ノート:淫蕩
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現状は まったくの独自研究
[編集]現状のこの記事は、投稿者が勝手に自分の判断で別々の出典から材料を集めて、説を合成しているので独自の研究です。ウィキペディアでは禁止されています。
誰が性的に奔放か、そうでないか、『淫蕩について』という書物を見つけて、その出典に忠実に書いているわけでもなく、文献の中から「淫蕩について」という章を見つけてその出典に忠実に書いているわけでもありません。『淫蕩について』とか『性的に奔放な人について』などのように明らかに、それにテーマを絞った文献も用意しないで書いているので独自の研究になってしまっているのです。
ウィキペディアで「淫蕩」という記事を書きたかったら、『淫蕩について』という単行本か「淫蕩について」などといった論文などをまず用意しなければなりません。
もしも「性的に奔放な人」という記事を書きたかったら、『性的に奔放な人』というタイトルの単行本や「性的に奔放な人について」「性的に奔放な人に関する調査」などの論文を用意しなければなりません。もし用意できないのなら、そういうことについて書いてはいけないのです。
まったく投稿者が勝手に、世の中から自分の思いつき、自分の連想で恣意的にピックアップしているので独自研究なのです。ウィキペディアでは禁止されている行為です。
この世には性的に奔放な人などというのは、数千万人~数億人あるいはそれ以上います。その中から、ウィキペディア投稿者が自分の判断で勝手に恣意的に、特定の人や特定の宗教をピックアップしてはいけません。そういう選択は、『淫蕩』や「性的に奔放な人に関する調査」などの出典の記述に従わなければならないのです。
ウィキペディアでは「逆引き」で情報を調べて、材料を集めて書いてはいけません。たとえばビル・クリントンのニュースに「彼は淫蕩だ」と書かれていても、ある投稿者がそれに気づいたからといって、「淫蕩」の記事にビル・クリントンを勝手に書いてはいけません。そんなことをしては、投稿者の個人的な体験をただ強調しているにすぎない、投稿者の個人的な連想を記述しているにすぎないことになります。淫蕩な人などというのは、古代から調べればほぼ無限にいます。それなのに、たまたま投稿者が知っていたビル・クリントンが「淫蕩」とされていたからといって、それを代表のように書いてはいけないのです。
もう少しわかりやすく言いましょうか? ビル・クリントンを挙げて、他の政治家を挙げていませんね。政治家には性的に奔放な人は大勢いますが、一体どの研究者が、「性的に奔放な人」という論文なり単行本として、そのリストの上位にビル・クリントンを挙げたというのですか? 出典が無いでしょう? ユリウス・カエサルだって性的に奔放でしたよ。権力を持っていた男性では、性的に奔放な人は無限にいますよ。他の数十万人の性的に奔放な政治家について挙げない、というのは、投稿者の独自の判断、独自の研究、なのです。結局、明白に『淫蕩』とか『性的に奔放な人』というタイトルの出典が無いのにもかかわらず記事をでっち上げていることによって独自の研究になっているのです。
また、たとえば、ちょっと考えてみてください。広末●子というタレントも性的に奔放な生活をしていたということは、ニュースで扱われていましたが、それについてはこの記事では書いていませんね。押尾●というタレントだって性的に奔放でしたが、それについても書いていません。
注意していただきたいのですが、決してそういうタレントについて書けと説明しているのではありません。その反対なのです。ウィキペディアでは事実だからといって、何かを書いてはいけません。あくまで、あるテーマを扱う出典(ここでは「淫蕩」と明白にタイトルをつけた出典)で、代表的な事例として挙げてあるものでなければ、たとえ事実であろうが、ウィキペディア投稿者が勝手にピックアップしてはいけないのです。
芸能界だって、事実として性的に奔放な人、をいちいち挙げていたら、世界中の芸能人 数万人について記述できる、ということになりますが、ウィキペディアではそういう勝手なピックアップは許されていないのです。あくまで、特定の研究者が出典の中で、そういう無限にいる中からたとえば5名なり10名なり20名のリストを「性的に奔放な人」の代表として挙げていたら、その出典にしたがって、その通りにその10名の名を挙げるべきなのです。ウィキペディア投稿者が、無限にいる「性的に奔放な人」の中から、自分の好みや思い付きや連想で勝手にピックアップしてはいけないのです。
それと、ウィキペディアは類語辞典ではありません。連想辞典でもありません。興味本位で語彙の羅列をしてはいけません。--Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 12:09 (UTC)
それと、『淫蕩』という出典も提示せず、「性的に奔放な人」という出典も提示せずに、性感染症について記述している章も独自の研究です。ルール通りに削除しなければなりません。--Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 12:11 (UTC)
それと、ウィキペディアでの出典の正しい用い方は、出典に書かれている趣旨を、そのまま素直に、しかも中立的に紹介することです。
ウィキペディアでやっていけないことは、ある文献を見た時の自分の感情や自分の独自解釈を記事本文に書いてしまうことです。それはやってはいけません。--Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 12:30 (UTC)
それと、ひとつの<ref></ref>タグの中に、複数の出典をごちゃまぜに挙げてはいけません。個々の本文のどれが、どの出典と結びついているか、まったく検証不可能になってしまいます。ウィキペディアのルールであるWikipedia:検証可能性に違反していますので、そういう文は残してはいけません。
また、出典を示す<ref></ref>タグの中に、出典を読んだ時の投稿者の感想や自分の心に浮かんだ連想を付け加えてはいけません。それでは出典を示しているというより<ref></ref>を不正利用している、独自研究を展開する場と悪用している、と判断されます。--Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 12:45 (UTC) --Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 12:45 (UTC)
- 出典を適切な記事で用いること
ウィキペディアでの正しい出典の用い方というのは、出典がテーマとして明示している名称の記事で用いることです。
たとえば、仮に、(なぜかこの「淫蕩」で強引に用いられようとした痕跡のある)中野明著『裸はいつから恥ずかしくなったか - 日本人の羞恥心』という文献を読んで、そこに書かれていた情報をウィキペディアに注入したかったら、(この「淫蕩」という記事ではなくて) 「裸」という記事、あるいは「羞恥心」という記事において出典として用いるのが正しい使い方です。--Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 14:07 (UTC)
しかも出典の主旨のとおりに書くべきです。投稿者が出典を読んだ時に心に生まれた連想を書いてはいけません。ウィキペディアは連想ゲームの場ではないのです。また連想で思い出したトリビア(豆知識)の記述も控えるべきです。本文や脚注に書く豆知識も原則的に、Aという記事ならば、「Aについて」という単行本や論文に書かれているものに限定すべきです。そうでないと、投稿者の独自の判断ばかりで情報を加算していることになり、独自の連想、独自の研究になってしまいます。--Odola kinji(会話) 2012年12月6日 (木) 14:07 (UTC)