ヨハン・テッツェル
ヨハン・テッツェル(ドイツ語: Johann Tetzel、Johann Tezelとも、 1465年 - 1519年8月11日)は、ドミニコ会の修道士で、16世紀前半にドイツで免罪符を配布・販売した中心人物の一人として知られている。
概要
[編集]ヨハン・テッツェルはドイツ・ザクセン公国で1465年に生まれ、1519年8月11日ライプツィヒで亡くなっている。彼はおそらくライプツィヒで修道士となり、1509年にはポーランドへ移り、後にザクセン公国へ戻っている[1]。
彼を歴史に登場させたのは、マインツでブランデンブルクのアルバート(Albert of Brandenburg)枢機卿のために、免罪符配布/販売の中心人物の一人となり、後にマルティン・ルターのプロテスタント宗教改革の契機(1517年)のひとつとなったといわれている。
テッツェルの売り口上
[編集]ヨハン・テッツェルが配布した免罪符は、富裕な市民へは6グルデン、その他の一般市民へは1グルデンで、村に住む人々へは1/2グルデンとか、1/4グルデンとか伝えられている。彼の売り口上がいろいろと引用されて有名になっているが、それは韻を踏んだ対句のドイツ語で
であったとか、これを英語では
とか、日本語では
などとなるが、彼はうやうやしくラテン語でいったのか、韻を踏んだ対句だったのか、果たしてこうしたことを実際にいったかは分っていない。[3]