ノート:上杉景勝

上田長尾家の家督について、謙信の項では景虎が当主であった府中長尾家は「上杉宗家に吸収」となっていますが、景勝の項では顕景が当主であった上田長尾家は「断絶」になっています。両者とも(府中・上田)長尾家当主でありながら主家である山内上杉家に養子に入り山内上杉家当主となったという点において同じだと思うのですが、この違いは何でしょうか。どちらかに合わせるべきではないでしょうか?--Agira 2008年10月24日 (金) 15:11 (UTC)[返信]

降伏命令・降伏強要の記述に関して、既に編集合戦になっていますが、議論したほうが良いのでは?自分の意見としては、上下関係が有るわけではないので「命令」は間違い、「強要」は投降を促す際にはやや不自然な表現と感じます。ここは「降伏勧告」が一番スタンダードではないかと思いますがどうでしょう?--左近衛少将 2008年7月1日 (火) 14:33 (UTC)[返信]

そうですね。「降伏の強要」という文章が日本語としてどうにも意味が分かりかねたので、攻められ景勝方に屈服するか自死しかない状況なら命令の方がまだ意味が通るかと思い、降伏命令と書かれた以前の文章に戻しましたが、降伏勧告と書いたほうが適当でしょうか。--Agira 2008年7月3日 (木) 14:24 (UTC)[返信]

お二方の御意見には賛成ですが、ただ、景虎室が御館で自害したということは定説として扱ってよいのでしょうか。華渓院の項目に書いておいたのですが、没日からいえば景虎と一緒なので、鮫ヶ尾城で自害した可能性の方が高いと思うのですが。確か御館の落城は3月17日ではなかったでしょうか。なお、景虎室(華渓正春大禅定尼)の没日に関しては、「天正7年10月14日」という記録も見たことがあります。これが正しければ御館の乱以後に死去したことになります。ただ、これは林泉寺の過去帳を昭和2年に写したものを、そのまた写したものだったので、もしかしたら誤記かもしれません。本物の過去帳で確認すればはっきりすると思いますが。--Thomo 2008年7月18日 (金) 21:48 (UTC) (すみません。誤字を訂正しました。)--Thomo 2008年7月20日 (日) 03:40 (UTC)[返信]

上杉景勝関連の項目に対して、どうも悪意のある視点での書き換えが目立つ気がするのですが・・・ 確かにそういう見方もある、というのはわかりますが、風聞や俗説からの引用も多いですし、見ていてちょっとおっかないのでもう少しソフトにして頂きたいのですが。ご本人さん、ご覧になってましたらよろしくお願いします。ダメって言ってるわけじゃないので。Rm21 2007年8月28日 (火) 15:34 ※編集履歴により署名追加。--218.216.157.82 2008年5月14日 (水) 16:42 (UTC)[返信]

景勝が「無類の男色家で美少年を侍らせていた」という記述がありましたが、景勝自身男色禁止令を発布しています。ですので、どこぞの俗書からの引用かしりませんが、そういった低俗な説は削除させて頂きました。--219.178.188.47 2007年9月2日 (日) 01:01 ※編集履歴により署名追加。--218.216.157.82 2008年5月14日 (水) 16:42 (UTC)[返信]
書き込んでる方は、景勝を男色家として強調させたい意図が見えますが、証拠になる記事は江戸の軍記物のみ。史料からは確認できません。当方は、文献を20年掛けて調べてますが、そのような事実はありません。三重年表の解釈も貴方の個人的解釈に過ぎないので、元の文章に戻させて頂きます。--219.178.188.47 2007年10月14日 (日) 00:08 ※編集履歴により署名追加。--218.216.157.82 2008年5月14日 (水) 16:42 (UTC)[返信]
景勝の男色説についての記述に、三重年表を参考に書かれた方がいらっしゃいましたが、正確な史料の引用でした。Tveye505 2007年10月13日 (土) 01:32 (UTC)[返信]

関連項目から削除されていた直江兼続を再度加えました。この件について、投稿内容が重複するのを避けるため、直江兼続のノートの方に意見と要望を記述してあります。--61.45.192.19 2008年1月7日 (月) 11:55 (UTC)[返信]

奥羽永慶軍記の項目で、景勝男色説を強調せれる方がいますが、再度言わせて頂きますが、 貴殿の個人的推測に過ぎません。推測論は、利用者の方々に混乱と誤解を与えます。 やめていただけませんか。--Funhouse 2008年2月9日 (土) 10:36 (UTC)[返信]

関連項目で、兼続の位置を下に入れ替えた方がいるようですが、どんな意味があるのでしょうか。過去の履歴から察するに、景勝と兼続の関係性を認めがたい一心を持たれた方の編集のように思われますが、個人的感情としか受け取れない不要な修正は控えてください。--202.239.241.30 2008年2月13日 (水) 13:42 (UTC) [返信]

景勝男色説を執拗に編集する方は、同性愛者の方なのですか? 投稿記録を調べますとその傾向が強いように思いますが、再三言わせて頂きますが、 貴殿の個人的な趣味による想像は虚説以外何者でもありません。 お願いですから、やめてください!!。--Funhouse 2008年2月24日 (日) 00:46 (UTC)[返信]

Funhouse氏が2月24日(日)00:46に警告を与えた人物と同一人物によると思われる、景勝男色説への加筆が2月27日(水)01:10に再び行われました。投稿記録ならびに内容を見る限り、個人的な偏見や独善的な価値観による記述をしばしば行う(特に同性愛及び関連記事において顕著)などかなり悪質であり、辞書としてのウィキペディアの公正性に照らしても問題があります。 該当する投降者は、問題行為を即刻中止して下さい!--202.222.117.137

景勝の発令した衆道禁止令に関して

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「景勝が衆道禁止令を出していたのが景勝が男色家でなかった証拠」という理屈自体が信者目線の理屈で理解に苦しみます。

確か織田信長も柴田勝家に男色を控えるように指示を出した逸話もあります。「男色はハマるので控えよ」という事だろうと思いますよ。「男色禁止令が男色家でない証拠」という理論自体が「好きな戦国武将が男色家であって欲しくない」という願望から来た曲がった思考による理屈だと思います。贅沢をしている大名が家臣領民に「贅沢禁止令」を出しても特におかしいとは思えませんが?あと「悪意がある」とか要ってますが、当時としては別に男色は普遍的なものであり、特にその人物を貶めるようなものではないと思います。--ちょーばみ 2008年5月8日 (木) 11:23 (UTC)[返信]

あと、ネット検索などで調べてみますと「景勝は男色禁止令を出したので男色家ではない」と必死になって主張する書き込みがあちこちに散見します。同一人物かもしれません。自分が見つけ出した「景勝は男色禁止令を出したので男色家ではない」という理屈をネットを利用して流布しているように見えます。これだとどっちもどっちな気がします。そもそも、上杉景勝が衆道禁止令を出したのが当時としては立派な老人世代の五十四歳の時の話しですよ。若い頃に衆道禁止令を出したのならともかく、こんな老年で出したのでは男色家でなかったという根拠にはほとんどなりません。単に自分が枯れたので出したとも思われます。仮に老年近くまで大酒飲みだったりヘビースモーカーだったりした人間が公的な場で禁酒令や禁煙令を出してもおかしくはないですよ。--ちょーばみ 2008年5月12日 (月) 00:10 (UTC)[返信]

では貴殿はなぜ景勝だけを執拗に男色家にしようとするのですか?。柴田勝家とか、他の武将達のもそのような編集をしているのですか?。貴殿の主張するのは個人的な見解であり、正しい史実考証に基づいてないのは明白です。--Funhouse 2008年5月12日 (月) 11:24 (UTC)[返信]

天下の趨勢が事実上決着したこの頃においては、各藩ともお家騒動、ひいては改易の元凶ともなりかねない藩士間の男色にまつわるトラブルを軽減する必要があり、そのため上杉藩のみならず各藩も時期を前後して相次いで「衆道禁止令」を発令しています。

当然ですが藩主個人の男色の好悪とは一切関連性は無く、ちょーばみさんの「単に自分が枯れたので出したとも思われます」という説も、幾人かの方の主張する「景勝は男色家ではない」という説も、景勝の衆道禁止令発令とは関連性は少ないと思われます。

追記‐ちょーばみさんへ  項目の名称を変更し(変更前の項目名はあなたの投稿記事の前文に流用しました)、記事中の誤字の訂正をしました。--202.165.114.236 2008年5月12日 (月) 12:31 (UTC)[返信]

よーするに当時男色は一般的なことだったのでしょう。それを景勝にだけ「男色家であった」と強調する理由が何かあるのでしょうか?らりた 2008年5月12日 (月) 14:28 (UTC)[返信]
まず、私はこの項目や他の項目で男色に関して編集を続けていた人物とは別人です。私が書いたのはここのノートと大内義隆の項目を最近、編集しただけです。それと上杉謙信、景勝の男色の件について割って入ったのはこの項目の編集履歴を見て興味が沸いたからです。
あと少し気になった事ですがこのノートの「悪意のある視点での書き換えが目立つ」とはどういう事でしょうか? おそらく「男色説はその人物を誹謗する行為」という発想があるんだと思います。しかし加賀藩の記録には藩祖前田利家が織田信長と若い頃、男色関係だった事を指摘された逸話をおおいに自慢する内容があります。織田家家臣の集まる場で信長に「そちは若い頃、わしと抱き合ったものよな」と言われて利家が光栄のあまりむせび泣きほかの家臣がこぞって羨ましがったという記録です。また長州藩にも小早川隆景と大内義隆が衆道関係だった事を自慢する記録があります。現代において男色は「いかがわしい目を背けたくなる行為」になるであろうのは否定しませんが、そのような現代人の感情を勝手に持ち込むのはどうかと思います。謙信、景勝、直江の男色関係なども真偽は別として当時としては誇らしいものであった可能性もあります。男色説を必要以上に忌避する方が「悪意ある視点からの書き換え」なのではないでしょうか?
史学というのは司法などの世界と違って「誰の目にも明らかな証拠がなければ無罪」ってものでありません。たとえ絶対的確証がなくても当時の慣習からいって 謙信や景勝も男色していた事は有力ですし、一応、信頼性は別として記録もあります。 勿論、明らかな証拠がない限り絶対に100%まではならないのですが、史学の世界は「疑わしきは罰せず」じゃないわけです。 「確証がない」=「そんな事実はなかった」ではないのが史学の面白いところで、刑事裁判なら心象的には真っ黒でも立証しきれなければ無罪になりますが史学ではそうではないのです。 ただし確証がなければ「こういう説もある」以上のものではないのは事実ですけどね。残念ながら、謙信や景勝が男色を行っていた可能性については否定はできず「衆道禁止令」も「男色家ではなかった」という証拠にはあまりなりえるとは思いません。「ない事の証明」は「悪魔の証明」と言われ忌避されますが、それが言えるのはあくまで司法や科学の世界の話です。司法や科学では明らかな証拠がなければ「無い」という事になりますが、史学の世界は「確証がない」=「事実なのか事実でないのかわからない」という事にしかなりません。--ちょーばみ 2008年5月13日 (火) 02:22 (UTC)[返信]
「悪意のある視点での書き換えが目立つ」というのは、男色説・非男色説の別を問わず、記述者個人の自説の主張が過ぎる余りか、百科事典としての記述・訂正などの範囲を著しく逸脱した著述がなされた件ではないかと思います。
例(リンク先は全てウィキペディア日本語版内のログ)
景勝本人・非男色家(異性愛者)への差別的記述(左側)[1] [2]
極端な男色説否定的記述(右側)[3]
当時、主君と密接な関係にあることが出世の大きな要素の一つであり、また「主君と男色関係にあること」は家臣にとって一種の選民的または特権的な意識であった(利家なら「俺は他の家臣と違って、信長公とは互いに若いころから深い仲だ」と、隆景なら「俺は兄隆元と違って、義隆公に深く可愛がられた」と誇る)ことは、当時の男色の概念から見れば否定しがたく、越後人ではないものの謙信に見初められ、その寵愛を受けた河田長親にせよ、景勝とは互いに少年時代のころから関係があった直江にせよ、主君の愛人である(か、あった)ことは彼らにとって現世利益・精神・心情いずれの面においても有意義かつ光栄なことでこそあれ、決して後ろめたいことではなかったと思われます。
なお、これらの場合において「男色家」は「女色家」でもあり(すなわち「両性愛者」)、元々からの同性愛者は極めて少数であることについて留意する必要があることもここに記して置きます。--124.108.199.111 2008年5月13日 (火) 11:00 (UTC)[返信]

いいんじゃないですか?。男色かどうかなんて、確証ないし、そう思ってる人間はそう主張すればよい。 --219.178.188.47 2008年5月13日 (火) 11:34 ※編集履歴により署名追加。--124.108.199.111 2008年5月13日 (火) 12:50 (UTC)[返信]

推論をそれをあたかも事実のように述べるのはいかがなもんでしょうか?。ここは言葉は丁寧だが、どこぞの書き込み掲示板と変わらない、非常に低俗な感じがします。 --219.178.188.47 2008年5月14日 (水) 13:18 ※編集履歴により署名追加。--218.216.157.82 2008年5月14日 (水) 13:29 (UTC)[返信]

はい、確かに上杉家の男色については信長や信玄や政宗や大内のように絶対的な証拠までは出ていないです。ただし当時の慣習や上杉家周囲の勢力の男色事情(武田家や芦名家、伊達家など)、やや確定的でない証拠(近衛の記録や奥羽永慶軍記、その他○○は美男だったなど間接的に男色を匂わす記述)なども含めて男色が行われていた可能性は低くはないです。また俗説や江戸期に入ってからの史料も必ずしも虚偽とはいえません。ですので少なくとも「一説には」の断り書きを出した上で上杉家の男色説を書くのは構わないと思います。それすら嫌というのは個人の思いからきた嫌悪感なのでやめるべきでしょう。少なくとも「景勝が衆道禁止令を出していたのが景勝が男色家でなかった証拠」とかいう納得しがたい理屈よりは説得力があります。そもそも「男色禁止令が出された」という事自体が上杉家中で男色が行われていた証拠にもなるのですが--ちょーばみ 2008年5月14日 (水) 21:52 (UTC)[返信]

両方の説を明記するか、男色をしていたという説もある、程度の記述でいいんじゃないでしょうか? 証拠とされる文献も信頼性が低いかまたはどうとでも解釈できるような記述しかないのですから。 それに「男色禁止令がでた」といって「男色をしていた人物がいるのだろう」とは言えても「禁止令が出たところの人は皆男色していた」というのは無理やりな話でしょう。 男色禁止令は男色していたことにもしていなかったことの証拠にもなりません。 --125.194.17.42 2008年5月14日 (水) 23:54 (UTC)[返信]

再度述べますが、男色自体は当時一般的な事柄だったのですからこの記事でいちいち取り上げる必要の有る事柄ですか?たとえば戦国時代の項目の中で「風習」として取り上げることはあったとしても、この記事で一々取り上げるだけの価値があると思えないし、そもそもこの記事で取り上げることが「上杉家が(当時の一般的な風習に反して)男色が行われていた『特殊な家』」であった」などという妙な誤解を生みはしませんか?以上のことから私はこの記事中で男色のことを取り上げることに反対です。らりた 2008年5月15日 (木) 12:32 (UTC)[返信]

うーん、私は「禁止令が出たところの人は皆男色していた」とまでは言ってませんよ。男色していた人物も居れば男色していない人物も居たんしょうね。

らりたさんの言われる事はある程度は正しいですね。大内義隆の場合は大内家の滅亡に男色が大きく関わっているので取り上げないのは問題ですが、上杉家ではそこまで大きな項目を作って取り上げなくてもいいと思ってます。ですから逸話の説明一つ、二つ、くらいに男色について「こういう説もある」程度に若干の記述をすればいいと思ってます。--ちょーばみ 2008年5月15日 (木) 23:38 (UTC)[返信]

男色っていうのを認めたくない人もいるけど、結局ヒスなんだと思います。強調せずとも、「おそらく事実」であったことを否定するのも偏向ですよね。--133.31.18.69 2008年5月20日 (火) 09:19 (UTC)[返信]

まあ、そういう事ですね。私は大内義隆や徳川光圀の項目にも男色について書きましたが、特に「大内義隆公が男色家であったわけがない!!」といった反論はなかったですよ。また信長や信玄、政宗でもファンは男色の話は特に否定しようともしません。それなのに上杉ファン の場合は「謙信公が男色などしていたわけがない!」「直江兼続が景勝公の寵童であったわけがない!」とムキになって否定する傾向があります。そうやってムキになって否定するとかえって冷笑されたり、面白がられて荒らされたりするのではないですか?「まあ、男色についてはあの時代の事だからそういう事もあったかもしれない」程度にドーンと構えてればいいと思いますけどね。--ちょーばみ 2008年5月20日 (火) 23:03 (UTC)[返信]

ムキになって否定も何も「謙信が男色をしていた」も「直江兼続が景勝の寵童」も全く史料的に論拠の無い話ですが。当時の風俗からあったかもしれない程度の話であり、「想像すればあったかもしれない」程度の話を「おそらく事実」と主張することこそ個人の思い込みの押し付けでしょう。信長や政宗には男色の論拠となる史料がありますが、wikipedia上で事実と主張したいなら史料を提示してその信頼性と論拠を述べるべきだと思います。--Agira 2008年5月20日 (火) 23:16 (UTC)[返信]

その辺はやや時代がくだってからの史料と状況証拠や推測ですね。少なくとも私は「事実」とは言い切ってませんよ。しかし史学は「確定証拠がない」=「無罪」ではないですけどね。一応、一つの説として載せる程度でいいと思います。--ちょーばみ 2008年5月22日 (木) 08:31 (UTC)[返信]

あなたの推測を載せないようにお願いします。そのような怪しい話をいちいち載せる必要はありません。ウィキペディアはトリビア辞典ではありません。無罪などという言葉と使うこと自体があれですが、『「無罪」ではない』と「おそらく事実」では光年の開きがあります。らりた 2008年5月22日 (木) 09:53 (UTC)[返信]

まあ「推測」という言葉ですが。「個人的な推測」という意味ではなく一応は世間に伝わっている「一般的な推測」という意味です。史学で「確定的証拠がない」=「無罪」だったら大変です。仮説の一つも認められません。例えば穴山梅雪が本能寺の変で京都から逃げ帰る時に主従ともども一揆勢に殺された件に関して「実は家康が駿河併合の邪魔になったので殺させた」なんて説があります。これは確証がありませんが有力です。またその時の甲斐国人の蜂起で河尻秀隆が殺されましたが、この件も家康黒幕説があります。これらの説は確証はなくとも有力とされてます。「確証がない」とか言ってたらこういう説は全て載せられません。出自の低い「直江兼続の出世も寵童ゆえ」という説はかなり有力ではあります。

あと全く証拠がないわけではなく謙信には近衛前久書状に景勝については奥羽永慶軍記に男色の記述はあります。
確証がないからだめなどといっている訳ではなく、後世の軍記物にしか出てこないような怪しい話を載せないようにと言っているのです。史学を知っているならばそういう後世の軍記物を史料として取り扱う際には慎重な姿勢が必要であるということはご存知でしょう。らりた 2008年5月22日 (木) 12:47 (UTC)[返信]
ですから別に確定情報として載せるべきとは言ってません。あくまで説の一つとして載せればいいと思いますよ。--ちょーばみ 2008年5月22日 (木) 21:27 (UTC)[返信]

兼続の出自が低いという話には個人的には異論はありますがここで論じる話ではありませんね。現在でも男色関係だった説があると言う記述は掲載されていますし、その記述を何が何でも消そうとはされていないと思います。 問題にされているのはとても確定的な史料があるとはいえない男色関係説を強調し、さも確定的な話として載せようとするものに反発されているのだと思いますよ。他にも菊姫との間には全く愛情が無かっただとか、どうにも景勝を男色狂いだったと思わせたいような記述があちらこちらで目に余ります。 謙信が景虎の方を正当な後継者だと明言していたなどと、根拠の無い話で景勝を貶めようと躍起になっておられる方がいるのも目に付きますね。--125.194.17.42 2008年5月23日 (金) 09:03 (UTC)[返信]

それじゃ、今程度の男色記述を保持しておくという事で落としどころにしましょう。男色について主張されている他の方はともかく私に関してはそれでいいです。一応「質問」は外しておきますね。しかし相変わらず「男色説」=「その人物を貶める行為」という認識があるんですね。このノートにそれを否定する記述がありますのでよく読んでおいてください。そのような現代人の概念を持ちすぎないほうがいいです。あと景勝や謙信が「男色狂い」なんて誰も言ってませんよ。--ちょーばみ 2008年5月24日 (土) 01:06 (UTC)[返信]

何も知らずにwikipediaで読んだ人に「この人は特に男色狂いだったのだ」と思わせるような記述の仕方で、特定の人物を貶めようとする意思を持って男色説を強調しようとする方がおられるので目に余るといっているのです。ただ「当時の風俗から男色だったという説もある」という記述がなされているだけなら問題ではありません。それとwikipediaで読むのは当時の風俗を良く知る方々ではなく、現代人の概念を持つ現代人が圧倒的多数でしょう。現代人の概念から見てどういう人物に見える記述かも十分考慮に入れて書かなければ誤解を招きかねないと思います。--125.194.17.42 2008年5月24日 (土) 05:50 (UTC)[返信]

男色は当時、武家に限らず盛んだった習慣です。それが近代以降、戦国時代の武将の間で賞賛されていた衆道までを否定しようとする傾向が近年すこぶる強くなってしまったようですね。 --124.255.13.206 2009年4月20日 (月) 06:30(会話)

-以上、ノート履歴に従って投稿者並びに投稿時間を追記、段落書式修正。--123.255.132.124 2009年4月20日 (月) 16:16 (UTC) ガイドラインに従い、個人攻撃的な文章を除去 124.108.210.74 2009年7月16日 (木) 14:38 (UTC) 編集追記文末へ移動、表現の訂正追加。124.108.210.74 2009年7月17日 (金) 11:26 (UTC)[返信]

124.255.13.206さんには、ウィキペディアは演説をする場所ではありません」を熟読されることを強く奨めます。--119.148.192.194 2009年5月21日 (木) 12:08 (UTC)[返信]

米沢藩、会津時代の石高に関して

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会津120万石、米沢30万石の出典が、史料価値の低い武辺咄聞書のため、上杉将士書上の会津50万石に訂正。--Bonjovi 2009年6月18日 (木) 19:48 (UTC)[返信]

「上杉将士書上」は慶長20年(1615年)に書かれたものとされていますが、実際は幕府に提出された四代綱憲時代に書かれたものと言われ、内容も史実とは言いがたいものもあり、とうてい一次史料とはいえないものではないでしょうか。
会津時代の上杉の検地帳はないと思いますが、蒲生時代に提出された「会津知行目録」では蒲生領は91万9320石とされています。(ただし、この目録に関しては、秀吉は天正検地からの出目分が少ないと不審を抱いたとされています。)
細かい内容は資料が手元にないため不明ですが、文禄3年の「高目録帳」では長井郡(置賜郡)は17万石余とされ、関ヶ原前に家康が政宗に与えた「苅田以下七ヶ所知行目録」でも17万石余とされています。(ともに『山形県史』資料篇に収録されていたと思います。)米沢18万石というのは、ありえないと思います。
会津120万石、米沢30万石は定説となっていますので、このままでは他の百科事典、歴史書とかけ離れた記述になってしまいのではないでしょうか。--Thomo 2009年6月19日 (金) 23:07 (UTC)[返信]

太閤検地で出羽32万石なのに、米沢だけで30万石なんてありえないし。実高と表高は違いますよ。米沢藩の表高を見たら18万石になってましたけど。武辺咄聞書では、出羽庄内・佐渡を合わせて上杉領150万石になってました。蒲生秀行は120万石。直江は米沢城主で32万石と。太閤検地で陸奥国167万石なのに、そのうち上杉だけで120万石、伊達の60万石で、もう180万石になってしまいます。--Bonjovi 2009年6月20日 (土) 00:56 (UTC)[返信]

米沢藩の表高は30万石→末期養子相続により15万石→18万石と変遷してます。18万石というのはいつの時期の史料でしょうか。
『上杉家文書』の四代将軍家綱から与えられた領地判物には30万石とちゃんと明記されています。
太閤検地による出羽、陸奥の石高というのは、なにによる史料でしょうか。『山形県史』『米沢市史』の記述によれば、奥羽全域で太閤検地が実施されたかどうかについては、現在残っている検地帳から否定的であるとされています。伊達政宗と最上義光には秀吉から領地朱印状が発給されていないので、正確な石高については研究者が史料などから推定しているのではないでしょうか。少なくとも、『武辺咄聞書』や『上杉将士書上』のような信憑性の低い史料は参考にしていないはずです。会津120万石も、蒲生氏から秀吉に提出された公文書である「会津知行目録」と庄内、佐渡の石高から研究者が出したものではないのでしょうか。現在これに異議を唱える説を私は知りません。
訂正された内容は、研究書等からのものではなくbonjoviさんのご意見であると理解してよろしいのでしょうか。bonjoviさんが疑問を抱かれて、いろいろ研究されるのは結構だと思いますが、今の状態でwikiに書き込まれるのはどうかなと思います。独自研究として削除の対象になってしまうと思います。とりあえず、以前の記述に差し戻しさせていただきますね。--Thomo 2009年6月22日 (月) 03:52 (UTC)[返信]

上杉将士書上

一、慶長三年、会津五十万石へ、景勝所替に付、所々手置き候節、謙信此方、武功の家臣等も病死に付、手薄に有之候間、蒲生家の牢人召出し候。

上杉将士書上は、幕府に上杉家が提出した公文書ですので、削除対象に該当せず、併記しました。--Bonjovi 2009年6月25日 (木) 03:11 (UTC)[返信]

秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳では、会津中納言、91万石と明記されていますので、120万石は後世の誇張された表現と考えます。--Bonjovi 2009年6月25日 (木) 12:34 (UTC)[返信]

秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳では、出羽国32万石。戸沢3万石、小野寺3万石、秋田が5万石。最上が13万石。合計24万石。残り8万石が、米沢と庄内の上杉領ですので、米沢は8万石以下。米沢30万石はありえません。--Bonjovi 2009年6月25日 (木) 15:01 (UTC)[返信]

「上杉将士書上」は『続本朝通鑑』の編纂のために上杉家から提出されたものですが、架空の人物である宇佐美定行が二十五将の中に入っていることからもわかるように、おそらく『北越軍記』の作者宇佐美定祐の周辺人物が書いたものといわれてます。内容も軍記ベースで信憑性が高いとは言い難いものです。はたして公文書といえるのか、少なくとも石高の参考とする史料とはいえないのではないでしょうか。
米沢30万石に関しては、確かにに幕府からの領地判物の初見は綱勝時代のものですが、景勝時代の諸記録から、高30万石が軍役を賦課する場合の公称高とされていたのは間違いないであろうとするのが研究者の見解であったと思います。(『山形県史』p115)
Bonjoviさんが参考史料としてあげられている『秋田家史料』ですが、所蔵している東北大学附属図書館のデータベースで確認しました。ただし、今朝から何度も確認しているのですが、この全国石高帳に出羽の石高は載っていないと思うんですが。(陸奥も)Bonjoviさんの言われる出羽の石高は実際にはどの史料によるものですか?もしかして『慶長3年検地目録』ですか?
大名知行高帳の方は『慶長3年大名帳』(『続群書類従』所収)の別バージョンみたいですね。越後宰相とかかれているのは越後侍従の間違いだと思いますが、宇都宮侍従(蒲生秀行)が5万石とされていたり、かなり通説と違うものがありますね。なにより、加賀大納言の知行が23万石というのはどのように考えればよいのでしょうか?
出羽の大名に限れば、確かに最上氏13万石、秋田氏5万石、戸沢氏3万石、小野寺氏3万石と記載されています。ただし、戸沢氏に関しては4万4350石が正式です。(『戸沢家文書』)なお、『山形県史』では、『慶長3年大名帳』は後世の編纂物であり、ただちに信用できるものではないとされていました。最上13万石に関しても否定的でしたね。
北出羽の諸大名は其の所領の約三分の一を太閤蔵入地として没収されています。秋田氏の蔵入地は2万6245石、他の蔵入地に関しては正確は石高は不明ですが、それぞれ安堵された知行の約半分ほどの蔵入地があったはずです。もし、正確な出羽の検地高があり、それから米沢領(ただし、信夫、伊達郡を除いたもの)を出すというなら、その石高もさしひかなければなりません。
最上領には太閤検地が行われなかったとする説もありますから、むしろ検地高に最上領を含むのがおかしいのかもしれません。とにかく、米沢30万石に関するBonjoviさんのご見解には賛同いたしかねます。会津120万石に関しては、私も佐渡の石高が高すぎるのではないかという疑問もありますが、現在のところ120万石は通説になっているのではないでしょうか。
前にも申しましたが、この件に関して論考されているものがあるのでしょうか。独自研究ではありませんか?上杉景勝の項目では一応配慮された書き方をされていますが、米沢藩、上杉氏、関ヶ原の戦いの項目では本文にそのまま自説を書かれていますね。異説紹介として脚注に書かれるならともかく、今のままでは問題があるのではないでしょうか。--Thomo 2009年6月27日 (土) 03:20 (UTC)[返信]

秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳と、慶長3年大名帳は、中身いっしょですよ。

加賀大納言(前田利家)23万石。羽柴肥前守・越中宰相(前田利長)33万石。能登侍従(前田利政)21万石。

合わせて前田一族で77万石。>なにより、加賀大納言の知行が23万石というのはどのように考えればよいのでしょうか?

秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳に、出羽32万石は載ってませんが、その他の国の石高は太閤検地と同じですので、揃えるのが当たり前では?太閤検地以外に、出羽の石高を記載した史料はないはずですが・・

それこそ、山形県史のほうがおかしいのでは?米沢藩30万石のうち、福島県部分が12万石を除いて、米沢盆地だけで18万石も慶長年間であるわけないですよ。江戸中期の生産力の上がった時代に編纂された藩カン譜に、会津120万石・米沢30万石と書いてあるのを、おそらく引用しているのでしょう。庄内平野のほうがはるかに広いため、旧大宝寺の武藤の庄内は5万石くらい(同じ沿岸部の秋田(安東)が5万石参照)。内陸の戸沢、小野寺が3万石であることから、米沢3万石予想。米沢藩当初(3万石+福島県部分12万石、あわせて15万石が妥当か?)最上は13万石。山形県21万石・秋田県11万石。

東北の大名の石高だけ、実高と称したり、江戸中期以降の生産力の上がった時代の石高でもって、戦国~天正慶長の時代のモノとして表示するのは、おかしいのでは?--Bonjovi 2009年6月28日 (日) 01:55 (UTC)[返信]

(コメント)こんにちは。ざっと議論を拝見させていただきました。Bonjoviさん、米沢が8万石以下などの主張は、『秋田家史料』記載の「出羽国内の上杉以外の石高」と、「太閤検地での出羽32万石」からBonjoviさん自身が推定した石高ですよね。「揃えるのが当たり前」もBonjoviさんの解釈ですし。また『山形県史』への批判的評価や「120万石は後世の誇張された表現」も同じく評価・解釈になっています。Wikipediaでは、このような執筆者自身による評価や解釈・推定を「独自研究」と呼んでおり、記述はできないのです。Wikipedia:独自研究は載せないを熟読してみて下さい。--KurmUmy 2009年6月28日 (日) 09:42 (UTC)[返信]
(石高表記に対する意見追記)Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 日本史には「通説に反する事実を示す史料が存在するが、それを根拠とした研究は発表されていない場合→通説を詳述したうえで、「反する事実」の存在だけを明記する」という議論がなされています。会津120万石、米沢30万石は通説として広く流布しているようですので、ウィキプロジェクトの意見のように、通説として「会津120万石、米沢30万石」を述べ、異説有りとして、「会津中納言91万石(秋田家史料:天正~慶長:全国石高及び大名知行高帳)」「会津50万石(上杉将士書)」など通説に反する記録を脚注でまとめて記載する形にしてはどうでしょうか。--KurmUmy 2009年6月28日 (日) 10:08 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。私としてはKurmUmyさんのご提案に異存はありません。
Bonjoviさん、いくつか史料を誤認されておられるようなので指摘いたしますが、『秋田家史料』の「大名知行高帳」は『慶長3年大名帳』と全く同じものではないと思います。羽柴越中守は『慶長3年大名帳』には存在しますが、『秋田家史料』には存在しません(おそらく書き間違いだとは思いますが)。『大名帳』には記載されているが、『秋田家史料』には記載されていない大名もいますし、其の反対の大名もいます。ざっと見ただけですが、安芸中納言、薩摩少将、大崎少将(政宗)の石高が微妙に違いますし、松洞宰相(丹羽長重)、宇都宮侍従(蒲生秀行)はかなりの石高の差があります。出羽の石高の件といい、本当に『秋田家史料』をきちんと調べられていますか?
なお慶長年間の米沢領の石高としては、以前にも書いた『文禄三年蒲生氏領高目録』(内閣文庫、現在はおそらく国立公文書館に所蔵されていると思います)があります。
それによれば、長井郡(置賜郡)17万8433石余、信夫郡 5万3194石余、伊達郡 5万6683石となっています。ちなみに米沢藩時代の寛永15年の検地では、伊達、信夫郡 21万2094石、長井郡 30万5138石です。--Thomo 2009年6月28日 (日) 20:31 (UTC)[返信]

↑ 間違ってますけど。

米沢城主蒲生四郎兵衛郷安が領内の調査を命じたもの。太閤検地が実施された文禄三年(文禄検地)の検地高をそのまま引き継いだものである。

岩代古文書 文禄三年高目録帳 置賜地方の各村の石高

上小松村     三三一七石四斗

中小松村     二四〇七石二斗五升

下小松村      八二四石九斗七升

黒川村       七二八石九斗三升

高豆蒄村      九一八石六斗五升

大塚村      二〇二八石六斗

玉庭村      二一三四石九斗四升

大舟村      一〇二八石六斗

朴沢村       七六二石二斗四升

奥田村      一六四四石三斗八升

堀金村      三一五七石八升

時田村      一七三八石二斗五升

高山村      二三八八石九斗五升   

及位村       六九五石三斗八升

栖島村      三五三〇石九斗六升

吉田村      三四五二石二斗四升

下平柳村      九一三石五斗八升

尾長島村     一六〇九石六斗七升

合計 33282.77 (3万3千282石)

米沢(置賜)は、3万石しかありません。

庄内藩(wiki)元和9年に総検地したところ、5万3000石を上回る出目が見込まれ。

山形県内の上杉領は、庄内5万石、米沢3万石、合計8万石です。

憲法類編〈十國郡府縣〉奧羽兩國ヲ七國ニ分國ノ事 戊辰〈◯明治元年〉十二月七日御布告 奧羽兩國ハ、嚝漠僻遠之地ニシテ、古來ヨリ教化洽ク難二敷及一儀モ有レ之候ニ付、今般兩國御取調之上、府縣被二設置一、廣ク教化ヲ施シ、風俗移易、人民撫育之道、厚ク御手ヲ被レ爲レ盡度思食ヲ以テ、出羽國ヲ、羽前羽後ト二國ニ分國被二仰付一候條、此旨可二相心得一事、羽前國 一高二十一萬六千百六十一石二斗二升二勺三才 置賜郡 >>> 生産力の相当向上した300年後の明治元年時点で、置賜郡21万石ですよ?

憲法類編〈十國郡府縣〉羽前、80万石。羽後、65万石。合計、出羽国、145万石。明治元年時点で。--Bonjovi 2009年6月29日 (月) 01:39 (UTC)[返信]

Bonjoviさん、最上氏も含め次々と編集されているようですが、KurmUmyさんのご提案のように、一度合意を得てからにしませんか。このままでは、お互い水掛け論になって収拾がつかないでしょう。
それからまた史料についていうと、気分を害されるかもしれませんが、上でBonjoviさんがあげられている置賜地方の村々は、現在の東置賜郡川西町に含まれる村々であって、置賜郡全体じゃありません。ためしに川西町の次ぎにそれぞれの村の名前を入れて検索してみて下さい。ほとんどの地名がヒットしますから。
これは、もしかして個人サイトから転載されたのではありませんか?サイトに置賜郡の村々と書かれていたから、勘違いされたのではないですか。実際に『高目録帳』を見て書かれたのではありませんね。
とにかく一度、編集方針について話し合いしませんか?--Thomo 2009年6月29日 (月) 14:10 (UTC)[返信]
Bonjovi氏が書かれた「文禄三年高目録帳」は明らかに「東沢風土記」を読んでみよう!からの転載ですね。許可を取られた上での転載ですか?--丁度氷 2009年6月29日 (月) 15:18 (UTC)[返信]

こちらの編集、きちんと読んでくれましたか?

それによれば、長井郡(置賜郡)17万8433石余、信夫郡 5万3194石余、伊達郡 5万6683石となっています。ちなみに米沢藩時代の寛永15年の検地では、伊達、信夫郡 21万2094石、長井郡 30万5138石です >>>>>>>>

憲法類編〈十國郡府縣〉〕 奧羽兩國ヲ七國ニ分國ノ事  p.0178 戊辰〈◯明治元年〉十二月七日御布告 奧羽兩國ハ、嚝漠僻遠之地ニシテ、古來ヨリ教化洽ク難二敷及一儀モ有レ之候ニ付、今般兩國御取調之上、府縣被二設置一、廣ク教化ヲ施シ、風俗移易、人民撫育之道、厚ク御手ヲ被レ爲レ盡度思食ヲ以テ、〈◯中略〉出羽國ヲ、羽前羽後ト二國ニ分國被二仰付一候條、此旨可二相心得一事、〈◯中略〉 羽前國 一高二十一萬六千百六十一石二斗二升二勺三才 置賜郡

置賜郡は、明治政府の資料によると、明治元年で21万石しかありません。寛永15年時点で30万石はありえません。

置賜郡の石高は、慶長検地の出羽32万石-慶長検地の出羽国の大名の石高の合算=8万石以下(庄内と置賜の配分は不明)と説明しています。

本文中で、米沢藩30万石の出典は補強しているし、米沢(置賜郡)だけで3万石という主張を本文中には書いていませんし、あくまで推測仮定の話しです。厳封以降の15万石は、武鑑で確認、今回論争にならず。

会津120万石は、会津若松市、米沢市などの東北自治体が喧伝していますが、いずれも出典不明のため調査不能。こちららの調査では、慶長検地・大名知行高から、上杉91万石。江戸中期の藩カン譜に会津120万石・米沢30万石の記載があるが出典不明。検地という確実な史料からは、上杉91万石です。ちなみに、慶長検地大名知行高での120万石は、毛利氏のことです。

浜松藩水野家文書寛永11年記に、長井郡18万石、福島県の2郡12万石、計30万石の記載あり、しかし、寛永11年の朱印状現存せず。

どうも、慶長検地を無視して、関が原以降の東北地方の大名配置図の石高が、寛永慶安検地のモノで表示されているようです。 例えば、秋田氏が、慶長検地で5万石なのに、代わりに入った佐竹氏が20万石(武鑑など)と表示されています。--Bonjovi 2009年6月30日 (火) 01:52 (UTC)[返信]

Bonjoviさんが納得されるかどうかわかりませんが、米沢藩の記録にはあるんです。ただし藩の公式記録ではなかったと思います。あるものの報告書だったと思いますが。しかし半知後の実高を28万石とする諸記録(半知後、約3万石が置賜郡から幕府領になってます)、この数字は信用されるというのが研究者の見解だったと思います(『山形県史』『米沢市史』)。明治の石高について言及したものを読んだことはないので、どう評価すればいいのかわかりませんが、私見としては、寛永検地の石高以下であっても不思議じゃないと思います。寛永の検地自体がかなり厳しい検地でしたし、半知後の年貢の負担増大、元禄以降の天災による凶作の多発等により米沢藩はかなりの人口減少をみています。確か記録では、元禄時代は13万人台であったのが、最低時には約9万人にまで落ちていたと思います。人口の減少は農民の欠落によるものです。こうした生産人口の減少は農村の荒廃をもたらしました。たしか元禄の検地でさえも、寛永検地の石高を出せない村があったと思います。鷹山の藩政改革の成功で徐々に人口は増加傾向に転じましたが、幕末の時点でも約12万人、元禄の人口にもどることはできませんでした。
それよりも、石高についての編集の合意をはかりませんか。私としては、あくまでもここは一般的に認められている説の掲載を優先させるべきであると思います。また、丁度氷さんのご質問にもお答え下さい。--Thomo 2009年6月30日 (火) 12:49 (UTC)[返信]

なんで、慶長検地の数字より、山形県史や米沢市史などの地方自治体の願望に基づく石高を優先しなければならないのですか?東北の自治体が、米沢30万石、会津120万石、最上57万石(実高100万石)>伊達に対抗?数字がそっくり。と喧伝しているものを無批判に採用しているにすぎません。

東北の大名の石高だけ生産力の上がった江戸中期以降で表示したら、関東以西の大名の石高も実高で表示しなければならなくなる。

会津120万石は、藩カン譜・上杉家にありましたが、1601年までの上杉会津支配ですので、慶長検地91万石が妥当。慶長検地では、120万石は、毛利家になってます。

慶長3年~1601年上杉厳封までの間に、120万石を証明するものは何一つなく、いずれも後世に作成された武勇伝・家譜・自治体史料などに、120万石という願望の数字があるだけです。

最上57万石も同様。1622年改易ですので、直近の検地は慶長検地ですので、13万石、加増されて23万石前後(米沢・庄内の配分不明のため)です。57万石の表高を証明するものはありません。

57万石とセットで、実高・最上100万石、出羽100万石なる呼称があったので、確認したところ、江戸中期以降ですね、出羽が100万石以上は。--Bonjovi 2009年7月1日 (水) 01:57 (UTC)[返信]

>Bonjovi氏 秋田氏が、慶長検地で5万石なのに、代わりに入った佐竹氏が20万石
それは当たりまえでしょう。秋田家が没収された土地(旧太閤蔵入地)と戸沢領・小野寺領なども久保田藩域ですから。そのあたりの基本的な認識も持たれていないのでしょうか?--出羽卒族 2009年7月1日 (水) 13:27 (UTC)[返信]

Wikipedia:投稿ブロック依頼/Bonjoviを出させていただきました。よろしくお願いします。らりた 2009年7月2日 (木) 13:50 (UTC)[返信]

内容が会津時代の石高についての討論を含んでいるため、節名を変更させていただきました。現在、「蒲生騒動」「米沢藩」「上杉氏」「関ヶ原の戦い」「会津討伐」の項目で、「大名知行高帳」(『秋田家史料』)によるとして、91万石(実際はその史料には91万9千石と記されて居ます)の石高に変更されています。石高表記について方針の合意をはかるため、コメント依頼をする予定にしておりましたが、肝心のBonjoviさんがブロックされました。しかし、このままにしておけませんので皆様の合意の下で、編集し直したいと思います。上杉氏の会津転封には領地朱印状類が発給されていないため、正確な石高は史料として残されていないものの、現在のところ、おそらくすべての歴史書には120万石説が書かれ、通説といってよいのではと思います。『秋田家史料』については研究者の評価が不明のため、KurmUmyさんが提示されたように異説として脚注に紹介するようにしたいと思うのですが、どうでしょう。 又「上杉景勝」の項目に関しても異説を脚注にまとめたほうがいいでしょうか。30万石の石高に関してBonjoviさんが書かれて居る部分は「寛永御朱印」以外は独自研究にあたるため、削除したほうがよいと思います。なお、景勝時代の表高に関しては、『山形県史』で大阪冬の陣の際、騎馬350騎出勤させていることなどより、30万石が軍役を課す場合の公称額とされていたのは間違いないとされています。(当時軍役割り当ては1万石14騎、ちなみに仙台藩は騎馬700余騎となっています。)--Thomo 2009年7月2日 (木) 18:59 (UTC)[返信]

賛成します。各種の研究書にて定説となされているならばそのままそれを載せていき、研究者による「異説」があるならばそれを付記していく形でよろしいかと。「寛永御朱印」にしても研究者がそれを取り上げていないならばいちいち取り上げる必然性は無いと考えます。らりた 2009年7月3日 (金) 12:17 (UTC)[返信]
Thomo氏の方針で問題ないと思うので賛成します。--出羽卒族 2009年7月3日 (金) 15:21 (UTC)[返信]

要高次出典について

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名将言行録を出典とする部分に貼られているのはなぜでしょうか。講談社学術文庫から現代語訳が出ていますがそのページ数まで提示せよということですかね。まあ面倒なので私は気が向かない限りやらないとは思いますが(名将言行録は厚いので読むのが大変だし、どうせ読むのなら他にも出典に使う記述を拾い上げていきたい)。しかし何がアレだって、こういうテンプレを貼った当人は既に活動していないというのが困りますね。貼り逃げとかやめてほしいです。--Alexander Poskrebyshev会話2017年10月16日 (月) 20:16 (UTC)[返信]