内海五十雄
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1914年2月19日 |
没年月日 | 1992年 |
身長 体重 | 172 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1938年 |
初出場 | 1938年5月1日 |
最終出場 | 1939年8月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について |
内海 五十雄(うつみ いそお、1914年2月19日 - 1992年[1])は、京都府[2]出身のプロ野球選手(内野手)。
東京巨人軍に在籍した。主な出場ポジションは一塁手であった。2024年より読売ジャイアンツの一軍投手コーチを勤める内海哲也は実孫。
来歴・人物
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 平安中学時代の1930年には伊藤次郎、岡村俊昭とともに春夏連続で甲子園に出場し、ともにベスト4[2]。
- 1938年に東京巨人軍に入団。同期入団した川上哲治、千葉茂、楠安夫、吉原正喜、三田政夫、岩本章、野村高義とともに「花の昭和13年組」と呼ばれていた。しかし、通算20試合出場で1安打に終わり、メンバー中最も実績を残せなかった。
- 『プロ野球ai』の2006年9月号に掲載された孫・哲也のコメントによると、「祖父は、小学校4年生のときに亡くなったんですけど、優しいおじいちゃんでした。残念ながら一緒に野球はした思い出はないんですよ」との事である。
- 巨人で最初に背番号26を付けた人物でもあり[3]、その後16人の選手が付けて、2004年に哲也に引き継がれた。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1938春 | 巨人 | 6 | 8 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .286 | .000 | .286 |
1938秋 | 12 | 19 | 16 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 2 | 0 | .063 | .211 | .125 | .336 | |
1939 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:2年 | 20 | 29 | 23 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | .043 | .214 | .087 | .301 |
背番号
[編集]- 26(1938年 - 1939年)
脚注
[編集]- ^ 内海五十雄 週刊ベースボールONLINE
- ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、84ページ
- ^ 背番号変遷(20番台)|読売巨人軍公式サイト - 東京読売巨人軍
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 内海五十雄 - NPB.jp 日本野球機構