三枝源次郎

さえぐさ げんじろう
三枝 源次郎
本名
生年月日 (1900-09-08) 1900年9月8日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区渋谷
職業 映画監督脚本家
ジャンル 劇映画時代劇現代劇ドキュメンタリー映画サイレント映画トーキー
活動期間 1923年 - 1951年
主な作品
たけくらべ
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三枝 源次郎(さえぐさ げんじろう、1900年9月8日 - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家である[1][2][3][4]

人物・来歴

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日活向島から大将軍へ

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1900年明治33年)9月8日東京府豊多摩郡渋谷村、のちの東京市渋谷区渋谷3丁目8番地に当たる地に生まれる[4]

1921年(大正10年)3月、東京物理学校旧制専門学校、現在の東京理科大学)を卒業し、同年5月、日活向島撮影所監督部に入社する[4]細山喜代松若山治鈴木謙作に師事、同僚助監督の溝口健二とは連日酒杯を傾け、論じあう仲であった[4]。1923年(大正12年)8月10日に公開された若山治監督の『男性の意気』には、脚本家としてクレジットされている[1]。同年9月1日に起きた関東大震災によって同撮影所は壊滅し、現代劇部は日活京都撮影所に移転し、三枝は、そこでも脚本を書き、鈴木謙作の監督作に採用されている[1][5]。1924年(大正13年)7月4日に公開された『民族の黎明』で監督としてデビューした[1]。1925年(大正13年)7月12日に公開された『赫い夕陽に照されて』は、刃傷事件で降板した溝口健二に代わって、三枝が監督し、仕上げた作品である[1][5]

日活の取締役であった杜重直輔が1931年(昭和6年)ころに設立した大日本天然色映画で、翌1932年(昭和7年)、『奇跡の生還』という、当時珍しいカラー映画を監督している[1]。1934年(昭和9年)8月22日に公開されたトーキー日本人なればこそ』を最後に京都を去り、東京の大都映画に移籍、ふたたびサイレント映画を監督した[1]。1935年(昭和10年) - 1941年(昭和16年)の時期、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)に存在した全勝キネマに在籍していた記録がある[6]。一方、『日本映画監督全集』(1976年)誌上に三枝の項目を執筆した岸松雄によれば、三枝が京都を去った年の9月には、日活多摩川撮影所製作部に入社し、5年在籍ののち1939年(昭和14年)に退社し、1940年(昭和15年)1月には「朝日映画製作株式会社[7]に入社して翌年には同社映画部長・製作部長に就任した旨の記述があり[4]文化庁の日本映画情報システムにも、『海国日本』などをはじめとする朝日映画製作(朝日映画社)における1940年 - 1944年の三枝のドキュメンタリー作品が記載されている[3]

ドキュメンタリーからテレビへ

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第二次世界大戦終結後は、独立プロダクションで2本撮った記録が残っている[1]。1947年(昭和22年)、今村貞雄が東京に設立したラジオ映画に入社、製作部長を務めた(1947年 - 1949年)。『日本映画監督全集』における岸によれば、戦時中から引き続き1957年(昭和32年)9月まで朝日映画社に在籍し、同年10月、開局5年後の日本テレビ放送網に入社したという[4]。1969年(昭和44年)に発行された『映画年鑑 1969』には、日本テレビ放送網編成局映画部に在籍している情報とともに、1967年(昭和42年)12月1日の「映画の日」に行われた昭和42年度永年勤続者表彰において、秀映社代表取締役の住田瑛介(役職は当時、以下同様、当時60歳)、飛島興業技術部長の岸田九一郎(当時60歳)、東映東京撮影所監督の伊賀山正徳(当時62歳)、撮影技師川口和男(当時58歳)、東宝撮影技師の玉井正夫(当時60歳)、テレビ現像代表取締役の野村昊(当時70歳)らとともに、表彰されたことが記録されている(当時67歳)[8]。1970年(昭和45年)、日本テレビ放送網嘱託演出[4]

1976年(昭和51年)に刊行された『日本映画監督全集』には、当時存命とされているが、以降の消息は不明である[4]

再評価

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2002年(平成14年)、三枝が大日本天然色映画で監督したカラー映画千人針』(トーキー、1937年)の上映用プリントの一部がロシア国内で発見された[5]。同年10月12日、島根県松江市で行われた第6回松江市民文化祭で、『港の雨』(1933年)が上映されたという記録がある[9]

2004年(平成15年)には、2001年(平成13年)に発掘されて以降、映画保存協会が模索していた復元を、大阪芸術大学教授・太田米男らの協力で実現、『特急三百哩』(1928年)を京都映画祭で上映している[5][10]。同作は2005年(平成16年)のポルデノーネ無声映画祭でも上映され[11]神戸映画資料館、および東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されている[10]

2012年(平成24年)11月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、三枝の脚本作・監督作のうち、『軍神橘中佐』(1926年)、上記の『特急三百哩』(1928年)、『輝く門出』(1933年)の3作の上映用プリントを所蔵している[2]マツダ映画社、あるいはデジタル・ミームの所蔵作品リストには三枝の作品は存在しない[12][13]

フィルモグラフィ

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特筆以外はすべて「監督のみ」であり、1940年代以降のものおよび特筆以外はすべて「白黒映画サイレント映画」である[1][3]

  • 茶色の女』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年1月14日公開
  • 曇り後晴れ』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年1月21日公開
  • 死線突破』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年3月10日公開 - 原作・監督
  • 戦争と女性』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年3月12日公開 - 脚本・監督
  • 霊魂の叫び』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年4月8日公開
  • 拳骨先生』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年5月15日公開
  • 五色の魂』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年6月15日公開
  • 熱血児』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年8月24日公開
  • 当世変り者』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年10月28日公開
  • 赤城の夕映え』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年11月11日公開
  • 女合戦』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年12月27日公開
  • 脱線』 : 製作日活大将軍撮影所、1927年公開
  • 火刑』 : 製作日活太秦撮影所、1930年1月23日公開
  • 黒い結婚』 : 製作日活太秦撮影所、1930年3月21日公開 - 脚本・監督
  • 女七変化』 : 製作日活太秦撮影所、1930年6月7日公開
  • 女盗伝』 : 製作日活太秦撮影所、1930年8月28日公開
  • 続金色夜叉 前篇』 : 製作日活太秦撮影所、1930年11月14日公開
  • 続金色夜叉 後篇』 : 製作日活太秦撮影所、1930年11月21日公開
  • 桐の木』 : 製作日活太秦撮影所、1931年4月8日公開
  • 太平洋横断』 : 製作日活太秦撮影所、1931年6月23日公開
  • 機関車』 : 製作日活太秦撮影所、1931年公開

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 三枝源次郎日本映画データベース、2012年11月8日閲覧。
  2. ^ a b 三枝源次郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e 三枝源次郎、日本映画情報システム、文化庁、2012年11月10日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h キネマ旬報[1976]、p.185.
  5. ^ a b c d e 映画「特急三百哩」(1928)の復元太田米男大阪芸術大学、2012年11月8日閲覧。
  6. ^ 映画公社旧蔵資料目録佐崎順昭東京国立近代美術館、2012年11月8日閲覧。
  7. ^ 岸の原文では「朝日映画株式会社」。キネマ旬報[1976]、p.185.
  8. ^ 年鑑[1969]、p.194.
  9. ^ 広報まつえ10月号 2002 秋のイベント松江市、2012年11月10日閲覧。
  10. ^ a b 鉄道映画の魅力神戸映画資料館、2012年11月8日閲覧。
  11. ^ TOKKYU SANBYAKU MAIRU (イタリア語), ポルデノーネ無声映画祭、2012年11月8日閲覧。
  12. ^ 主な所蔵リストマツダ映画社、2012年11月8日閲覧。
  13. ^ フィルムリストデジタル・ミーム、2012年11月8日閲覧。
  14. ^ 特急三百哩東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月8日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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