伊藤祐洋
いとう じろざえもんすけひろ 伊藤 次郎左衛門祐洋 | |
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生誕 | 伊藤洋太郎 1932年7月28日 愛知県名古屋市 |
死没 | 2018年7月2日(85歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部政治学科 |
職業 | 実業家 |
親 | 16代目・伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲) |
伊藤 次郎左衛門祐洋(いとう じろざえもんすけひろ、1932年(昭和7年)7月28日 - 2018年(平成30年)7月2日 )は、の日本の実業家。17代当主、松坂屋社長。
来歴・人物
[編集]16代目・伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲)の長男として[1]、愛知県名古屋市に生まれる[2]。
1955年、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、阪急百貨店入社[2]。
1958年2月、松坂屋に転じ、1961年10月に取締役に選任され、常務、専務を経て、1968年9月に副社長となる。この間、1967年1月から名古屋青年会議所の理事長を1期務める。
1980年5月、16代目は任期半ばの弟・伊藤鈴三郎に辞任を迫り[1]、長男・洋太郎を社長の座に据える[2][3]。この社長交代劇は、伊藤家の「宮廷革命]と呼ばれた[4]。
1984年12月、16代目が死去し、会長が空席になると、翌年1月に副社長だった鈴木正雄が会長に就任した[5]。社長の洋太郎にこの昇格人事案は直前まで知らされておらず、洋太郎は異を唱えたが、役員会の賛成多数で押し切られ[5]、4月22日開催の臨時取締役会で、社長を解任して会長にし、鈴木が社長に就任する議案が決議された[5]。これに対し洋太郎は社長室に籠城し、決議無効を主張したという[5]。さらに洋太郎の会長就任と同時に、弟の伊藤千次郎・武三郎も松坂屋の取締役を退任させられた[6]。 洋太郎は失地回復のために、17代目・次郎左衛門を襲名したが、「時すでに遅し」だった[6]。1991年5月、鈴木が社長を譲り会長になると17代目は、名誉会長という名ばかりの役職に祭り上げられた[6][2]。
2018年7月2日、名古屋市の病院で病気により死去[7]。85歳没。
親族
[編集]17代目の長男・伊藤哲也は、松坂屋への入社を希望したが、松坂屋の経営陣は「役職員の師弟は入社禁止」として、これを拒否した[6]。未来の18代目となるべき哲也は、三越への就職を余儀なくされたという[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 興信データ株式會社『人事興信録 第45版 上』興信データ、2009年。
- 菊地浩之『日本の15大同族企業』平凡社新書、2010年3月。ISBN 978-4582855166。
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