井上ひろし
井上ひろし | |
---|---|
出生名 | 井上 博 |
生誕 | 1939年4月12日 |
出身地 | 日本・神奈川県横浜市 |
死没 | 1985年9月19日(46歳没) |
ジャンル | ロカビリー 歌謡曲 |
職業 | 歌手 俳優 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1959年 - 1985年 |
共同作業者 | 井上ひろしとドリフターズ |
井上 ひろし(いのうえ ひろし、1939年〈昭和14年〉4月12日 - 1985年〈昭和60年〉9月19日)は、神奈川県横浜市出身の歌手・俳優。横浜商業高校を卒業。 本名は井上 博(読み同じ)。
経歴
[編集]1958年にドリフターズでボーカルを中心としたロカビリー歌手を経て、ドリフターズから独立し1959年11月「雨は泣いている」でデビュー。12月発売の「地下鉄は今日も終電車」は地下鉄丸ノ内線を歌ったもので若い女性の間で絶大な人気を得る。
翌1960年7月、リバイバル曲「雨に咲く花」(原曲は1935年に関種子が歌った)が約100万枚を売り上げ[1]大ヒットした。このヒットによって、リバイバルブームが起こり、井上の「並木の雨」(オリジナルはミス・コロムビア)、佐川満男「無情の夢」(オリジナルは児玉好雄)、「ゴンドラの唄」(オリジナルは松井須磨子)、フランク永井「君恋し」(オリジナルは二村定一)などがヒットした。
水原弘、守屋浩とともにロカビリー三人ひろし(これにかまやつひろしを加え四人ひろしとも)と言われた。
やがて低迷期をむかえ、1970年代は地方のキャバレーをドサ回りする不遇の日々を過ごす。
1985年から、料理店経営のため調理の勉強を始めるが、9月19日、心筋梗塞のため46歳で死去。生涯独身だった。
この節の加筆が望まれています。 |
作品
[編集]井上ひろしとドリフターズ名義
[編集]- 銀のランプ/白い霧のブルース(JP-1027)
- 雨のレンガ道/誰かが泣いてる(JP-1055)
井上ひろし名義
[編集]- 雨は泣いている/霧の中のさようなら(1959年11月)
- 知らなかったんだ(1959年、SA-274)- 片面は、北見沢惇「メランコリーな雨」
- 地下鉄(メトロ)は今日も終電車/お前は俺の恋人(1959年、SA-285)
- 花売りジョニー(1960年、SA-314)- 片面は中田康子「お酒が泣いたのよ」
- 煙草が二箱消えちゃった/雨に咲く花(1960年、SA-390)
- 東京の空の下(1960年、SA-457)- 宝塚ミュージカル・プレイ「東京の空の下」主題歌、片面は明石照子「マリオネット」
- 君と別れて/小雨の丘(1960年12月、SA-485)
- さよなら電報(1961年1月、SA-514)- 片面は島倉千代子の「泣きべそ電話」
- 巷の雨/国内線113便(1961年1月、SA-520)
- 別れの磯千鳥/思い出の雨(1961年2月、SA-532)
- 並木の雨/恋ははかなく(1961年、SA-608)
- 夢が歩いてくる道は(1961年、SA-680)
- 山のロザリア/ジンタが呼んでいる(1961年9月、SA-713)
- 東京ワルツ/別れのタンゴ(1961年9月、SA-719)
- 別れても/花言葉の唄(1961年10月、SA-749)
- 春も知らずに/若い焚火(1963年、SA-1053)
- 京子のほくろ/紫の愁い(1963年8月、SAS-118)
映画
[編集]NHK紅白歌合戦出場歴
[編集]年度/放送回 | 曲目 | 対戦相手 |
---|---|---|
1961年(昭和36年)/第12回 | 別れの磯千鳥 | 神楽坂浮子 |