つである。

交通

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ノイルピーン・ラインスベルク門駅 (Neuruppin Rheinsberger Tor)

ノイルピーンは鉄道線、クレメン-マイエンブルク線ドイツ語版の沿線にあり、市内にはノイルピーン西駅、ノイルピーン・ラインスベルク門駅ドイツ語版ヴストラウ-ラーデンスレーベン駅ドイツ語版がある。RE6号線(プリーグニッツ急行ドイツ語版)が1時間に1本、ベルリン=ゲズントブルンネン駅からヘニヒスドルフ(バイ・ベルリン)駅ドイツ語版、ノイルピーンを経由し、ヴィッテンベルゲ駅ドイツ語版に走っている。現在、自治体主導の物流センター建設プロジェクト、「HUB 53/12°」が進行中である。ギュストロウドイツ語版プリッツヴァルクドイツ語版、ノイルピーン、また自治体連合のクローバー連合ドイツ語版グムトウドイツ語版キューリッツドイツ語版ノイシュタット (ドッセ)ドイツ語版ヴスターハウゼン/ドッセドイツ語版)が参加している[48][49]。プロジェクト開始に当たり、ノイルピーン-ノイシュタット (ドッセ) 線ドイツ語版が2010年12月29日に買収された。

道路では、連邦自動車道路24号線が通り、ノイルピーン出口、ノイルピーン南出口が設けられている。連邦道路167号線ドイツ語版連邦道路122号線ドイツ語版が市街地を通っている。

ノイルピーンとその周辺には、観光にも便利な自転車道路ドイツ語版が整備されている。

ノイルピーンはフェーアベリーンドイツ語版飛行場(ルピーナー・ラント飛行場ドイツ語版)の運営に参画している。また市街地、中心部北西にはグライダー滑空場がある。

所在企業

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Jetcar 2.5

1905年にノイルピーンにミニマックスドイツ語版社が拠点を移し、消火器を生産した。1945年にノイルピーン工場が没収されたため、同社は西ドイツに移転した。しかし消火器の生産自体は継続され、後にノイルピーン消火器具販売有限会社 (FLN Feuerlöschgeräte Neuruppin Vertriebs-GmbH) が設立された。

ニートヴェルダー地区では Jetcarドイツ語版 社が同名の自動車を生産している。

公共施設

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ノイルピーンには、オストプリーグニッツ=ルピーン郡の行政機関が置かれている。またノイルピーン地方裁判所ドイツ語版ノイルピーン区裁判所ドイツ語版ノイルピーン社会裁判所ドイツ語版ノイルピーン労働裁判所ドイツ語版がある。

オストプリーグニッツ=ルピーン郡は選択自治体ドイツ語版であるため、労働エージェンシードイツ語版の他に、第2種失業給付金ドイツ語版のための労働市場局 (Amt für Arbeitsmarkt) が置かれ、また州西部を管轄する州労働保護局 (Landesamt für Arbeitsschutz) がある。かつての郡防衛補充事務所ドイツ語版は義務兵役制中止の結果、ノイルピーン兵役相談所ドイツ語版へ改組された。

ノイルピーン州機関合同庁舎 (Landesbehördenzentrum) には様々な行政機関が入居している。ノイルピーン特別建設監督局 (Sonderbauleitung Neuruppin)、州消費者保護・農業・耕地整理局出張所 (Regionalstelle des Landesamtes für Verbraucherschutz, Landwirtschaft und Flurneuordnung)、耕地整理・田園開発局 (Amt für Flurneuordnung und ländliche Entwicklung)、ノイルピーン社会裁判所、州労働保護局ドイツ語版ブランデンブルク州環境局ドイツ語版地方西部地域および西部TR2部である。アルト・ルピーン営林局 (Amt für Forstwirtschaft) とクンスターシュプリング林業学校 (Waldarbeitsschule Kunsterspring) がある。

また連邦資産公団ドイツ語版の連邦森林部 (Sparte Bundesforst) のルピーン荒地総局 (Hauptstelle Ruppiner Heide)が置かれている。

メディア

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ノイルピーンには日刊紙『ルピーン新報ドイツ語版』と『マルク一般新聞ドイツ語版』の地方版がある。ケーブルテレビで地域テレビ局「ruppin TV」が地域ニュースを放送している。

教育

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ノイルピーンには以下の教育機関がある[50]

特別支援学校

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小学校

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職業訓練校

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  • AGUS/GADAT職業訓練校(AGUS/GADAT職業訓練校公益有限会社 (AGUS/GADAT Berufliche Schulen gGmbH) 運営)
  • ノイルピーン国際同盟ドイツ語版職業訓練校(公認代替校)

その他の教育機関

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  • オストプリーグニッツ=ルピーン郡立オストプリーグニッツ=ルピーン市民大学
  • オストプリーグニッツ=ルピーン郡音楽学校
  • フォンターネシュタット・ノイルピーン市立青年芸術学校
  • アルト・ルピーン営林局クンスターシュプリング林業学校
  • ノイルピーン・キャンパス、中小企業管理・健康管理調査研究センター、学士号プログラム

スポーツ

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市内に広い水域があるためウォータースポーツが盛んである。全国のサッカークラブ、MSVノイルピーンドイツ語版はこの地方にとどまらず有名である。

人物

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名誉市民

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ノイルピーンは名誉市民の称号を「フォンターネシュタット・ノイルピーンが特に高く評価する、抜きんでた功績のある市民[51]」に授与している。

これまでの授与者は以下の通り。

  • アウグスト・クリスティアン・ゲーリング(August Christian Goehring, 1730年-1835年)
  • ヨハン・ゲオルク・ゴットリープ・シュレーナー(Johann Georg Gottlieb Schroener, 1760年-1841年)、教会地区長ドイツ語版[52]
  • アレクサンダー・フォン・ヴルフェン(Alexander von Wulffen, 1784年-1861年)、将軍、衛戍地司令官、美化協会 (Verschönerungsverein) の創設者、1852年授与[9]
  • エルンスト・アドルフ・ビーネングレーバー(Ernst Adolph Bienengräber, 1790年-1864年)、市長、1822年-1854年在任
  • フリードリヒ・ハインリヒ・ケムプフ(Friedrich Heinrich Kämpf, 1810-1888年)
  • ハインリヒ・ミヒャエリス(Heinrich Michaelis, 1835年-1922年)、市議会議長、1880年-1893年在任
  • アルベルト・フォン・ツィーテン=シュヴェリーン伯爵ドイツ語版(1835年-1922年)、政治家
  • マックス・ヴィーゼドイツ語版教授(1846年-1925年)、彫刻家、ハーナウ芸術アカデミー教授
  • ヘルマン・シュルツェ(Hermann Schultze, 1848年-1938年)、市議会議長、1899年-1920年在任[9]
  • オットー・ルーベル(Otto Rubel, 1902年-1994年)
  • リーザ・リーデル (Lisa Riedel)、郷土博物館館長
  • ハインツ=ヨアヒム・カーラウ (Heinz-Joachim Karau)、牧師、1989年10月10日からの修道院教会の平和の祈り、並びに教区教会の支援団体の共同発起人、2006年に授与[53]
  • ブルクハルト・ドゥルファー(Burkhard Dülfer, 1937年-2013年)、精肉マイスター手工業会議所ドイツ語版 に貢献、長年にわたり市議会・郡議会議員を務める、2006年授与[53]

旧名誉市民(称号剥奪)

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全てナチスがらみである(ヒンデンブルクは死後にヒトラーの支配を許してしまったため)。

最高齢者表彰

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ノイルピーンは最高齢者の称号を授与している。

  • クリスティアン・エベル(Christian Ebell, *1770年、1835年†)
  • カール・トゥルノー(Carl Tourneau, *1837年、1914年†)
  • エルンスト・ベルケ(Ernst Bölke, *1848年、1920年†)
  • フーゴ・ドゥスケ(Hugo Duske, *1860年、1928年†)

顕彰メダル

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ノイルピーンは2005年からフォンターネシュタット・ノイルピーン顕彰メダル (Ehrenmedaille der Fontanestadt Neuruppin) を「フォンターネシュタット・ノイルピーンと住民への格段の功績を讃えるため[51]」に授与している。

これまでの受賞者は以下である。

  • ルート・プロイス(Ruth Preuß, 2005年9月12日)[54]
  • ブルーノ・ドラトキエヴィッチュ(Bruno Dolatkiewicz , 2005年9月12日)[54]
  • マルティン・ドムケ(Martin Domke, 2005年9月12日)福音教会の聖歌隊長[54]
  • ギュンター・ゾースト(Günter Soost, 2005年9月12日)[54]
  • ヘルムート・ベーレント(Helmut Behrendt, 2005年9月12日)[54]
  • ウルリヒ・クリーレ(Ulrich Kriele, 2009年7月13日)アルト・ルピーン郷土史研究家[55]
  • ノルベルト・アルント(Norbert Arndt, 2010年9月27日)ノイルピーン福音派墓地管理人[56]

出身者

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テオドール・フォンターネ記念碑、フォンターネ広場、マックス・ヴィーゼ作
学校広場のグスタフ・キューンドイツ語版記念碑

ゆかりの人物

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ノイルピーンを舞台にした文学作品

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修道院初代院長のヴィヒマン・フォン・アルンシュタインドイツ語版は多くの奇跡を起こしたといわれている

気候

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ノイルピーンの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 1.7
(35.1)
3.5
(38.3)
8.1
(46.6)
13.5
(56.3)
19.1
(66.4)
22.4
(72.3)
23.6
(74.5)
23.4
(74.1)
19.2
(66.6)
13.7
(56.7)
7.1
(44.8)
3.0
(37.4)
13.19
(55.76)
平均最低気温 °C°F −3.4
(25.9)
−2.7
(27.1)
0.0
(32)
3.4
(38.1)
8.0
(46.4)
11.5
(52.7)
13.0
(55.4)
12.7
(54.9)
9.8
(49.6)
6.0
(42.8)
1.7
(35.1)
−1.7
(28.9)
4.86
(40.74)
降水量 mm (inch) 44
(1.73)
38
(1.5)
38
(1.5)
44
(1.73)
56
(2.2)
69
(2.72)
52
(2.05)
60
(2.36)
46
(1.81)
36
(1.42)
47
(1.85)
55
(2.17)
585
(23.04)
平均降水日数 10 9 8 9 8 9 10 9 8 8 9 9 106
湿度 88 84 77 71 69 71 71 73 79 84 86 89 78.5
平均月間日照時間 1.1 2.2 3.7 5.2 7.3 7.3 7.1 6.9 4.9 3.1 1.3 0.9 51
出典:wetterkontor.de

出典

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翻訳元ドイツ語版に記載のものであり、日本語翻訳の際に直接参照していない。

  1. ^ Bevölkerungsentwicklung und Flächen der kreisfreien Städte, Landkreise und Gemeinden im Land Brandenburg 2021 (Fortgeschriebene amtliche Einwohnerzahlen, bezogen auf den aktuellen Gebietsstand)
  2. ^ Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 580. ISBN 978-3-411-04066-7 
  3. ^ Verleihung der Zusatzbezeichnung Fontanestadt. Bekanntmachung des Ministeriums des Innern vom 11. März 1998. Amtsblatt für Brandenburg Gemeinsames Ministerialblatt für das Land Brandenburg, 9. Jahrgang, Nummer 13, 9. April 1998, S. 407.
  4. ^ Ministerium des Innern des Landes Brandenburg (Dienstleistungsportal der Landesverwaltung): Kommunen > Landkreis Ostprignitz-Ruppin > Stadt Neuruppin, Gebietsstand: 1. Januar 2009, gesehen 30. Dezember 2009.
  5. ^ Günter Rieger (2012年2月18日). “Kurfürst Brandenburg gab 1512 zur Feier eines Friedensvertrages ein Ritterturnier / Neuruppin wurde Austragungsort”. MAZ. 2012年2月23日閲覧。
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  7. ^ Theodor Fontane (1892-03-09). Projekt Gutenberg “Neuruppin - 1. Ein Gang durch die Stadt. Die Klosterkirche.”. Wanderungen durch die Mark Brandenburg - Erster Teil: Die Grafschaft Ruppin. Berlin. http://gutenberg.spiegel.de/buch/4452/9 Projekt Gutenberg 2011年4月24日閲覧。 
  8. ^ Heinrich Begemann: Die Lehrer der Lateinischen Schule zu Neuruppin 1477 - 1817. Beilage zum Jahresbericht Friedrich-Wilhelms-Gymnasium zu Neuruppin, Neuruppin, 1914
  9. ^ a b c d e f Johannes Schultze (1995). Geschichte der Stadt Neuruppin / von Johannes Schultze. Berlin: Stapp. ISBN 3-87776-931-4 
  10. ^ a b Mario Alexander Zadow (2001). Karl Friedrich Schinkel - Ein Sohn der Spätaufklärung. Stuttgart/London: Edition Axel Menges. ISBN 3-932565-23-1 
  11. ^ ノイルピーン・ビルダーボーゲン” (PDF). 関西大学人権問題研究室室報 第46号 (2011年1月10日). 2014年2月24日閲覧。[リンク切れ]
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  15. ^ Markus Kluge: Altes Neuruppiner Theater wird erforscht und Eine Theatergeschichte ohne Happy End, in: Ruppiner Anzeiger vom 26. April 2013
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  18. ^ Ruppiner Anzeiger vom 25. Januar 2011
  19. ^ Brandenburg Tag: Der traditionelle Brandenburg-Tag, gesehen 28. Februar 2010.
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  56. ^ Amtsblatt für die Fontanestadt Neuruppin Nr. 6 - 20. Jahrgang, 20. Oktober 2010 (PDF; 1,2 MB)
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外部リンク

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