ハーベイ・マーティン

ハーベイ・マーティン
Harvey Martin
基本情報
ポジション ディフェンシブエンド
生年月日 (1950-11-16) 1950年11月16日
没年月日 (2001-12-24) 2001年12月24日(51歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テキサス州ダラス
身長: 6' 5" =約195.6cm
体重: 262 lb =約118.8kg
経歴
大学 東テキサス州立大学
NFLドラフト 1973年 / 3巡目全体53位
初出場年 1973年
初出場チーム ダラス・カウボーイズ
所属歴
1973-1983 ダラス・カウボーイズ
受賞歴・記録
スーパーボウル制覇(1回)
第12回スーパーボウル
スーパーボウルMVP(1回)
第12回スーパーボウル
オールプロ選出(計4回)
1st(1回)

1977

2nd(3回)
1976, 1979, 1982
プロボウル選出(4回)
1976, 1977, 1978, 1979
その他受賞・記録
  • 1970年代NFLオールディケイドチーム[1]
  • QBサック1位:1977年(非公式記録)
  • NFL最優秀守備選手:1977年
NFL 通算成績
QBサック 114回[1]
出場試合数 158試合
インターセプト 2回
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR

ハーベイ・マーティン(Harvey Martin 1950年11月16日-2001年12月24日)はテキサス州ダラス出身のアメリカンフットボール選手。NFLダラス・カウボーイズで1973年から1983年までプレーした。ポジションはディフェンシブエンド第12回スーパーボウルランディ・ホワイト英語版とともにスーパーボウルMVPに選ばれた。ドゥームズデイ・ディフェンス英語版(地獄の守備網)の一員として1970年代に活躍した[1][2]

経歴

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プロ入りまで

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高校2年のときにアメリカンフットボールを始めた。その年チームは9勝1敗、彼は控えのオフェンシブタックルとして、大量リードした場面でのみプレーした。高校3年の春、ディフェンシブタックルにコンバートされた。その年3試合目で先発となり、チームは12勝1敗でダラス市選手権に優勝、テキサス州のベスト4になった。彼はまだ痩せていたこともあり、奨学金のオファーは東テキサス州立大学(現テキサス農工大学コマース校)からのみであった。

大学ではピッツバーグ・スティーラーズに入団するドワイト・ホワイトとルームメートとなった。最初の2年間は平凡なディフェンシブエンドであったが、4年次の1972年にはNAIAのオールアメリカンに選ばれ、チームをNAIA英語版のチャンピオンに導いた。

これらの活躍で1987年、彼はテキサス農工大学コマース校の殿堂入りを果たしている。2008年に同校は2008年にローンスター・カンファレンス英語版と対戦する主催試合で、ハーベイ・マーティン・クラシックを始めた。2007年にはローンスター・カンファレンスの75周年記念フットボールチーム、1970年代最優秀守備選手に選ばれた。2010年にはカンファレンスの殿堂入りを果たしている。

ダラス・カウボーイズ

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1973年NFLドラフト3巡でダラス・カウボーイズに指名されて入団した[3]。コーチは彼がそれまで持ちあわせていなかった積極性、自信、精神的強さが身につくよう指導した。彼はフィジカルを強くするとともに、後にプロフットボール殿堂入りを果たすレイフィールド・ライトとの練習でテクニックを身に着けていった。3シーズン目の1975年には"Too Mean"のニックネームを名づけられ[1]先発選手となった。NFLは1982年までQBサックを公式記録としていなかったが。カウボーイズはそれ以前よりQBサックを記録しており、彼は通算114サックをあげた[1]。現役時代7シーズンチームトップのサックをあげた[1]

新人であった1973年、彼はパスが予想される場面でのパスラッシャーとしての起用であったが、8サックをあげてウィリー・タウンズが持っていたチームの新人記録を更新した[3]。3シーズン目の1975年に先発に昇格し、トゥー・トール・ジョーンズの逆サイドを守った[3]

1976年から1979年まで4シーズン連続でプロボウルに選ばれた[1]

1977年には14試合で85タックル及びリーグトップの23サック(NFL公式記録であるマイケル・ストレイハンの22.5サックより多い。)をあげて、NFL最優秀守備選手[1]、オールプロに選ばれた。また第12回スーパーボウルではランディ・ホワイト英語版とともにスーパーボウルMVPに選ばれた[1]

1978年には14サック、1979年には9サック、1セイフティ1980年には12サックをあげた[3]

1983年シーズンを最後に現役を引退した[3]

ドン・メレディスと共に高校、大学、プロとテキサス州北部をホームとするチームでプレーした数少ない選手である。

2009年、テキサス州スポーツ殿堂入りを果たした。

現役引退後

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1984年の現役引退後、NBCのスポーツ解説者を務めたり、WWFが1986年に開催したレッスルマニア2バトルロイヤルに出場したり、WCCWGWFリングサイドコメンテーターを数回務めた。

金銭トラブルや法的トラブルを起こした[4]

1983年にトム・ランドリーによりリハビリ施設に送られた[5]

その後もドラッグやアルコールを続け、1996年には同棲しているガールフレンドへのドメスティックバイオレンスで何度も逮捕され[5]、その年の夏にコカインの服用で有罪となり、8ヶ月裁判所が命じるリハビリプログラムを受けることとなった。

その後、元チームメートのジョン・ニーランドのもとで、化学製品を売る仕事に就いた。晩年彼は、子供たちや中毒患者に対してドラッグの恐ろしさを説明し続けた。

2001年12月、膵癌のため51歳で亡くなった[4][6]。スーパーボウルMVP受賞者で亡くなったのは彼が最初であった。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i Chris Young (2010年6月28日). “Dallas Cowboys All-Franchise Team/With Video”. bleacherreport.com. 2012年11月12日閲覧。
  2. ^ 印象に残る守備陣のニックネームTOP6”. NFL JAPAN (2012年5月16日). 2012年11月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e JW Nix (2011年2月28日). “NFL All-Decade All-Time Canton Snubs: Defense”. bleacherreport.com. 2012年11月12日閲覧。
  4. ^ a b GERRY FRALEY (2011年2月2日). “North Texas pipeline: DFW high schools lay groundwork for elite players to make impact on biggest stage”. ダラス・モーニングニュース. 2012年11月12日閲覧。
  5. ^ a b The Comeback of Harvey Martin”. dallasobserver.com (1998年1月8日). 2012年11月12日閲覧。
  6. ^ Harvey Martin”. findagrave.com. 2012年11月12日閲覧。

外部リンク

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