ローマ共和国 (19世紀)

ローマ共和国
Repubblica Romana (イタリア語)
教皇領 1849年
2月9日 - 7月2日
教皇領
ローマ共和国の国旗 ローマ共和国の国章
国旗国章
国の標語: DIO E POPOLO(イタリア語)
神と人民
国歌: Il Canto degli Italiani(イタリア語)
イタリア人達の唱歌
ローマ共和国の位置
1849年の教皇国の領土。ローマ共和国も同じ領域を領土とした。
公用語 イタリア語
宗教 ローマ・カトリック
首都 ローマ
三頭政治
1849年 - 1849年
面積
1849年12,100km²
人口
1849年3,000,000人
変遷
建国 1849年2月9日
フランスの侵攻1849年4月25日
崩壊1849年7月2日
通貨スクード
現在イタリアの旗 イタリア
バチカンの旗 バチカン
軍旗(ミラノ・リソルジメント博物館所蔵)

ローマ共和国(ローマきょうわこく、イタリア語: Repubblica Romana)は、教皇ピウス9世ガエータへ退避したことにより1849年2月9日に宣言された、一時的に教皇領に取って代わった短命の国家である。共和国の指導者はカルロ・アルメッリーニジュゼッペ・マッツィーニアウレリオ・サッフィの3名であり、彼らは三頭政治を形成した。これは、紀元前1世紀の共和政ローマ危機に際して採られた統治形態を反映したものであった。

ローマ共和国が達成しようとした主要な改革の一つは、その憲法に明記された信仰の自由であった。これにより、教皇ピウス9世およびその後継者にはカトリック教会を統治する権利が保証された。この宗教的自由は、それ以前の政府がカトリックとユダヤ教のみを市民に認めていた状況とは大きく異なっていた。さらに、ローマ共和国憲法は、世界で初めて死刑を廃止した憲法でもあった[1]

歴史

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ローマでは、1848年フランス二月革命の影響で11月にローマ教皇ピウス9世がローマを脱出し、11月15日教皇国家の首相ペッレグリーノ・ロッシ暗殺され、無政府状態になっていた。

1849年2月9日に革命によりローマ共和国が樹立された。教皇はガエータに避難した[2]ジュゼッペ・マッツィーニアウレリオ・サッフィカルロ・アルメッリーニの3人が三頭執政官となった。

しかし、同じ1849年のジュゼッペ・ガリバルディなどのローマ防衛軍は、ローマ大学の戦いイタリア語版においてジャニコロ丘で一時フランス軍を撃退するが、抵抗もむなしく7月3日にルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン3世)率いるフランス軍に降伏した。教皇も1850年にローマに戻った[2]

以後

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イタリア統一運動により1861年にイタリア王国が成立した。さらに教皇領を守護していたフランス軍が普仏戦争によって撤退する[3]と、イタリア王国軍によってローマが占領され、1870年に教皇領は消滅した。

脚注

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  1. ^ Art. 5. – Le pene di morte e di confisca sono proscritte” [The penalties of death and confiscation are proscribed] (イタリア語). Costituzione Della Repubblica Romana (1849年). 2016年1月18日閲覧。
  2. ^ a b ポリアコフ 2巻,p.387-391.
  3. ^ 藤沢, p. 50.

参考文献

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  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第2巻 ムハンマドからマラーノへ』合田正人訳、筑摩書房、2005年8月10日。ISBN 978-4480861221 [原著1961年]
  • 藤沢房俊『第三のローマ イタリア統一からファシズムまで』新書館、2001年11月30日。ISBN 978-4403230929 

関連項目

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