井上春忠

 
井上春忠
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 井上春忠→井上伯耆入道紹忍(号)
別名 通称:弥四郎→又右衛門尉
略称:井又、井又右
官位 伯耆守受領名
主君 毛利元就小早川隆景毛利輝元加藤嘉明
長州藩伊予松山藩
氏族 清和源氏頼季井上氏
父母 父:不明
養父:井上俊秀
景貞宗右衛門七郎右衛門、女(粟屋盛忠室)
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井上 春忠(いのうえ はるただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏小早川氏の家臣。父は不明だが、『閥閲録』巻52「井上源三郎」に収録された家譜に拠ると養父は井上俊秀安芸井上氏信濃源氏の流れを汲むとされる信濃井上氏の同族。

生涯

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安芸井上氏粛清

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生年や父は不明だが、安芸井上氏に生まれる。『閥閲録』巻52「井上源三郎」の家譜によると、室町期の安芸井上氏の一族とされる井上資明の嫡裔(嫡流の子孫)で井上俊秀の養子と記されている[1]

天文19年(1550年7月12日毛利元就による安芸井上氏粛清の手始めとして、安芸国高田郡竹原(高原)に誘い出された井上元有小早川隆景によって殺害された[2]。翌7月13日には吉田郡山城に呼び出された井上就兼が元就の命を受けた桂就延によって討たれ、時を同じくして元就の命を受けた福原貞俊桂元澄が安芸井上氏惣領の井上元兼の屋敷が襲撃して元兼とその次男・井上就澄を自害に追い込み、さらに井上元有の長男・井上与四郎、元有の弟・井上元重、元重の子・井上就義らも各々の居宅において殺害された[2]

この粛清では多くの安芸井上氏の人物やその与党が討たれている一方で、毛利元就の妹婿である井上元光のように粛清対象外であった人物や、不在だったことで粛清を免れる人物が何人もいた[3]。春忠は粛清が行われた際にはに滞在していたことで粛清を免れており、吉田において安芸井上氏の粛清を見聞した安芸井上氏の一族と考えられている「あはい」という女性から安芸井上氏粛清の様子を知らせる書状を送られ、合わせて「堺から安芸国に下向してはいけない」との忠告を受けている[注釈 1][3]。なお、春忠が堺にいたことを示す書状は同じく粛清を免れている井上就正(孫兵衛)の家に伝来しており、井上就正もこの時に堺にいた可能性が指摘されている[4]

小早川隆景に仕える

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帰国した春忠は、翌天文20年(1551年)に毛利元就の三男で、竹原小早川氏当主であった小早川隆景沼田小早川氏を相続した際、その側近として隆景を支え活躍した。

天文22年(1553年)、大内方から離反した江田隆連の居城・旗返城の支城である高杉城攻めで隆景に従って出陣しており、7月23日の城攻めで城将の祝甲斐守治部大輔父子が戦死して高杉城は陥落した[5]が、この時の戦いで春忠は敵将の馬屋原右衛門尉を討ち取り、隆景から感状を与えられた[6]

天文24年(1555年)、陶晴賢に味方した野間隆実矢野城攻略に従軍し、4月11日の出城の明神山砦攻略で吉川元春配下の森脇春方と共に明神山への一番乗りを果たし、敵兵の首級を得た[7]。また、同年10月1日厳島の戦いにおいても陶軍の敵兵の首級1つを挙げている[8]

永禄4年(1561年)3月、毛利元就・隆元父子らが小早川隆景の居城である新高山城を訪問した際、3月27日に元就は春忠の私宅に宿泊し、隆景相伴のもとで春忠の饗応を受けている[3][9]。このことから春忠が隆景側近の筆頭格で、元就ともこれ以前から昵懇であったことが窺われる[3]

同年に毛利氏が豊前国に出兵した際に春忠も従軍しているが、同年10月10日に比定される児玉就方の首注文の宛所が春忠で元就の袖判が据えられていることから、この時の豊前出兵で春忠は元就の側近の役割を担っていたと考えられている[10]。しかし、同じく従軍していた渡辺長に宛てた元就と隆元の連署状では「隆景被官井上又右衛門尉」、渡辺長の書状でも「沼田衆には井上又右衛門尉」と記されていることから、春忠が隆景の家臣から毛利氏家臣に戻ったわけではなく、隆景の家臣でありながら元就の側近の役割を務めていたことが分かる[10]。一方で、隆景の奉行人としての活動が見られ始めるのも永禄4年(1561年)頃からで、この頃は岡就栄桂景信との連署が多い[10]。また、隆景の家中における序列が下位であったため永禄年間の初めには小早川氏の座配には現れていなかった春忠がこの頃の座配から表れ出し、序列は桂景信より下位で、岡就栄とほぼ同列となっている[10]

同年10月26日、大友軍が豊前国門司城を攻撃すると、小早川隆景が門司城の城兵を率いて迎え撃ち、海上の児玉就方が率いる毛利水軍の援護を受けて大友軍を撃退した[11]。この時の戦いで春忠も戦功を立てている[11]

永禄5年(1562年)、毛利元就から本城常光の誅殺を命じられた吉川元春は久利盛勝粟屋春由二宮俊実森脇春方らを派遣して、11月5日払暁に本城常光の陣所を襲撃[12]。本陣に突入した二宮俊実が本城常光と格闘して組み伏せ首を搔こうとした際に小早川隆景配下の兵が到着し、本城常光を討ち取ろうと押し寄せて二宮俊実の刀を打ち落としてしまったため、二宮俊実は折しも到着した春忠に対し、本城常光の首級は春忠に渡すので押し寄せる小早川兵を引かせてほしいと要望した[12]。春忠は二宮俊実の要望を受け入れて兵を引かせ、本城常光は二宮俊実によって討ち取られた[12]。本城常光の首級を受け取った春忠は、元就による首実検に本城常光の首級を供えた[12]

永禄6年(1563年)頃から隆景の側近として奏者を務める機会が見られ始める[10]

永禄8年(1563年4月17日、毛利軍による尼子氏の本拠・月山富田城に対する総攻撃において、春忠を含む小早川隆景の軍は菅谷口で尼子秀久本田家吉の軍と交戦し勝利した[13]4月28日に元就は持久戦へと転じるために全軍に退却を命じ、小早川軍が殿軍を務めることとなったが、毛利軍の動向を察知して追撃を行った一部の尼子軍に対して春忠が真っ先に迎え撃ち、原弥四郎を討ち取った[14]

同年8月から10月にかけて尼子方の出雲白鹿城攻めに加わり、10月に城主の松田誠保が降伏を申し出ると、松田誠保配下の平野又右衛門を人質としてとる一方、白鹿城兵の希望により降伏が完了するまで、春忠が白鹿城に入城することとなった[15]

永禄9年(1564年4月21日から毛利軍は月山富田城の攻撃を行うもなかなか城を攻め落とすことが出来ず、帰陣の際に城麓の出雲国能義郡中須において尼子軍の追撃を受けて苦戦したが、春忠が応戦して尼子軍の福間与一左衛門を討ち取る武功を挙げ、尼子軍の追撃を遁れることに成功した[16]

永禄10年(1567年)、翌年の永禄11年(1568年)4月の吉川元春と小早川隆景の伊予出兵に先立って、来島村上氏の村上吉継が守る伊予鳥坂城の救援のため、乃美宗勝や裳懸新右衛門らと共に出陣している[17]

永禄11年(1568年)の座配の序列では毛利氏からの家臣である桂景信が3位、岡就栄が12位、春忠が13位であるのに対し、小早川氏の譜代家臣である磯兼景道が4位、日名内慶岳が6位、真田景久が7位となっており、毛利氏出身者よりも小早川氏譜代家臣の奉行人の方が序列は上位にある[18]。この時期の隆景家臣団の権力構造は、儀式等の序列では伝統を重視する一方で、政務の中枢には毛利氏出身者を配置し、とりわけ春忠や粟屋盛忠飯田尊継といった側近層の台頭が見られ、隆景固有の権力基盤が形成されていった状況が窺われる[19]

永禄12年(1569年8月19日付けで朝山日乗織田氏の動向等を報じる書状の宛名の一人に春忠が含まれている[注釈 2][20]

同年、小早川隆景に従って北九州で大友軍と戦っていたが、大友宗麟の支援を受けた大内輝弘周防国侵攻(大内輝弘の乱)により、10月15日夜に毛利軍主力は大内輝弘討伐のため立花山城から撤退を開始[21]。撤退に当たっては春忠が終始並々ならぬ努力を払い、大友軍による追撃を防いだ[21]

元亀元年(1570年)、尼子再興軍の米原綱寛が守る高瀬城の攻撃することとなったが、高瀬城の守りが堅固であったことから毛利輝元は強襲を避け、高瀬城内が兵糧の欠乏で苦しむのを待つ持久策を取るために7月27日に稲薙を行った[22]。稲薙が一段落し、毛利軍が撤退する際に高瀬城の尼子軍が追撃してきたが、小早川軍に属する春忠が応戦し、撃退した[22]

元亀2年(1571年6月14日に毛利元就が死去すると、毛利家中において人心は動揺し、様々な流言雑説が流れており、その一例として毛利輝元に対し赤川元房のことを讒言する者がいた[23]。赤川元房は輝元に釈明する前にまず春忠に内々に相談したが、相談を受けた春忠からそのことを上申された隆景は元亀3年(1572年)閏1月29日に赤川元房に書状を送り、「そのようなつまらない雑説を取り上げて輝元に釈明すればかえって事を荒立てる恐れがある。なおも雑説を申す者がいればいつでも春忠を遣わすので、夜中であってもお知らせ願いたい」と伝えた[24]。その後、赤川元房についての雑説を知った輝元は密かに元房に対して懇ろに言葉をかけ、赤川元房についての噂は静まったため、同年2月6日に隆景は赤川元房に書状を送り、事態が収束したことについて慶賀の辞を述べている[25]

天正4年(1576年)、石山本願寺から兵糧補給要請を受けた毛利輝元は、乃美宗勝児玉就英を主将とし[26]、その他に福間元明、井上春忠、村上元吉村上吉充ら安芸・備後・伊予の水軍に700~800艘の警固船を率いて東航させ、同年6月には淡路国津名郡岩屋を占拠して十分に準備を整えた後の7月12日に岩屋を出発し、和泉国和泉郡貝塚雑賀衆と合流し、翌7月13日住吉を経て木津川口において織田氏配下の水軍と激突[27]焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により織田水軍は壊滅し、無事に石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功した(第一次木津川口の戦い[28]足利義昭は毛利方の勝利を「西国移座始勝利」として、同年10月15日に輝元と隆景を通じて乃美宗勝、児玉就英、井上春忠の木津川口における戦功を賞した[29][30]

天正10年(1582年)、周防国玖珂郡由宇における兵糧調達や所領支配において横見景俊鵜飼元辰と共に奉行人を務めた[31]

天正11年(1583年)、毛利氏と織田氏との領境決定のために、羽柴秀吉蜂須賀正勝黒田孝高備前国岡山に派遣し、一方の毛利氏では、毛利輝元が渡辺長児玉元良を、吉川元春児玉春種を、そして小早川隆景は春忠を岡山に派遣して共同で交渉に当たらせている[32]

天正13年(1585年)、主君・隆景が羽柴秀吉に謁見するため上洛した際は随伴した。

天正15年(1587年)、前年の天正14年(1586年)からの九州平定の功により、隆景に筑前国を与えられた際は、「御奉行衆」の一人として博多の復興や名島城城下町の整備を指揮した。同年、筑前国怡土郡雷山大悲王院御笠郡横岳山崇福寺といった寺社領や中小領主領における土貢を確定する作業において鵜飼元辰や桂景種と共に奉行人を務めた[33]

天正16年(1588年)7月、豊臣政権に臣従するために毛利輝元、小早川隆景、吉川広家が揃って上洛した際に、春忠も隆景に従って上洛した。同年9月5日豊臣秀長の招きにより、輝元が隆景や広家らを従えて大和郡山城を訪れると、安国寺恵瓊細川藤孝、黒田孝高、大谷吉継も同席した盛大な饗宴が開かれ、毛利氏重臣の福原元俊口羽春良、渡辺長、小早川氏重臣の春忠、吉川氏重臣の今田経高も末席の縁側に陪席を許された[34]

天正17年(1589年)から天正19年(1591年)までの毎年正月には、名島城で隆景、春忠、乃美宗勝、鵜飼元辰桂景種手嶋景繁らが交替で主催者となり、博多商人である神屋宗湛を迎えて連日茶会が開催されたことが「宗湛日記」に記されている[35]

天正19年(1591年)、桂景種や鵜飼元辰と共に打渡坪付に署名している[36]

隆景の死と毛利氏家中編入

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慶長2年(1597年6月12日三原城において隆景が急死すると、隆景が有していた毛利氏領国内の約5万石と豊臣秀吉から与えられている筑前国内の約5万石の所領と遺臣たちの処遇についてが問題となり、秀吉の判断を仰ぐことが必要となった[37]。この時、毛利輝元は隆景の遺領のうち毛利氏領国内の約5万石分をそのまま毛利氏の所領として編入すると共に、隆景の遺臣も毛利氏家臣団に編入することを秀吉に言上したと推測されており、7月16日に秀吉は遺領については輝元の言上通りにするが、遺臣については小早川秀秋の家臣とする意向を示した[38]。隆景の遺臣を小早川秀秋の家臣とする秀吉の判断は、この頃秀秋が重臣の山口宗永との関係が悪化したことで、秀秋を支えて領国統治を担う人材を必要としていたためと考えられている[39]

これに対し、井上春忠・景貞父子、鵜飼元辰、末長景直包久景相粟屋景雄、桂景種の7名は12月6日毛利元康に宛てて連署起請文を提出し、毛利氏家臣団への編入を要望した[39][40]この7名の内、末長・包久は旧小早川家系の、井上・鵜飼・粟屋・桂は旧毛利氏系の小早川氏家臣の代表格であり、毛利氏が秀吉と和睦する以前からの家臣の多くは沼田や竹原を中心とする毛利氏領国内に権益を有しており、小早川秀秋の家臣となるとその権益を失ってしまうことも毛利氏家臣団への編入を要望した理由と考えられている[41]

慶長3年(1598年)に小早川秀秋が筑前国と筑後国から越前国加賀国へと移封される方針となると、秀秋が家臣に配分できる所領が減少し、隆景の遺臣の全てを受け入れる余裕はなくなった[42]。一方で、隆景の毛利氏領国内と筑前国の隠居領からの収益で賄われていた隆景の家臣団を毛利氏領国内のみで賄うことは出来ず、専制化を進めて直轄地の増加を図っていた輝元も隆景の遺臣全てを受け入れることには消極的だった[42]。そのため、この問題の解決には秀吉との調整が必要であったが、秀吉の病状が悪化して明確な判断を下すことが出来なかったことで問題解決は長引いた[43]

同年8月1日、秀吉の病状が一時回復したため開かれた諸大名を集めた興行の場で、隆景の遺領と遺臣の問題についての秀吉の判断が下された[43]。その判断では三原等の毛利氏領国内の隆景の遺領は吉川広家に与えられ、隆景の遺臣は吉川広家に代わって出雲国と石見国を与えられる毛利秀元の家臣として編入されることとなった[43]。これは与えられる領地に見合った家臣数を持たない秀元家中への対応策であると共に、直轄地の減少を押さえたい輝元の意向に沿う裁定であったと推測されている[43]。しかし、その後すぐに秀吉の病状が悪化すると、秀吉の死が近いことを察した吉川広家が長門国一国と隆景遺領の内の1万石程度を広島堪忍領として拝領すると共に残りの隆景遺領は秀元領となる予定の出雲国や石見国に所領を有していた輝元の馬廻衆の代替地にすることを提案するなど、秀吉の裁定を有名無実化する動きを見せ、8月18日に秀吉が死去すると秀吉の裁定は白紙化されてしまった[43]。その後、隆景の遺臣は春忠を含む毛利氏家中に属した者、小早川秀秋に仕えた者、帰属先が決まらず石田三成が引き取った者の3つに分かれることとなり[43]、春忠にとっては隆景に仕えるようになってから47年ぶりとなる毛利氏への帰参となった。

同年9月6日付けの輝元書状によると、輝元は側近の木原元定を三原に派遣して包久景相や春忠らを含む三原に残留した隆景遺臣(三原衆)と相談の上で三原の統治に当たらせており、その後、三原衆は隆景の遺領において給地を与えられ、備後国における番所普請に動員される等、まとまって夫役を務めている[44]

慶長4年(1599年2月6日に輝元が春忠と木原元定に書状を送り、国割の事について佐世正勝を派遣して各々へ申し届けて法度以下も堅固に申し付け、鵜飼元辰もやがて派遣するので相談するように命じており、隆景遺臣が輝元権力の強い統制下に置かれていることが分かる[44]

同年閏3月に石田三成が失脚すると毛利秀元への知行分配案が見直され、秀元は長門国一国と隆景遺領を要求したが、輝元は長門国の領有は認める一方で隆景遺領については認めなかった[44]。また、三成が失脚したことで、北部九州に残って三成の指揮下で活動していた隆景遺臣たちも毛利氏家中に編入されていき、慶長4年(1599年)末には小早川秀秋に仕える日野景幸清水宗之らを除く隆景遺臣のほとんどが毛利氏家中に編入されることとなった[45]

毛利氏出奔

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慶長4年(1599年)、毛利輝元が福原広俊徳川家康のもとに派遣して嫡男・松寿丸(後の毛利秀就)着袴の儀を依頼し、4月13日には家康の承諾を得たため、準備を整えた松寿丸は8月初旬に大坂へ向けて出発したが、その途中に備後国三原に立ち寄り、春忠の屋敷に宿泊して多大な饗宴を受けている[46]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、毛利氏が長門国と周防国の2ヶ国に減封されると、輝元は所領削減に対応するために毛利氏への忠誠が薄い者が多いと見なした隆景遺臣の多くを防長2ヶ国への移封に随伴しないこととしたため、随伴した隆景遺臣たちにとって毛利氏家中は居心地の良いものではなかったと思われ、春忠と嫡男の景貞は関ヶ原の戦い以後に細川忠興に仕えた隆景遺臣である村上景広包久景真三刀屋氏から、毛利氏家中において我慢することができなければ細川家へ来るようにとの誘いを受けたが断った[47]

春忠の嫡男・景貞と粟屋景雄についてはその動向について怪しむ噂が流れていたことから、粟屋景雄の兄弟である粟屋元貞を通じて自重するよう働きかけられており、慶長6年(1601年10月10日に井上景貞は佐世元嘉に起請文を提出して、春忠共々出奔の意思を否定し毛利氏に残る意思を表明している[48][49]

しかし、同年11月に粟屋景雄が毛利氏を出奔し、閏11月には春忠・景貞父子も毛利氏を出奔した[48]。春忠・景貞父子の出奔について粟屋元貞は閏11月15日の朝に福原広俊から伝えられており、元貞は起請文を提出して自らは毛利氏を出奔する意思が無いことを示した[48]

春忠のその後の消息については、文化13年(1816年)に成立した毛利氏家臣の系図をまとめた『長陽従臣略系』によると関ヶ原の戦いで伊予国松山20万石に加増転封された加藤嘉明に仕えて同地で死去したと記されており、小早川隆景に仕えて伊予国内に精通していた春忠父子の能力を買った加藤嘉明に仕官を誘われたと推測される[50]

伊予国で死去した春忠とは異なり、嫡男の景貞は加藤氏からも離れて大坂で死去した[50]。景貞の子である井上元景は毛利氏に帰参して初めは長府藩、後に萩藩(長州藩)に仕えたが、元景の子である井上就相の代に断絶した[50]。就相の弟の瀬兵衛広島藩浅野家に仕えて1000石を与えられ、子孫は広島藩士として続いた[50]。次男・宗右衛門三原に土着して、江戸時代には角屋姓を名乗って商人となった。

関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「あはい」からの書状は「井上弥四郎」に対して送られており、『広島県史』ではこの「井上弥四郎」を井上就正に比定しているが、天正22年(1553年8月2日付けの小早川隆景書状で春忠が「井上弥四郎」と呼ばれている等、安芸井上氏粛清時に「井上弥四郎」と名乗っていた人物は春忠の蓋然性が高いと光成準治は指摘している[3]
  2. ^ 朝山日乗の書状の宛名に記された人物は以下の通り。元就様(毛利元就)隆景(小早川隆景)元春(吉川元春)輝元(毛利輝元)福左(福原左近允貞俊)口刑(口羽刑部大輔通良)桂左(桂左衛門大夫就宣)熊兵(熊谷兵庫頭信直)児三右(児玉三郎右衛門尉元良)井遠(井上遠江守)井但(井上但馬守就重)天紀(天野紀伊守隆重)井又(井上又右衛門尉春忠)山越(山県越前守就次)

出典

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  1. ^ 『閥閲録』巻52「井上源三郎」家譜。
  2. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 149.
  3. ^ a b c d e 光成準治 2019, p. 63.
  4. ^ 光成準治 2019, p. 118.
  5. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 157.
  6. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 158.
  7. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 203.
  8. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 223.
  9. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 398.
  10. ^ a b c d e 光成準治 2019, p. 64.
  11. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 525.
  12. ^ a b c d 毛利元就卿伝 1984, p. 421.
  13. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 451.
  14. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 452.
  15. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 435.
  16. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 458.
  17. ^ 光成準治 2019, p. 132.
  18. ^ 光成準治 2019, pp. 66–67.
  19. ^ 光成準治 2019, p. 67.
  20. ^ 『益田家文書』第295号、永禄12年(1569年)8月19日付け、(朝山)日乗書状。
  21. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 565.
  22. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 606.
  23. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 5–6.
  24. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 6.
  25. ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 6–7.
  26. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 136.
  27. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 85.
  28. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 86.
  29. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 89.
  30. ^ 『閥閲録』巻11「浦図書」50号、天正4年比定10月15日付、小早川左衛門佐(隆景)殿宛て足利義昭判物。
  31. ^ 光成準治 2019, p. 69.
  32. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 298.
  33. ^ 光成準治 2019, p. 173.
  34. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 403.
  35. ^ 本多博之 1996, p. 81.
  36. ^ 光成準治 2019, p. 70.
  37. ^ 光成準治 2019, pp. 224–225.
  38. ^ 光成準治 2019, pp. 225–226.
  39. ^ a b 光成準治 2019, p. 226.
  40. ^ 『毛利家文書』第1191号、慶長2年(1597年)12月6日付け、(毛利)元康様宛て、井上伯耆入道紹忍(井上春忠)・鵜飼新右衛門入道紹達(鵜飼元辰)・末長七郎左衛門尉景直・包久次郎兵衛尉景相・粟屋四郎兵衛尉景雄・井上五郎兵衛尉景貞・桂宮内少輔景種 連署起請文。
  41. ^ 光成準治 2019, pp. 226–227.
  42. ^ a b 光成準治 2019, p. 234.
  43. ^ a b c d e f 光成準治 2019, p. 235.
  44. ^ a b c 光成準治 2019, p. 241.
  45. ^ 光成準治 2019, p. 242.
  46. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 566.
  47. ^ 光成準治 2019, p. 273.
  48. ^ a b c 光成準治 2019, pp. 272–273.
  49. ^ 『毛利家文書』第1202号、慶長6年(1601年)比定10月10日付け、佐石(佐世石見守元嘉)様宛て井上五郎兵衛尉景貞起請文。
  50. ^ a b c d 光成準治 2019, p. 274.

参考文献

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  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-3 毛利家文書之三』東京帝国大学、1922年12月。 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。 
  • 本多博之豊臣政権下の博多と町衆」 秀村選三編『西南地域史研究 第十一輯』、1996年2月。71-104頁。国立国会図書館デジタルコレクション
  • 新人物往来社 編『小早川隆景のすべて』新人物往来社、1997年11月。ISBN 4-404-02517-3 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第22-1 益田家文書之一』東京大学史料編纂所、2000年3月。 
  • 光成準治『小早川隆景・秀秋―消え候わんとして、光増すと申す―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年3月。ISBN 978-4-623-08597-2 
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻11「浦図書」、巻52「井上源三郎」