ユリウス・フランツ (ザクセン=ラウエンブルク公)
ユリウス・フランツ Julius Franz | |
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ザクセン=ラウエンブルク公 | |
在位 | 1666年 - 1689年 |
出生 | 1641年9月16日 ボヘミア王国、プラハ |
死去 | 1689年9月30日(48歳没) ボヘミア王国、ライヒシュタット |
配偶者 | ヘートヴィヒ・フォン・プファルツ=ズルツバッハ |
子女 | マリア・アンナ・テレジア アンナ・マリア フランツィスカ・ジビッラ・アウグスタ |
家名 | アスカーニエン家 |
父親 | ザクセン=ラウエンブルク公ユリウス・ハインリヒ |
母親 | アンナ・マグダレーナ・フォン・ロプコヴィッツ |
ユリウス・フランツ(Julius Franz, 1641年9月16日 - 1689年9月30日)は、アスカーニエン家最後のザクセン=ラウエンブルク公(在位:1666年 - 1689年)。ユリウス・ハインリヒと3番目の妻アンナ・マグダレーナ・フォン・ロプコヴィッツの息子。
生涯
[編集]1666年、異母兄のフランツ・エルトマンが子の無いまま死んだため、公位を相続した。しかし、ユリウス・フランツにも息子がないため、公位の相続が問題となった。ユリウス・フランツは自分の死後は2人の娘に相続権があると遺言を残して、1689年に亡くなり、ザクセン=ラウエンブルク系アスカーニエン家の男系は断絶した。
ところが、リューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムが軍を派遣、ラウエンブルクを占領した。ゲオルク・ヴィルヘルムは父方の曽祖母ドロテアを通してアスカーニエン家の血を引いていたため、相続権を主張したのであった。さらにメクレンブルク=シュヴェリーン、ホルシュタイン、アンハルト侯国、デンマーク、スウェーデンも領土を巡って衝突した。
1693年10月9日にハンブルクでゲオルク・ヴィルヘルムとデンマーク・ノルウェー王クリスチャン5世との間で和睦が成立、ゲオルク・ヴィルヘルムはリューネブルク侯とザクセン=ラウエンブルク公の同君連合を認められた。この2つの領国はゲオルク・ヴィルヘルムの死後は甥で婿のグレートブリテン王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世が相続、ハノーヴァー朝のドイツ領国に組み込まれた。
子女
[編集]プファルツ=ズルツバッハ公クリスティアン・アウグストの娘ヘートヴィヒと結婚、3人の娘を儲けた。
- マリア・アンナ・テレジア(1670年 - 1671年)
- アンナ・マリア(1672年 - 1741年) - プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの息子フィリップ・ヴィルヘルム・アウグストと結婚、死別後にトスカーナ大公ジャン・ガストーネと再婚。
- フランツィスカ・ジビッラ・アウグスタ(1675年 - 1733年) - バーデン=バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと結婚。
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