上野大仏
上野大仏(うえのだいぶつ)は、東京都台東区上野恩賜公園内で顔だけが現存し、公開されている大仏[1]。所在地は上野精養軒に隣接する大仏山という丘の上で、薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設されている。
元々は江戸時代初期に建立され、幕末までにも火災や地震に度々遭い、1923年(大正12年)の関東大震災で頭部が落下するまでは像高約6メートルの釈迦如来坐像だった[1]。震災後、頭部と胴体は再建に備えて上野寛永寺に保管されていたが、顔面部を除いて第二次世界大戦中の金属供出で持ち去られた[1]。
胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で2000年代前半頃から[1]受験生らが祈願するようになり、「合格大仏」と呼ばれている[2]。
沿革
[編集]- 寛永8年(1631年):越後村上藩主堀直寄が[1]戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立。粘土の表面を漆喰で固めていた[1]。当時の大仏は『江戸図屏風』に露座で描かれている。
- 正保4年(1647年):正保相模の地震により倒壊[1]。
- 慶安2年(1649年):慶安川越地震により、頭部が落下[3]
- 万治年間(1658年 - 1661年):遊行僧浄雲が金銅像として再興。再興は明暦年間(1655年 - 1658年)説がある。再建された大仏は、高さ約6.6メートルの青銅製だった[1]。
- 元禄11年(1698年):寛永寺住職の公弁法親王が、露座であった大仏に仏殿(覆堂)を建立[1]。
- 天保12年(1841年):大仏殿から出火し、頭部が溶け落ちる[1]。
- 天保14年(1843年):堀直央の寄進により大仏を新鋳再建し、仏殿を修復。
- 安政2年(1855年):安政江戸地震により、頭部が破損。再び堀直央の寄進により修復。
- 明治8年(1875年):上野恩賜公園の整備に際して大仏殿を撤去。露座に戻る。
- 大正12年(1923年):関東大震災により頭部が落下。大破した頭部、解体撤去した胴部以下は寛永寺が保管するが、資金の目処が立たず再建計画は放棄される。
- 昭和15年(1940年):軍需金属資源として顔面部を除く頭部、胴部以下が供出され、消滅する。
- 昭和42年(1967年):関東大震災の50回忌にあたり、上野観光連盟が願主となり大仏再建を願う祈願塔を建立。
- 昭和47年(1972年):寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置。
脚注・出典
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、上野大仏に関するカテゴリがあります。
- 上野の「顔だけ」大仏で合格祈願-「これ以上落ちない」と受験生相次ぐ(上野経済新聞)