ムイズッディーン・バフラーム・シャー
ムイズッディーン・バフラーム・シャー | |
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奴隷王朝第6代君主 | |
ムイズッディーン・バフラーム・シャーのコイン | |
在位 | 1240年 - 1242年 |
出生 | 1205年以降 |
死去 | 1242年5月15日 |
王朝 | 奴隷王朝 |
父親 | シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ |
ムイズッディーン・バフラーム・シャー(Muiz ud din Bahram Shah, 1205年以降 - 1242年5月15日)は、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第6代君主(在位:1240年 - 1242年)。第3代君主であるシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの息子にあたる。
生涯
[編集]1240年、姉のラズィーヤが遠征中に反乱でとらえられたことにより、弟であるバフラーム・シャーがデリーでトルコ系貴族ら擁立された[1]。その後、デリーに進軍してきた姉の軍勢を破り、バフラーム・シャーの地位は確固としたものとなった[1]。
だが、バフラーム・シャーはトルコ系遺族がラズィーヤに対抗するために擁立されたにすぎず、その実権はチェハルガーニーの一人で摂政マリク・イフティヤールッディーン・アイトゥキーンに握られていた[2]。アイトゥキーンはバフラーム・シャーの妹と結婚したばかりか[2]、象を保有し、自邸の前で日に3日音楽を演奏させるなど、あたかも事実上の王であるかのように振る舞った[3]。
バフラーム・シャーはアイトゥキーンの横暴に耐え切れなくなり、その暗殺を計画して実行した。だが、別の有力者バドルッディーン・スンカルが権力を握り、彼の打倒を計画した[3]。のち、スンカルの計画は露見するところとなり、バフラーム・シャーは彼と賛同者数人を殺害した。
そうしたなか、1241年冬にオゴデイ・ハーンの派遣したモンゴル軍が北インドに侵攻し、多数の人々が虐殺されるところとなった[3]。バフラーム・シャーはこれに応戦するため、チェハルガーニーらにトルコ系貴族にデリーから出陣させたが、彼らは自分たちを死なせているのだと思い込み、デリーへと帰還した[3]。こうして、デリーはトルコ系貴族に3か月にわたり包囲されたのち、1242年5月に攻略されてしまい、バフラーム・シャーは投獄され、同月15日に殺害された。
バフラーム・シャーが投獄された際、マリク・イズッディーン・バルバンという人物が王位を宣しているが、これはチェハルガーニーには認められず、彼の一人芝居に終わった[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 荒松雄『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』未来社、2006年。
- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。