ボーパールの戦い
ボーパールの戦い Battle of Bhopal | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
マラーター王国 | |||||||
指揮官 | |||||||
アーサフ・ジャー サアーダト・アリー・ハーン スルターン・ムハンマド・ハーン イーシュヴァリー・シング プラタープ・シング | バージー・ラーオ | ||||||
戦力 | |||||||
200,000 人以上 大砲100門以上 | 100,000 人以上 (大半は騎兵) 30門-50門の大砲 | ||||||
被害者数 | |||||||
35,000人以上 | 7,000人以上 |
ボーパールの戦い(ボーパールのたたかい、英語:Battle of Bhopal)は、1737年12月24日にインドのボーパールにおいて、ムガル帝国の援軍としての連合軍とマラーター王国の軍勢との間で行われた戦い。ここでも軍事的な才能に長けたバージー・ラーオが勝利をつかんだ。
戦闘に至る経緯
[編集]1737年3月28日、マラーター王国宰相バージー・ラーオはデリーの戦いでムガル帝国の軍勢に勝利したのち、帝国が要請していたニザーム王国などをはじめとする軍を迎え討つため、すぐさま帰還の途に着いた。このとき、帝国の援軍にはニザーム王国の軍を中心に、アワド太守、ジャイプル王国(ラージプート)、バーラトプル王国、更にボーパールのナワーブ(ボーパール太守)であるスルターン・ムハンマド・ハーンなどが加わっていた。
戦闘とその後の経過
[編集]こうして、同年12月24日、マラーター王国軍とムガル帝国の援軍である連合軍がボーパールの近郊で激突した[2]。 連合軍は20万を超し、マラーター王国軍はその半分であったにもかかわらず、バージー・ラーオのその才能によってマラーター軍は再び勝利を掴んだ。戦いののち、ボーパールに包囲されたニザームはマラーターに講和を申し入れた[2] [3]。
こうして、1738年1月7日、マラーターとニザームの間に講和が結ばれ(ボーパール条約)、協定によりマラーターはニザームからマールワーを割譲させた[4]。この協定は皇帝ムハンマド・シャーの認可を受けた[3]。
脚注
[編集]- ^ 1
- ^ a b Maratha Chronicles Peshwas (Part 2) Glory of the Peshwas
- ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.215
- ^ S.R. Bakshi and O.P. Ralhan (2007). Madhya Pradesh Through the Ages. Sarup & Sons. p. 384. ISBN 978-81-7625-806-7
参考文献
[編集]- 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年