八重山 (通報艦)

八重山
基本情報
建造所 横須賀造船所[1]
(横須賀鎮守府造船部)
運用者  大日本帝国海軍
艦種 通報艦[2]
建造費 1,022,704.090[注釈 1]
母港 横須賀 (1906年時[3])
艦歴
計画 1885年度
発注 1886年6月15日訓令[4]
起工 1887年6月7日[5]
進水 1889年3月12日[6]
竣工 1890年3月15日[7]
除籍 1911年4月1日[1]
その後 売却
要目(計画)
排水量 計画:1,600ロングトン (1,626 t)[2]
または1,580ロングトン (1,605 t)[8]
竣工時:1,609.133ロングトン (1,635 t)[9]
垂線間長 96 m[2]
または317 ft 11 in (96.901 m)[8]
最大幅 10.500 m[2]
深さ 中甲板まで:4.060 m[2]
吃水 計画:4.600 m[2]
竣工時:前部10 ftin (3.150 m)、後部16 ft 4 in (4.978 m)[9]
ボイラー円缶 6基[8]
主機 横置3気筒3段膨張レシプロ 2基[8]
推進 2軸[10]
出力 強圧通風:5,400 hp (4,027 kW)[8][10]
自然通風:2,500 hp (1,864 kW)[10]
速力 強圧通風:20ノット (37 km/h)[8]
燃料 石炭:約270.5ロングトン (275 t)[11]
乗員 1889年7月定員:195名[12]
兵装 12センチ砲 3門[2]
機砲 8門 (うち2門は速射砲)[2]
魚雷発射管 2門[2]
装甲 水線:セルロース貼付[2]
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八重山(やえやま、旧仮名:やへやま)は、日本海軍通報艦[1]。 艦名は沖縄県八重山群島にちなむ[1]

概要

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日本海軍が初めて国内建造した通報艦で (ただし機関はフランスから輸入) [13]、 速力20ノットは当時ではかなりの優速だった[14]。 設計はベルタンが行い[13]1889年 (明治22年) に横須賀で進水した[1]

日清戦争日露戦争に従軍し[1]1911年 (明治44年) に除籍された[1]

艦型

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機関

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機関はイギリスホーソン・レスリー社で製造された[8]ボイラーは低円缶 (片面[15]) 6基[8]真鍮製で長さ18 ft (5 m)、直径8 ft 4+58 in (2.556 m)[16]。 または、長さ18 ft (5.486 m)、幅8 ft 8 in (2.642 m)[17] (もしくは直径8 ft 6 in (2.591 m)[18]) とする資料もある。 炉筒はボイラー1基につき3個で、直径2 ft 10 in (0.864 m)、長さ6 ft 11+38 in (2.118 m)[18]。 蒸気圧力は150 psi (11 kg/cm2)[17]、 または10.55kg/cm2[16]

主機は横置3気筒3段膨張レシプロ 2基で、日本海軍で初めての3段膨張機械だった[8]。 気筒の直径は計画で高圧28.5 in (724 mm)、中圧43 in (1,092 mm)低圧64 in (1,626 mm)、行程33 in (838 mm)[17]。 『帝国海軍機関史』では高圧31 in (787 mm)、中圧46 in (1,168 mm)低圧68 in (1,727 mm)、行程28 in (711 mm)とある[19]復水器真鍮製円筒形の表面復水器2基を装備した[19]

推進器は青銅製3翼グリフィス型で直径10 ft 6 in (3.200 m)、ピッチ16 ft (4.877 m)、翼の展開面積は72平方フィート (6.7 m2)[18]。推進器直径11 ft (3.353 m)の記録もある[20]

発電機としてグラム式70V100A発電機2基を装備、発電機は回転数340rpmだった[21]

公試成績

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1890年 (明治23年) 3月1日に公試運転を実施、計画出力 (5,400馬力) に届かなかったが、当日は記録が途中までしか出来なかったこと、石炭消費量が計画より少なかったこと、試運転では5,800馬力以上を出したなどを考慮し、条件がそろえば計画出力が出せるだろうから問題無いと公試委員は判断した[22]

実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
強圧通風全力 152 rpm 5,360馬力 19ノット [8]

艦型の変遷

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ボイラー換装

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ボイラーは長年の使用により炉筒が圧潰するほど老朽化、1901年 (明治34年) 6月から横須賀海軍造船廠フランスから購入したニクロース式水管缶8基に交換した[23]。 蒸気圧力は185 psi (13.0 kg/cm2)に上昇した[18]。 また缶室前方に64ロングトン (65 t)[11]の石炭庫を新設するなどの改造を行った[23]

実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
強圧通風全力 155.5 rpm 5,067馬力 19.4ノット [23]

燃料

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ボイラー換装後の石炭搭載量は以下の資料がある。

  • 1902年時:約334.5ロングトン (340 t)[11]
  • 1904年調:340ロングトン (345 t)[24][25]
  • 1906年調:344ロングトン (350 t)[3]

主要要目

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  • 1906年調:排水量1,584ロングトン (1,609 t)[26]、垂線間長317 ft 11+116 in (96.903 m)、最大幅34 ft 5+38 in (10.500 m)、吃水13 ft 4 in (4.064 m)[3]

兵装

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1897年 (明治30年) 時の砲熕兵装は以下の通り[27]

  • 安式40口径12センチ速射砲 3門
  • 保式47ミリ軽速射砲 8門

1901年 (明治34年) 時の水雷兵装は以下の通り[28]

  • 加式匕形旋回水雷発射管 2門
  • 朱式魚雷 4本

座礁の修理期間を利用して1903年 (明治36年) から翌年に兵装を更新した[29]。 更新後の砲熕兵装は以下の通り[30]

  • 12センチ速射砲 3門
  • 12ポンド速射砲 3門
  • 47ミリ軽速射砲 4門

砲熕兵装変更に伴い船尾楼甲板にある探照灯台の位置を変更した[30]。 上甲板右舷の副長室と側器室を無線電信器室に改造し、電信機を設置した[31]。 メイン・マストを鋼製に変更、トップマストと無線用ガフを新設、ガフの高さは上甲板から上端まで (最低) 150 ft (46 m)[32]。 また前後マストにそれぞれ信号ヤードを新設した[33]

艦歴

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1887年 (明治20年) 6月7日に横須賀海軍造船所で起工[5]1889年 (明治22年) 3月12日に命名式を執行し、「八重山」は進水した[6]。 命名式には明治天皇が臨席した[6]。 同月より機関の陸上試験を実施、12月に機関の据付工事はほぼ完了した[34]1890年 (明治23年) 3月1日に公試運転を実施[22] (#公試成績も参照) 。3月13日、工事未了ながら現状のまま引き渡すよう令達され[35]、 3月15日に艦長へ引き渡された[7][36] (竣工[1])。 以後は修理費で工事が続けられた[36]

8月13日、日本海軍は所属艦船に種別を定め[注釈 2]、 「八重山」は8月23日に第一種 (戦闘航海の役務に耐えうる軍艦) と定められた[37]

同年9月、オスマン帝国軍艦「エルトゥールル」が樫野埼で難破すると「八重山」が救援に派遣された[38]

日清戦争では、韓国派遣陸軍部隊の揚陸援護、大連旅順威海衛攻略作戦等に参加。

1895年 (明治28年) 10月、日本領となった台湾において抵抗した中国人がイギリス商船「テールス」に逃げたため、「八重山」がこれを追跡して臨検を行うという事件が起きた。これが公海上で行われたことからイギリスから抗議を受け、外務省は海軍に対して責任者の処罰を要求した。その結果、艦長の平山藤次郎海軍大佐と上司の常備艦隊司令長官、有地品之允海軍中将予備役に編入することで解決が図られた。

1898年 (明治31年) 3月21日、軍艦及水雷艇類別等級が制定され、「八重山」は通報艦に類別された[39]北清事変においては、大沽に派遣された。

1901年 (明治34年) 6月から翌年3月まで大修理を行った[40]

1902年 (明治35年) 5月1日、海防艦武蔵」が暴風のため根室湾口で座礁したため、その救助任務中の5月11日、暴風のため根室港厚岸鼻北方で座礁し、9月1日に離礁した。 10月から翌年6月まで横須賀造船廠で修理改造を行った。

日露戦争に際しては、主に第三艦隊第五戦隊所属艦として旅順攻略作戦、黄海海戦(修理中の「龍田」の代理として第一艦隊第一戦隊に所属)、日本海海戦樺太作戦等に参加。 1911年 (明治44年) 4月1日に除籍[1]、 艦艇類別等級表からも削除された[41]。 12月21日に売却処分の訓令が出され[42]、 翌1912年 (明治45年) 売却、3月23日買受人に引き渡された[43]

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 三浦功 大佐:1889年8月2日 - 1891年8月28日
  • 平山藤次郎 大佐:1891年8月28日 - 1893年10月12日
  • 平山藤次郎 大佐:1894年5月25日 - 1895年12月14日
  • 鹿野勇之進 大佐:1895年12月24日 - 1896年4月13日
  • 外記康昌 大佐:1896年4月13日 - 8月7日
  • 東郷正路 大佐:1897年3月9日 - 4月17日
  • 橋元正明 大佐:1897年5月15日 - 1898年3月1日
  • 酒井忠利 大佐:1898年3月1日 - 9月1日
  • 松枝新一 中佐:1898年9月1日 - 1899年3月22日
  • 大井上久麿 大佐:1899年3月22日 - 6月17日
  • 松本和 中佐:1899年6月17日 - 1900年5月20日
  • 梶川良吉 中佐:1900年6月7日 - 12月24日
  • 徳久武宣 大佐:1901年4月23日 - 6月10日
  • 西山実親 中佐:1904年4月21日 - 1905年8月31日
  • 築山清智 中佐:1905年8月31日 - 12月12日
  • 藤田定市 中佐:1905年12月12日 - 1906年7月6日
  • 真野巌次郎 中佐:1906年7月6日 - 9月28日
  • 上村経吉 中佐:1906年9月28日 - 1907年7月1日
  • 中島市太郎 中佐:1907年7月1日 - 1908年4月7日
  • 松岡修蔵 中佐:1908年4月7日 - 12月10日
  • 堀内権三郎 中佐:1908年12月10日 - 1909年12月1日
  • 向井弥一 中佐:1910年1月15日 - 12月1日
  • 河瀬早治 中佐:1910年12月1日 -

脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ #M39公文備考26/雑款(2)コマ23-36、大日本帝国軍艦一覧表 (明治38年調)に記載の値。船体機関並定備予備品費858,953.793円、兵器費163,750.297円。
  2. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.59、明治23年8月23日 (達291) 海軍艦船籍條例第二條。
    • 第一種 (戦闘航海の役務に耐えうる軍艦)
    • 第二種 (水雷艇)
    • 第三種 (戦闘航海の役務に耐えざる軍艦)
    • 第四種 (運送船曳船小蒸気船)
    • 第五種 (倉庫船荷船雑船)

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i #艦船名考(1928)p.62、「八重山 やへやま Yaeyama.」。
  2. ^ a b c d e f g h i j #横須賀海軍船廠史(1973)第3巻p.34、八重山艦要領。
  3. ^ a b c #M39公文備考26/雑款(2)コマ23-36、大日本帝国軍艦一覧表 (明治38年調)に記載の値。
  4. ^ #公文備考別輯/八重山(1)コマ1-2、明治19年艦新第6号の4。
  5. ^ a b #公文備考別輯/八重山(1)コマ51、明治20年陽39套第17号。
  6. ^ a b c #横須賀海軍船廠史(1973)第3巻p.33。
  7. ^ a b #公文備考別輯/八重山(6)コマ30、明治23年八重普第77号。
  8. ^ a b c d e f g h i j #帝国海軍機関史(1975)上巻p.536。
  9. ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第3巻p.85、八重山艦要領。
  10. ^ a b c #公文備考別輯/八重山(3)コマ8、汽機の種類。
  11. ^ a b c #平賀アーカイブ/八重山ニ就テコマ25、軍艦八重山石炭庫無い現在高。
  12. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.176、明治22年7月27日(達290)千代田八重山定員
  13. ^ a b #日本近世造船史明治(1973)p.300。
  14. ^ #日本近世造船史明治(1973)pp.300-301。
  15. ^ #公文備考別輯/八重山(3)コマ61。
  16. ^ a b #M33公文備考11/呉鎮守府所管軍艦修理改造新設(1)コマ75。
  17. ^ a b c #公文備考別輯/八重山(3)コマ58,61。
  18. ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)上巻p.538。
  19. ^ a b #帝国海軍機関史(1975)上巻p.537。
  20. ^ #公文備考別輯/八重山(3)コマ24。
  21. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.539。
  22. ^ a b #公文備考別輯/八重山(6)コマ22-27。
  23. ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.536-537。
  24. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
  25. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.281、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
  26. ^ #M39公文備考26/雑款(2)コマ15。
  27. ^ #M30公文雑輯6/横須賀29年度艦砲射撃成績一覧表コマ5。
  28. ^ #M34公文雑輯7/軍艦八重山水雷発射成績表コマ1-3、水雷発射成績表。魚雷番号2129,2249,2934,2797。
  29. ^ #M36公文雑輯7/八重山兵装改正の件コマ3,6、横鎮第919号。同コマ1、明治36年11月10日海総第3544号。
  30. ^ a b #M36公文雑輯7/八重山兵装改正の件コマ9-10
  31. ^ #M36公文雑輯7/八重山兵装改正の件コマ11-12
  32. ^ #M36公文雑輯7/八重山兵装改正の件コマ12
  33. ^ #M36公文雑輯7/八重山兵装改正の件コマ13
  34. ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第3巻p.42。
  35. ^ #公文備考別輯/八重山(6)コマ28-29、明治23年官房第728号。
  36. ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第3巻p.85。
  37. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.59、明治23年8月23日(達304)。
  38. ^ 『日本海軍史 第1巻』94ページ
  39. ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.60-61、明治31年3月21日(達35)。
  40. ^ #M34公文備考13/艦船 6(1)コマ40、明治34年海総第2466号。
  41. ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.60-61、明治44年4月1日(達36)。
  42. ^ #M44公文備考56/売却払下廃却処分(3)画像20。官房第4435号「明治四十四年十二月二十一日 海軍大臣 横鎮司令長官 廃船舟売却処分ノ件 旧軍艦鎮遠、八重山及高雄ハ売却処分方取計フヘシ 但各船附属ノ錨及錨鎖ハ繋留上必要ナルモノノミヲ本船ニ残シ他ハ取外ノ上艦船繋留用品ニ保管○○ノ手続ヲ為スヘシ 右訓令ス(終)」
  43. ^ #M45(T1)公文備考33/売却払下(1)コマ44。

参考文献

[編集]
  • 浅井将秀 編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • アジア歴史資料センター
    • 防衛省防衛研究所
      • 「八重山(1)」『公文備考別輯 全 新艦製造部 八重山 明治19~23』、JACAR:C11081468600 
      • 「八重山(3)」『公文備考別輯 全 新艦製造部 八重山 明治19~23』、JACAR:C11081468800 
      • 「八重山(6)」『公文備考別輯 全 新艦製造部 八重山 明治19~23』、JACAR:C11081469100 
      • 「明治30年5月19日 29年度艦砲射撃成績一覧表進達の件」『明治30年 公文雑輯 巻6 演習』、JACAR:C10126089900 
      • 「軍艦八重山水雷発射成績表」『明治34年 公文雑輯 巻7 演習4』、JACAR:C10127352000 
      • 「36年11月10日 横鎮第919号軍艦八重山兵装改正無線電信装置及船体部改造新設の件」『明治36年 公文雑輯 巻7 兵器2止』、JACAR:C10127913500 
      • 「艦船 6(1)」『明治34年 公文備考 巻13 艦船6』、JACAR:C06091321100 
      • 「雑款(2)」『明治39年 公文備考 巻26 艦船17止』、JACAR:C06091757700 
      • 「売却払下廃却処分(3)」『明治44年 公文備考 艦船40 巻56』、JACAR:C07090178300 
      • 「売却払下(1)」『明治45年~大正1年 公文備考 巻33 艦船7』、JACAR:C08020047500 
  • 海軍省 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会(編)『日本海軍史 第1巻 通史第一・二編』海軍歴史保存会、1995年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 造船協会 編『日本近世造船史 (明治時代)』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 平賀譲デジタルアーカイブ
  • 横須賀海軍工廠 編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。 
  • 官報

関連項目

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