伊達宗村 (鎌倉時代)

 
伊達宗村
時代 鎌倉時代
生誕 承安3年(1173年)?
死没 建長3年10月3日1251年11月17日)?
別名 次郎、殖野為重?
諡号 念山公
戒名 持国院殿念山道正大居士
官位 従五位下
幕府 鎌倉幕府
氏族 藤原北家山蔭流伊達氏
父母 父:伊達朝宗常陸入道念西?) 母:結城氏
兄弟 伊佐為宗宗村中村資綱為家
為行、田手実綱延厳朝基寺本為保
大進局
義兄弟:中村朝定(伝 源義経の子)
時綱義広
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伊達 宗村(だて むねむら)は、鎌倉時代伊達氏2代当主。通称は次郎。官位従五位下。別名は殖野為重と伝わる。

略歴

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初代当主伊達朝宗の次男で、母は結城氏。伊達氏の初代当主という説[1]もある。戒名は持国院殿念山道正大居士。

常陸入道念西と宗村

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吾妻鏡』には、常陸入道念西が息子の為宗・為重・資綱為家と共に奥州合戦で功を立てて伊達郡を与えられた記述が見られる。これが伊達氏の勃興であり、一般に念西を朝宗、為重が後の2代当主・宗村であると言われている。しかし、伊達氏の古い系譜・文書には初代を宗村としているものが多数見られることから、新井白石は『藩鑑』に於いて朝宗の息子の宗村こそが念西であると見なしている。近代になってからは、松浦丹次郎『伊達氏誕生』(寂静院、1983年)で同様の見解が採られている。松浦は3代当主・義広は次男・為重の息子であり、祖父・念西の養子になったとしている。

近年では、宝賀寿男が朝宗と宗村は同一人物であり、更にはその系譜を『新編常陸国誌』を基にして、伊佐実宗 - 中村秀宗 - 助宗 - 朝宗(念西)とし、山陰流の朝宗と念西と呼ばれた朝宗を全くの別人との説を出している。義広は三男・資綱の息子であり、祖父・念西の養子になったと言う。いずれにせよ、初期伊達氏の系譜にはいまだ解明されていない部分が多く見られる。

系譜

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備考

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父・朝宗の築城と伝わる栃木県真岡市中村城には、伊達騒動を題材にしたNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のモデルになった古木がある。この古木は現在遍照寺の境内にあるカヤの古木で、昭和29年に栃木県指定天然記念物となった。文治5年(1189年)、宗村が、父・朝宗と共に源頼朝から奥州合戦における石那坂の戦いの恩賞として与えられた伊達郡信夫郡に赴く際に「宗村公奥州征伐の凱旋記念樹」として宗村が植樹したとするいわれがある[2]

脚注

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  1. ^ 『伊佐早本系図』『駿河伊達文書』『藩翰譜』『百家系図稿』『諸系譜』『藤氏飯田系譜』「中村城、中村神社の伝承」など
  2. ^ 遍照寺公式サイト「天然記念物 榧(かや) 」2017年8月14日閲覧。

関連作品

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関連項目

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