伊藤政之助
伊藤 政之助(いとう まさのすけ、1877年(明治10年)8月21日[1][2] - 1954年(昭和29年)8月27日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]秋田県出身[1][2][3]。農業・伊藤四郎兵衛の長男として生れる[1]。小学校4年中退を経て、1897年(明治30年)8月、陸軍教導団歩兵科を卒業[1]。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業[1][2][4]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第16連隊付となる[1][4]。1904年(明治37年)2月、歩兵第15旅団副官に就任し、翌月から1905年(明治38年)12月まで日露戦争に出征した[1]。
1905年12月、陸軍戸山学校教官に就任[1]。歩兵第66連隊中隊長を経て、1915年(大正4年)6月、歩兵少佐に進み歩兵第5連隊付となる[1]。1916年(大正5年)4月、歩兵第26連隊大隊長に転じ、1918年(大正7年)8月から1919年(大正8年)4月までシベリア出兵に従軍し、歩兵中佐に昇進して歩兵第27連隊付となる[1]。1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に進級して若松連隊区司令官に就任[1][3]。1925年(大正14年)5月1日、若松連隊区の廃止に伴い歩兵第29連隊付に発令[5]。同年8月、近衛師団司令部付(東京商大配属将校)となり、1928年(昭和3年)8月、陸軍少将に進級と同時に待命となり、同月予備役に編入され、1940年(昭和15年)4月に退役した[1][2][3]。
その後、1941年(昭和16年)立命館大学国防学研究所員となった[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
著作
[編集]- 『現地戦術』上・下巻、陸軍士官学校将校集会所、1915年。
- 『憂国の叫び大講演集』宮本武林堂、1925年。
- 『戦術戦史講話』同文館、1926年。
- 『名将奈破崙の戦略と外交』同文館、1927年。
- 『軍事講話世界大戦』兵用図書、1930年。
- 『軍事科学講座 第3篇』文藝春秋社、1932年。
- 『現代の陸軍』大日本図書、1936年。
- 『世界戦争史』全10巻 戰爭史刊行會、 1939年。(1984年 - 1985年に原書房より再刊)
- 『ナポレオン戦史』(国防科学叢書 ; 26) ダイヤモンド社、1942年。
- 『西洋近代戦史』(国防科学叢書 ; 27) ダイヤモンド社、1942年。
- 『戦略と戦術』皇国青年教育協会、1942年。
- 『奈破翁と秀吉の戦略比較論』(総力戦叢書 ; 第4冊) 冨山房、1943年。
- 『決戦 軍略 史話』内外書房、1943年。
- 『輓近十大戰爭』歐亞通信社、1944年。
- 共著
- 冨岡直方『白虎隊』三省堂、1939年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、140頁。
- ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』89頁。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』173頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』165、173頁。
- ^ 『官報』第3806号、大正14年5月2日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」37頁。
- ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
- ^ 『官報』第478号「叙任及辞令」1928年7月31日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。