利用者:おーた

Wikipedia:バベル
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言語別の利用者

出自

電気メーカーの研究所で長く研究者をやり、その後も基本的にその分野で仕事をして生活してきました。論文審査で博士号(工学)もとっています。しかし、自分が専攻した領域では記事をほとんど編集していません。

それとは別に生活系の体験をネタにした著作が数冊あり、全国紙でコラムを半年間連載したこともあります。基本的に書くことが好きなのでしょう。Wikipediaに関わっているのもその延長だと思います。

それらとはさらに別に、近現代文学の領域で素人研究者をやった時代があります。

現在は、ビール醸造を仕事にしています。

関わった記事

キリスト教関係

キリスト教関係は結構関わりました。宗派の変遷史ばかりだったキリスト教の記事を他の編集者の方々と共同して現在の構成に書き換えたのはWikipedianとして良い初期体験だったと思っています。聖書の翻訳史関係の記事もかなり執筆させていただきました(聖書翻訳日本語訳聖書など)。カトリックで育ちましたので、無意識にその視点を持ち込みやすいのは自覚しています。(付け加えると田川建三の長年のファンでもありますので、キリスト教への愛憎の篭った罵倒に走りがちなことも自覚しています。)ことに宗教関係の記事は、宗派ごとの常識や思い込みが編集者間の対立を招きやすく、露骨なまでに「**派POV」な記述や、それを疑問とも思わない編集者に出会うと消耗することも確かなのですが、なるべく他編集者の立場を理解しながら作業を進めるようにしています。

サブカルチャー関係

たまたま文献が手元に揃っていたのでブニュエルタルコフスキーなどの映画関係に手を出したこともあります。アニメやマンガの作品・作家関係はスタブに手を出すことはありますが、現在のサブカルチャー関連コミュニティーの傾向とは相容れない記事観をもっているので基本的には手を出さないようにしています。ファンサイトと百科事典の区別がつかない多くの編集者の方々に対して、私はある種の諦観を抱いており、意見はしますが(時に露骨な皮肉や悪口に聞こえるかもしれませんが)邪魔はしません。ただ、関連の概念や用語で手を出した記事はいくらかあります。セカイ系は独自研究を書き込みたがる編集者たちの乱戦で荒れに荒れた記事のひとつですが、徹底した文献主義で大幅に書き換えて安定化させた事例のひとつだと思っています。しかし、サブカル系は概して文献に乏しく、満足のいく編集ができたと思えることはあまりありません。

その他

雑学なので、雑多な記事に手を出していますが、最も引っ張り込まれたのは上野千鶴子の記事でしょうか。あまりにも「風評記述」(誤解と曲解されたまま2chあたりで広まったものが多い)に満ちていたので、文献調査を厳密に行った上で記述を整理しましたが、それに反対する編集者から「上野千鶴子の信者」呼ばわりされました。思い込みの激しい、世に言う「ネット右翼」系の編集者なんだろうなと思っていますが、「信者」呼ばわりは止めて欲しいと思いました。一定分量の記事を執筆したり整理するときは、文献をきちんと集めて記述を吟味するという原則に忠実に従ったまでのことですから。私にとっては、上野千鶴子というのは「社会的影響力を持っている存命の社会学者の一人」に過ぎず、それに見合った記事にしようとしただけです。伝記・評伝の類がまだ書かれていない存命者の記述は、一次資料に遡った文献調査をしなければならないので、なかなか大変なことはこの一件でよく分かったので、あまり迂闊に手を出さないようにしています。

編集についての基本的な考え方

削除主義か包括主義か

よく言われる削除主義vs包括主義ですが、私は記事ごと分野ごとに判断が変わります。下らない記述ばかりで膨れ上がりそうな記事については削除主義者と言われかねないような言動をとることがありますし、今は大事に育てたほうが良いと思われた記事に対しては無闇な削除を止めさせる側に回ることもます。「原理主義を避ける」と言えばよろしいのかもしれません。それぞれの記事には、それぞれの記事固有の履歴があり関わった編集者たちの思いがあります。それを一律の原理で押し通そうというのは乱暴だし、愛の無い行為だと思います。百科事典編集に愛が必要なのか?と思われるかもしれませんが、Wikipediaが篤志で成立しているコミュニティーである以上、他の参加者と、彼らの成果物である記事に敬意を払うのは必要であり、すなわちその敬意が「愛」だと理解していただければと思います。

スタブでもよい場合

サブカル関係の幾つかの記事で主張したことですが、スタブのまま置いて後の加筆に委ねて良い記事はあると思います。「この分野に詳しい人にとっては、こんなところが常識の範囲である」と、その記事に関わった編集者たちが合意できれば、文献が無くても{{要出典}}をつけてそれを記事にしておいておけばよいと思います。(ときに捻くれ者が「そんなのは常識じゃ無い」と言い張ることもあるのですが、いままでのケースではそういう方々は投稿ブロックを受けて退場してしまいます。)ビキニアーマーはそのようにして、スタブとして残りました。(別に詳しいわけじゃなかったのですが、コメント依頼から見に行って、そのまま議論に参加してしまいました。つくづく物好きだと自分でも思います。)

記述削除を求める場合

ある程度の骨格ができて裏付けになる文献も出ている記事に対しては、下らない加筆は止めさせるべきだと(すなわち、そういう加筆は差し戻すべきだと)私は考えています。それまで積み上げてきた編集に対する、一種の冒涜だと考えるからです。もちろん、何が「下らな」くて、何がそうでないのかは編集者間で議論は必要でしょうから、それはきっちりやればよいです。ただ、ときたま見かける「自由に書き加えられるのがWikipediaの良いところだろう。削除はその理念に逆行している」という主張は、ただのワガママだと考えています。他の編集者が作業を重ねてきた記事の品質を下げる行為は慎むべきです。

大幅に書き直した方が良い場合

多数の編集者が書きたい放題になって無茶苦茶になった記事は大幅に書き換えてよいと思いますし、段階的に改善するよりは一気に書き換えたほうが良い場合が多々あると考えています。ただし、かなり気合をいれてかからないと壮絶なバトルと消耗戦に入るので簡単にはできませんけれども。私の場合は、文献を集めた上で原案を作成し、ノートで他の編集者と議論した上で書き換えを実行するということを何回かやりました(セカイ系など)。文献で固めた記事に対しては安易な書き込みは激減しますから、この書き換えに際しては出来るだけ多くの文献を付けておくことが必要です。(さもなくば、あっという間に、いろいろ書き込まれて元の状態に戻ります。)また、他の編集者との議論はあせらず、じっくりと取り組んで自説に固執しないことが記事の安定化には肝要かと思います。