モンゴル系民族

モンゴル系民族(Mongolic peoples)は、モンゴル語族の言語を母語とする諸民族の総称。主な居住域はモンゴル高原(現在のモンゴル国中華人民共和国内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域(中央ユーラシア)。

大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・ブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。

現在のモンゴル系民族

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モンゴル諸語の分布図
  現在のモンゴル系民族の居住地域
  13世紀後半のモンゴル帝国

分布

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モンゴル国および中華人民共和国におけるモンゴル族の自治区域

外モンゴル(モンゴル国)

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現在のモンゴル国にあたる「外蒙古(がいもうこ)」とは、「内蒙古」とともに朝時代につけられた呼び名で、現在も世界的に使われる用語である(英語でOuter Mongoliaと呼ぶ)。しかし、清朝側から見たこの呼称はモンゴル人に嫌われており、モンゴル人自身では「北(アル)モンゴル」と称している。また、モンゴル国の8割弱がハルハ族と呼ばれるモンゴル系の民族で占められているため、「ハルハ・モンゴル」とも呼ばれる。モンゴル国は世界で唯一のモンゴル人の独立国家であり、人口は256万人(2005年)、そのうち8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テュルク系民族の16部族が居住する。言語はハルハ・モンゴル語が標準語で、文字は1941年以来キリル文字であるが、民主化後は古来の縦書きモンゴル文字を復活させようという動きがある。

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内モンゴル(中国・内蒙古自治区)

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現在中国領である内モンゴル自治区は、清朝時代に「内蒙古(ないもうこ)」と呼ばれ、もともとはモンゴル帝国(北元)の中心地でチャハル・モンゴルの支配域であったが、17世紀に清に編入されて以降中国領となっている。現在もなお「内蒙古」と呼ばれているが、上記の理由からモンゴル人自身では「南(オボル)モンゴル」と呼ばれている。人口はモンゴル国の外モンゴルに対し、モンゴル系モンゴル族が1割であり、残り8割が漢族で占められており、文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいる。文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する。

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その他中国領内のモンゴル

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中国の新疆ウイグル自治区のにはかつてオイラトジュンガル帝国の子孫であるオイラド族が居住しており、ボルタラ・モンゴル自治州バインゴリン・モンゴル自治州が行政区画に存在する。寧夏・甘粛地方にはイスラム教徒であるドンシャン族バオアン族が居住している。

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ロシア領のモンゴル

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ロシア連邦ブリヤート共和国にはモンゴル語北部方言に属するブリヤート語を話すブリヤート人が住んでいる。自治共和国の総人口は97万人(2005年)であり、そのうちの半数はロシア人である。「ブリヤート」とはロシア風の発音で、もともとは「ボリヤド」という。ブリヤート人は12~13世紀ごろ「森の民(オイン・イルゲン)」と呼ばれ、モンゴル北部の森林地帯で狩猟と牧畜を営んでいた。1207年チンギス・カンの長男ジョチによってモンゴル帝国に編入されて以来、モンゴル民族となり、その影響でチベット仏教も広まった。17世紀よりロシアの侵入が始まり、1689年ネルチンスク条約によってロシア領となる。1920年には赤軍により極東共和国が建てられ、まもなくソ連領となり、1923年にはブリヤート・モンゴル自治共和国に編入され、1958年には現在のブリヤート自治共和国に改称された。また、カスピ海北岸のカルムイク共和国には上記のオイラド族と同族であるカルムイク人が住む。「カルムイク」とはヨーロッパ側からの呼び名であり、自称はやはり「オイラド」という。自治共和国の人口は29万人であるが、カルムイク人はその半数以下である。カルムイク語はモンゴル語西部方言に属し、文字はキリル文字の他縦書きモンゴル文字を改良したトド文字を使用する。

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歴史

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東胡

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中国の春秋戦国時代から代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。山戎などとともにの北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。秦の始皇帝が中国を統一したころ、東胡は北方で強大となったが、匈奴冒頓単于の侵攻により東胡王が殺され、その国は滅んだ。のちに東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。[5]

烏桓・鮮卑

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匈奴の冒頓単于によって東胡の国家が滅ぼされると、その残存勢力は烏桓山や鮮卑山に逃れたため、それぞれ烏桓、鮮卑と呼ばれるようになる。烏桓は早くから匈奴の臣下となっていたが、匈奴の壺衍鞮単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代以降、叛服を繰り返すようになり、後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当たるようになった。鮮卑も前漢時代は匈奴に属していたが、目立った動きはせず、後漢の時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、檀石槐の時代には大帝国を築いた。檀石槐の死後は部族が分裂し、拓跋部慕容部宇文部段部といった勢力が生まれ、五胡十六国時代南北朝時代をもたらした。

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柔然

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柔然はもともと鮮卑拓跋部に属していたが、拓跋部が中国へ移住後(北魏)、高車などを吸収してモンゴル高原で勢力を拡大し、可汗(かがん)を中心とする遊牧帝国を築いた。柔然はたびたび中国北部の拓跋氏の王朝北魏や、属民である高車などと衝突したが、6世紀の中頃に鍛鉄奴隷である突厥によって国を奪われてしまう。

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契丹・奚・豆莫婁

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契丹4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。契丹、豆莫婁室韋は東部鮮卑の流れを汲むとされており、その言語は同じであるとされる。[8]

契丹は10世紀耶律阿保機のもとで国家を整備し、王朝()を築いた。1004年には北宋澶淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになると、経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。しかし遼の上層部は次第に堕落し、内部抗争も激しさを増したため、1125年女真族の王朝の侵攻により遼は滅ぼされた。その余勢は中央アジアに逃れ西遼(カラ・キタイ)を建国した。

室韋(三十姓タタル)

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室韋・契丹とも中国史書には東胡の子孫であるとか、鮮卑の子孫であると記述されており[9]、室韋の一部族蒙兀室韋(蒙瓦部)がのちのモンゴルであることから、これらの民族系統はモンゴル系と推測される。しかし、大室韋などは「言葉が通じない」とあることから[10]、すべてがモンゴル系というわけではないといえる。

モンゴル部

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中国の歴史書に室韋の一部族として「蒙兀室韋」[11]、「蒙瓦部」[12]という漢字名で記されたのがモンゴルの初出である。11世紀になると、「萌古国」という表記で『遼史』に登場し、遼帝国に朝貢していた[13]。このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んであおり、そのころの指導者はトンビナイ・セチェンと考えられる[14]1125年女真族の金帝国が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カンとなったのはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンであった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりしたため、次のアンバガイ・カンの時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。その後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇を討つべく、モンゴル諸氏族を率いて金朝に攻め入り、敵軍を破って多数の略奪品を持ち帰った。これによって彼はモンゴルの吟遊詩人が熱愛する英雄となった。クトラ・カンの後、モンゴルのカンは空位となり、代わってクトラ・カンの甥にあたるイェスゲイ・バアトルキヤン氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。[15]

モンゴル帝国

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イェスゲイ・バアトルの子テムジンは周辺諸族を取りまとめ、1206年チンギス・カンに即位し、イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国した。通常この政権をモンゴル帝国と呼ぶ。モンゴル帝国14世紀になると、東アジアの元朝、南ロシアのジョチ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルス(イルハン朝)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の4国に分かれ、一種の世界連邦を構成した。モンゴル系民族がユーラシア全土に広まったのはこの時代といってよい。

モンゴルとオイラト

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元朝が1368年に漢民族の明朝に打倒されると、モンゴル民族は中国を捨ててモンゴル高原に後退した。通常この政権を北元と呼ぶ。しかし、モンゴルに支配されていた漢民族の政権である明朝では「蒙古」とは呼ばず「韃靼」と呼んだ。北元政権ではハーンの王統が不安定であり、クビライの王統であったり、アリクブケの王統であったりで、常にオイラト部族による擁立が頻発した。一時はエセン・ハーンというオイラト部族の出身者がハーンに即位したが、モンゴル部族出身のダヤン・ハーンの中興によってオイラトは打倒され、新たなモンゴル帝国が再構築された。[16]

ジュンガル帝国

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17世紀、ダヤン・ハーンの一族によって打倒されたオイラト部族連合はモンゴル西部~ジュンガル盆地におり、その盟主はドルベト部で、ドルベト部の左翼を担っていたのが、ジュンガル部であった。やがてオイラト部族連合はモンゴルのハルハ部を破って独立を果たしたが、新たなオイラト盟主ホシュート部で内乱がおこると、オイラトのトルグート部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在のカルムィク人となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのがグーシ・ハーンであった。彼はチベット仏教ゲルク派を擁護し、施主として青海に本拠を置いた。これが青海ホショト部となり、現在のオイラド族となる。一方、盟主がいなくなったオイラト本国はジュンガル部族長のバートル・ホンタイジに任され、ジュンガル部が新たな盟主となり、次のガルダン・ハーンの代でモンゴルを破って最大版図を実現し、ジュンガル帝国と呼べる政権を築く。1755年、清朝の侵攻によりジュンガルの帝国は崩壊し、その支配下に入ったが、天然痘の流行によりジュンガルの移民はほぼ全滅した。後に無人地帯となったイリ地方にヴォルガ河畔から一部のトルグート部が帰還した。これも現在のオイラド族となる。[17]

清朝・外モンゴル(ハルハ)と内モンゴル(チャハル)

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ダヤン・ハーンによって再構築されたモンゴル帝国は左翼のチャハルハルハウリヤンハイと、右翼のオルドス部トメトヨンシエブの6トゥメンに分かれ、やがて現在のモンゴル国に当たる地域にはハルハ系のチェチェン・ハーン部トシェート・ハーン部ジャサクト・ハーン部サイン・ノヤン部が形成され、清朝の支配下に入ると「外蒙古」と呼ばれた。現在の内モンゴル自治区に当たる地域にはジェリム盟ジョソト盟ジョーオダ盟シリンゴル盟ウランチャブ盟イフ・ジョー盟アラシャン・オーロト部エジネ・トルグート部などが形成され、清代に「内蒙古」と呼ばれた。[18]

歴史上のモンゴル系民族

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諸説あり、確証はないが、わずかでもモンゴル系民族とされている民族を以下に挙げる。

  • 東胡…近年は鮮卑(とくに拓跋部)の言語がモンゴル系であること[19][20]、東胡時代の遺跡や遺物から鮮卑や烏丸に特徴的な習俗の痕跡が発見されていることから、東胡もモンゴル系とみる解釈が有力視されている[21]
  • 鮮卑…古くは テュルク系であるとする説[22]があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語モンゴル系であるという説が有力となっている[23]
  • 烏桓…『三国志』や『後漢書』に「鮮卑の言語は烏桓と同じである」とあることから、鮮卑の言語がモンゴル系だとすれば、烏桓の言語もモンゴル系となる[24]
  • 柔然…可汗名の研究により、モンゴル系であるとされている。[25]
  • 契丹白鳥庫吉は中国史書から契丹語を抽出し、これを当時の北アジア諸民族の言語と比較した結果、ある単語はモンゴル語、またある単語はツングース語で解きえるとし、契丹語はモンゴル語とツングース語の混成であると推論、現代でいえばソロン人ダフール人かのどちらかに該当するとした。さらにソロン人とダフール人の使用する数詞と、中国の史書の中から抽出した契丹語の数詞「一、五、百」の三語を対照させて、それがダフール語に最も近似しているとした(1912年)。またロシアのニコラス・ポッペの研究によってダフール語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言であることが明らかにされた(1934年)。よって、契丹語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言に最も近い言語と考えてよい。[26]
  • 室韋…中国の史書によると、室韋の言語は庫莫奚,契丹,豆莫婁と同じであることから[8]、モンゴル系である可能性が高い。
  • …中国の史書によると、室韋の言語は庫莫奚,契丹,豆莫婁と同じであることから[8]、モンゴル系である可能性が高い。
  • 豆莫婁…中国の史書によると、室韋の言語は庫莫奚,契丹,豆莫婁と同じであることから[8]、モンゴル系である可能性が高い。
  • 九姓タタル
  • 烏古
  • 阻卜
  • タタル部
  • ケレイトラシードゥッディーンは『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』において、中央ユーラシア草原の遊牧民を大きく四つに分類し、第三類「以前は独立した首長を持っていたが、第二のテュルク部族とも第四のモンゴル族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族」にケレイトを含めている。つまり、テュルク系ではあるが、モンゴル系に近い言語、もしくはテュルク系とモンゴル系の中間に位置する言語であったと推測される。そのため、ケレイトはテュルク系ともモンゴル系ともされている[27]
  • オイラト
  • エルクト・モンゴル族

遺伝子

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モンゴル系民族にはY染色体ハプログループC2系統が高頻度に観察される[28]モンゴル民族 52%[29]-54%[30]ダウール族 31%[30]など)。また、ハプログループN (Y染色体)も中頻度で見られる(ブリヤート人 34.5% (20.2%,[31]25.0%,[32]30.9%,[33]48.0%[34])、モンゴル民族 11%[30][32][33][35][36][37]カルムイク人 10.4%[37][38])。

脚注

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  1. ^ 金岡 2000,p24‐25
  2. ^ 金岡 2000,p25‐27
  3. ^ 金岡 2000,p27
  4. ^ 金岡 2000,p28‐29
  5. ^ 『史記』匈奴列伝
  6. ^ 『三国志』烏丸鮮卑等伝、『晋書』載記
  7. ^ 『魏書』列伝第九十一、『北史』列伝第八十六
  8. ^ a b c d 『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二
  9. ^ 『隋書』『北史』『新唐書』『新五代史』
  10. ^ 『隋書』列伝第四十九 北狄「又西北數千里,至大室韋,徑路險阻,語言不通。」,『北史』列伝第八十二「又西北數千里至大室韋,徑路險阻,言語不通。」
  11. ^ 『旧唐書』列伝第一百四十九下 北狄
  12. ^ 『新唐書』列伝第一百四十四 北狄
  13. ^ 『遼史』本紀第二十四 道宗四
  14. ^ 宮脇 2002,p66
  15. ^ 村上 1970
  16. ^ 岡田 2004
  17. ^ 宮脇 2002,p188-213
  18. ^ 宮脇 2002,p223
  19. ^ Pullyblank(1962)やLigeti(1970)によると、鮮卑語の特徴はモンゴル語であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》
  20. ^ L.Ligeti(Le Tabghatch,un dialecte de la langue Sien-pi,1970)は、鮮卑拓跋語はモンゴル語の特徴を有し、テュルク語の特徴とは相容れないと強調する。《内田 1975,p4》
  21. ^ 『東北古代民族研究論網』
  22. ^ Boodberg (1936)Bazin (1950) は、東胡の子孫である鮮卑族、特に拓跋部の言語を turkish ないし proto-turkish original であるとした。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》
  23. ^ Pullyblank (1962)Ligeti (1970) によると、鮮卑語(特に拓跋語)の特徴はモンゴル語であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》
  24. ^ 『三国志』鮮卑伝(王沈『魏書』)「其言語習俗與烏丸同。」、『後漢書』鮮卑伝「其言語習俗與烏桓同。」
  25. ^ 『騎馬民族史1』p217
  26. ^ 島田 2014年,p99-100
  27. ^ 宮脇 2002,p138
  28. ^ 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)
  29. ^ Karafet T, Xu L, Du R et al. (September 2001). "Paternal population history of East Asia: sources, patterns, and microevolutionary processes". Am. J. Hum. Genet. 69 (3): 615–28. doi:10.1086/323299. PMC 1235490. PMID 11481588.
  30. ^ a b c Yali Xue, Tatiana Zerjal, Weidong Bao, Suling Zhu, Qunfang Shu, Jiujin Xu, Ruofu Du, Songbin Fu, Pu Li, Matthew E. Hurles, Huanming Yang, and Chris Tyler-Smith, "Male Demography in East Asia: A North–South Contrast in Human Population Expansion Times." Genetics 172: 2431–2439 (April 2006). doi:10.1534/genetics.105.054270
  31. ^ Miroslava Derenko, Boris Malyarchuk, Galina A. Denisova, et al., "Contrasting patterns of Y-chromosome variation in South Siberian populations from Baikal and Altai-Sayan regions." Hum Genet (2006) 118: 591–604. DOI 10.1007/s00439-005-0076-y
  32. ^ a b Soon-Hee Kim, Ki-Cheol Kim, Dong-Jik Shin, Han-Jun Jin, Kyoung-Don Kwak, Myun-Soo Han, Joon-Myong Song, Won Kim, and Wook Kim, "High frequencies of Y-chromosome haplogroup O2b-SRY465 lineages in Korea: a genetic perspective on the peopling of Korea." Investigative Genetics 2011, 2:10.
  33. ^ a b Hammer, Michael F.; Karafet, Tatiana M.; Park, Hwayong; Omoto, Keiichi; Harihara, Shinji; Stoneking, Mark; Horai, Satoshi (2006). "Dual origins of the Japanese: Common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes". Journal of Human Genetics 51 (1): 47–58. doi:10.1007/s10038-005-0322-0. PMID 16328082.
  34. ^ V. N. Kharkov, K. V. Khamina, O. F. Medvedeva, K. V. Simonova, E. R. Eremina, and V. A. Stepanov, "Gene Pool of Buryats: Clinal Variability and Territorial Subdivision Based on Data of Y-Chromosome Markers." ISSN 1022-7954, Russian Journal of Genetics, 2014, Vol. 50, No. 2, pp. 180–190. doi:10.1134/S1022795413110082
  35. ^ Toru Katoh, Batmunkh Munkhbat, Kenichi Tounai, et al., "Genetic features of Mongolian ethnic groups revealed by Y-chromosomal analysis." Gene 346 (2005) 63–70. doi:10.1016/j.gene.2004.10.023
  36. ^ Di Cristofaro J, Pennarun E, Mazières S, Myres NM, Lin AA, et al. (2013), "Afghan Hindu Kush: Where Eurasian Sub-Continent Gene Flows Converge." PLoS ONE 8(10): e76748. doi:10.1371/journal.pone.0076748
  37. ^ a b Natalia Balinova, Helen Post, Siiri Rootsi, et al. (2019), "Y-chromosomal analysis of clan structure of Kalmyks, the only European Mongol people, and their relationship to Oirat-Mongols of Inner Asia." European Journal of Human Genetics doi:10.1038/s41431-019-0399-0
  38. ^ Boris Malyarchuk, Miroslava Derenko, Galina Denisova, Sanj Khoyt, Marcin Woźniak, Tomasz Grzybowski, and Ilya Zakharov, "Y-chromosome diversity in the Kalmyks at the ethnical and tribal levels." Journal of Human Genetics (2013) 58, 804–811; doi:10.1038/jhg.2013.108; published online 17 October 2013.

参考資料

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関連項目

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