内藤信義
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 明和2年(1765年) |
死没 | 不明 |
別名 | 保之助 |
官位 | 従五位下豊後守、越前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 旗本5000石 知行地:駿河国・富士郡および駿東郡 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 | 父:内藤信智、母:谷衛衝の娘 |
妻 | 酒井忠温の娘 |
子 | 養子:信政 |
内藤 信義(ないとう のぶよし)は、村上藩内藤家の分家当主。旗本。米沢藩主上杉重定の四男定興(内藤信政と改名)を養子とした。
天明2年(1782年)3月、18歳で内藤信庸の遺跡を継ぐ。同5年(1785年)12月9日、徳川家治に御目見し、翌6年(1786年)12月2日、中奧の小姓となる。同7年(1787年)、従五位下・豊後守に叙任された。
出典
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年