ヘンリー・ハワード (第12代サフォーク伯爵)
第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード Henry Howard, 12th Earl of Suffolk | |
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生年月日 | 1739年5月16日 |
没年月日 | 1779年3月7日 |
出身校 | イートン・カレッジ |
称号 | ガーター勲章 |
内閣 | ノース内閣 |
在任期間 | 1771年 - 1771年 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 | ノース内閣 |
在任期間 | 1771年6月12日 - 1779年3月7日 |
国王 | ジョージ3世 |
第12代サフォーク伯爵・第5代バークシャー伯爵ヘンリー・ハワード(英語: Henry Howard, 12th Earl of Suffolk, 5th Earl of Berkshire、KG、PC、1739年5月16日 - 1779年3月7日)は、グレートブリテン王国の政治家。1756年から1757年にかけてはアンドーバー子爵。
経歴
[編集]ハワードはイートン・カレッジとモードリン・カレッジで教育を受けたのち、1757年にサフォーク伯を襲爵した。オックスフォード大学では1759年に文学の修士号を、1761年に民法の博士号を得た。1763年から1767年までマームズベリー執事長を務め、63年から1765年までは副軍務伯でもあった。
1771年にノース内閣で枢密顧問官に任命され、北部担当国務大臣に就任するまでは王璽尚書を担っていた。アメリカ革命が起こるとヘッセンやハノーヴァーの傭兵を募り、これの鎮圧に当たらせている。また1772年のグスタフ3世の反乱では、これを鎮圧しようとしたロシア帝国に反発し、スウェーデンの独立を支持した。
1778年にガーター騎士団へ列せられた。1779年3月7日に死去。遺体は1人目の妻とともにウィルトシャーのチャールトン教会へ埋葬された。
子女
[編集]ハワードは生涯2度結婚している。1764年5月25日に初代ハンプデン子爵ロバート・ハンプデン=トレヴァーの娘であるマリア・コンスタンシア・ハンプデン=トレヴァーと結婚し、1子を儲けた。彼女は娘を生んだその日に死去している。
- マリア・コンスタンシア・ハワード(1767年2月7日 - 1775年7月21日)
1777年8月14日に2人目の妻となる第3代アイルズフォード伯爵ヘンエッジ・フィンチの娘シャーロット・フィンチと結婚した。彼女との間には2子を儲けた。
- アンドーバー子爵ジョージ・ハワード(1778年9月 - 1778年12月27日)
- 第13代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード(1779年8月8日 - 1779年8月10日)
第13代サフォーク伯爵ヘンリーは彼の死後に生まれた子であるが、出生2日後に死亡したため、サフォーク伯の爵号はわずか2日で大叔父が襲爵することとなった。
参考文献
[編集]- Thomas, Peter D. G. (25 May 2006) [23 September 2004]. "Howard, Henry, twelfth earl of Suffolk and fifth earl of Berkshire". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/39576。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
外部リンク
[編集]- "ヘンリー・ハワードの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
公職 | ||
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先代 エフィンガム伯爵 | 副軍務伯 1763年 - 1765年 | 次代 スカーバラ伯爵 |
先代 ハリファックス伯爵 | 王璽尚書 1771年 | 次代 グラフトン公爵 |
先代 ハリファックス伯爵 | 北部担当国務大臣 1771年 - 1779年 | 次代 ウェイマス子爵 |
先代 ロッチフォード伯爵 | 貴族院院内総務 1775年 – 1779年 | 次代 ウェイマス子爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ハワード | サフォーク伯爵 1757年 – 1779年 | 次代 ヘンリー・ハワード |
バークシャー伯爵 1757年 – 1779年 |