久居焼
久居焼(ひさいやき)は、三重県久居市(現在の三重県津市)の焼き物。通称ではちゃわん焼と呼ばれていた。[1]
歴史
[編集]万延元年(1860年)久居市本町の上住七兵衛と上島弥兵衛の2人によって、飛び地の川方村大口で久居焼が開始された。自衛隊久井基地前から高茶屋に至る現在の井戸山町で、江戸時代は周辺は一面の松林の山中であった。現在の旧道沿いの北側の台地で、台地の南斜面に登り窯をつき、創業以来この奥の谷から土を採集していた。[2]
久居焼の二代目継承者だった上島岩吉の時代に、この焼き物を更に改善して所々の土を採集して研究した結果、高茶屋村カワラケ野に土質の良い粘土を発見して、この土と奥の谷の土を調和して使用していた。その結果、非常に堅牢な焼き物が完成して、日本各地からその引き合いも増加して明治末期には三重県津市、三重県松阪市、三重県伊勢市から愛知県名古屋市、三河地域、遠江地域、駿河地域にも販路を拡大できた。[3]
窯は幅一間(1.81m)長さ四間(7.2m)位の登り窯が17基あり、最盛期には職人20人位が働き1ヵ月に1回窯出しをして、100俵の陶器を半分は地元久居市・津市・伊勢市・半分は津市の築地から名古屋方面へ船出しをしていた。[4]
久居焼は主要な使用方法は日用茶碗、丼物や茶器、花器の実用品で、粘土が固くて乾燥すると1尺のものが、8寸になってしまったエピソードがある。このような陶器であるから花器の水持ちが良くて、輪を書くというものがなくて重宝がられていた。[5]
久居焼は初代上島弥兵衛、二代目上島岩吉、三代目政蔵、四代目村田菅一の代々当主によって82年間にわたり久居地域の名産の1つになっていた。[6]
上島弥兵衛
[編集]- 上島弥兵衛は幕末から明治時代(1820年~1875年)の人物で久居焼の創設者である。滋賀県信楽地域の人物で幼少期から陶器製作を志望して、各所で修業した。嘉永4年の31歳の時に三重県四日市市に来た人物である。しかし阿倉川の土質が悪かったため加太に引っ越して焼き物を開始した。当時飯南郡射和村の庄助は焼き物の失敗が続いて苦境にあり、これを聞いた射和の豪商竹川竹斎は弥兵衛を招いて焼き物作りを依頼した。弥兵衛は加太村の窯を他人にゆずり、射和の棟梁として苦心して焼き物を完成させた。射和万古焼の始まりである。弥兵衛は射和万古焼から新規独立して竹川氏の反対を押し切り津市に出て、藤堂和泉守の命で現在の津公園御山荘山に釜を建設する計画があったが、竹川氏の反対で計画が中止となり、同時に射和万古焼も中止となった。弥兵衛はこの計画の失敗に屈せず、藤堂家の家臣の近藤の保護と倉田久子八の出資で津船頭町で窯を建設した。これが阿漕焼の元祖で万延元年の春であった。その後久居大口山に良い土質があるのを発見し、同年10月久居本町の上住七兵衛と2人で窯を開いた。これが久居焼の始まりである。弥兵衛は両所の窯を管理して、焼き物製作に励み阿漕焼・久居焼の名は次第に高まっていったが、明治元年の上住の死亡のため阿漕焼を倉田久八に託して、後年は久居焼の製作に専念した。明治8年に55歳で没する。[7]
久居焼の調査所
[編集]- 産地製造所は三重県下の一志郡川方村の大口山へ万延元年より本場。間口は8間。奥行は5間。付属建物は3か所。
- 焼窯は幅100間、奥行3間、深さ1尺。
- 製品は富士形丼、竹形中鍋、三島丼、小皿、中土瓶、小土瓶、兵丹徳利、手付火鉢、花瓶、鍋、火鉢、植鉢。
- 1窯300円。[8]
久居焼の工場調
[編集]- 工場名称は上島陶器製作場
- 所在地は三重県一志郡桃園村大字川方
- 持ち主は上島政蔵
- 創業年月日は万延元年5月5日
- 主要製品は日用品及び茶器・花器
- 1年の就業日数は300日
- 1日の就業時間は10時間
- 職工及び従業員は男性5人、女性2人
- 職工1日1人の賃金は男性40銭、女性20銭[9]
家系図
[編集]- 上島弥兵衛(初代)
- 上島清一郎(上島弥兵衛の甥)
- 上島弥吉(上島弥兵衛甥の息子で阿漕焼の創始者)
- 上島岩吉(2代目で上島弥兵衛の息子)
- ひらえ(上島岩吉の妻)
- 佐久間平四郎(ひらえの兄で飯南郡の錦崋山焼の創始者)
- 射和村の郷士の広次(ひらえの父)
- 上島政蔵(3代目で上島弥兵衛の孫)
- 上島直之(上島弥兵衛の曾孫で大阪府在住・公務員)
- 小楽(上島弥兵衛の孫娘)
- 村田音次郎(小楽の夫)
- 村田菅一(小楽の息子で上島弥兵衛の曾孫。久居焼創始者)[10]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『久居市史』
- 『三重県史』